怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

「ごめんね」の切り替え

2012-10-08 09:41:44 | 教育
(ちょっと書きかけだけれども、とりあえずアップ。あとで直します。)

何か人間関係のもめごとがあったとき、「ごめんね」「いいよ」で切り替える。
そのスキル自体は肯定したい知恵を感じる。
これをしっかりと身につけさせる幼児教育へ取り組まれている方々へは、敬意を表したいと思っているくらいだ。

「ごめんね」「いいよ」の応答。
これを字面通りに考えてもいい。
でも、ここでは少し斜に構えて考えてみたい。

私は、「ごめんね」は、ただ単に「詫びる」ということだけではなくて、受け手側に対する「現状を切り替えたい」というサインだと捉えたい。
いや、ここではそこを強調してみたい。

「ごめんね」の言葉の発声と同時に、頭を下げたり、へりくだる態度を示したりということも含めて、「ごめんね」というコトバを通して表現されるのは、結果的に起こった事実の正否についての自分の確認と理解の表現、そのことに対する態度を決めた結果でもあるけれど、潜在的に、あるいは無意識的にかもしれないが、相手に対してこれ以上の詮索や批判を避け、次の活動へ行きたいという発信側の願いが込められていると読み取れはしないかと、そう考えてみたい。

これは、他方で、周囲から見ている傍観者側からも納得できる態度になるし、ここで当事者側の関係の顛末がはっきりし、引きずって来た事例が打ち切りであることも理解させてくれる。
「ごめんね」と謝ったのだから、そこでその事例についての確認はおしまいなんだと、また、その後は責任関係の問題になり、その解決としての「ごめんね」が出たのだと解釈させてくれる。
そして、その後の解決への道筋は、受け手側にその全権をゆだねられた、ということになる。
そうでないと受け手側の責任で解決しないか、「ごめんね」を投げかけた側の恣意が入るかなどで、先々『この事』についてこじれ続ける可能性があるからだ。

例えば、具体的な説明を加えると、ここで「ごめんね」に対して、受け手側が「ゆるさない」となった場合、周囲にいる傍観者の子も含めて、受け手側に接続的な新たな問題が発生したと理解することになる。
その多くの場合が、傍観者側にとっての解決策を想像すれば、「どうしてゆるさないのか?まだ、『ごめんね』の前に確認したいこと、いいたいことがあるのか?」や「意地を張っていないで『いいよ』で済ませなよ」ということになる。
受け手側にとってみれば、「いいよ」で打ち切りたくない想いがあるか、そうすることで投げかけ側へ何らかの意思表示をする意味が生じるのだ。

「いいよ」という受け手側について注目してみると、同じだ。
ここで「いいよ」ということで、この事例を通して、関係性について一定の優位性を得る事で手を打つ道を得るのだ。
また、「ゆるさない」とした場合、この事例に関して、責任を一手に引き込むことになり、逆に苦しい立場に立たされる事は必至になるのだ。

この手の問題が発生した時、先生や親、あるいは友達集団など、上位の人の管理下にないと「ゆるさない」という子がときおりいるが、それは、この責任を引き受けたところで、その事自体で苦しむ可能性が少ないと気づいているからだ。
相手を許さない方が、相手を苦しめ、自分の優位が保証されるからだ。
ときに、「あの子が『いいよ』をいってくれない。」という訴えに遭遇することがあるが、それは、そういう場合なのだ。
そう言ってきたこの子にとって、次へいくことを阻止されたことは、とても苦しいことなのだ。
「いいよ」を言わない側には、そうやってでも相手を罰したい感情があり、相手が腹を受けた犬の様に全権降伏しているのに、相手の腹を踏みつけたままにらみつけているのだ。
そうやって上下関係を継続することで相手を苦しめ、お互いの時間を止める事に固執し、自分の感情のやり場を別なカタルシスにおきかえられないかと模索しているのだ。

「ごめんね」「いいよ」の関係には、実はそういった事例の根本解決とはほど遠い人間関係のやりとりの感情性がある。