怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

「学級崩壊」(荒れる子どもは何を求めているの)高文研2011.06

2011-06-15 23:28:47 | 教育書
学級崩壊 荒れる子どもは何を求めているの

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著者の一人である山崎さんからいただいた本。

学級崩壊を教師側の視点で捉えた、ある意味、今までにあまりなかった画期的な書籍。

教師である私が読むと、やはり胸が苦しくなる。

上意下達による管理・強制の強化が進められる中、同僚性の確保が難しい職場が多く出現する中で、新規採用者やベテランが、子どもに保護者に地域に翻弄される。

学級崩壊というのは、「子どもだけ」という捉え方で見てはならないのは当然なのだけれども、その渦中にある悩める教師の救いはなんなのだろうか。

決してお気楽な答えはない。
でも、光明を見いだすことはできないことはないのではないだろうか。
そういった希望を見いだすことができるかも知れないのが本書の素敵な特徴だろう。

読み終えてみて、教員の意識改革というのが、あまりにも上からの歪んだ管理の中で異常の再生産を果たしているという観念に囚われて、頭から離れない。

今、せめて困難にある教師を支えるのは、その苦しみを知る教師:同僚:仲間:別に同じ学校にいなくてもよい、なのだと思わずにいられない。

終わりのない問いかけがそこにあるような気がしてしまうのは、私がまだまだだということなのかも知れない。

「よいこと」の積み上げは「最悪」だということ

2011-06-15 23:11:41 | 教育
民主迷走 教員免許ピンチ 更新制度「廃止」見込み外れ(産経新聞) - goo ニュース

教育関係の施策で陥りやすいというか、すでに陥ってダウンスパイラルを起こしているのは「よいと思ってやっていること」の重ね着なのだ。

かの苅屋をして「ポジティブリスト」といわしめた話と同意のことだ。

「これからはITの時代。情報教育でしょう。」
「それはよいことだ。」

「これからは英語。これにきまり。」
「それはよいことだ。」

「特別支援教育も大事です。学校にコーディネータを配置し、個別支援シートを作成しましょう。」
「それはよいことだ。」

「食育をしなさい。」
「それはよいことだ。」

「学校公開を増やしなさい。ついでに土曜公開をすればよい。」
「それはよいことだ。」

「免許更新性を導入しなさい。」
「それはよいことだ。」

「で、導入した分は、何かを削っていいのですか?」
「それはダメです。」

「子どもが荒れています。」
「それは知りません。それをいさめるのも教員の責任でしょう。」
「社会情勢に家庭が、子どもが影響を受けた結果ともいえます。」
「知りません。」
「事例があがっていますが。」
「勝手に研究しないでください。」

「教員が自殺しました。精神疾患も急増しています。」
「それは知りません。」
「だれが我々教員を守ってくれるのですか?」
「自分の身は自分で守るものです。自己管理ですよ。」
「それで管理職なのでしょうか?」
「中間ですから。上からいってきていますから。それに従うのです。」

「労組で訴えていいですか?」
「ダメです。全体の奉仕者は従えばいいだけです。」

「賃金闘争していいですか。」
「全労連にいってください。」
「彼らは闘争しませんよ。」
「知りません。」
「ストさえ有名無実です。」
「知りません。」

「せめて、教師に教育のプロとしてカリキュラムの編成に携わり、工夫する自由をください。」
「徹底的に管理します。」
「それはよいことだ。」
「今、誰がいった?それは教育の死への道ではないのか?」