怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

教科書問題について(扶桑社の一件)

2005-07-27 05:16:12 | 戯言
事実確認。(少々の不足は目をつむってください)
・扶桑社は「新しい歴史教科書をつくる会」(以後つくる会)のもと、平成14年度から歴史教科書を出版してきています。
そして、その教科書は国側の検定を受け、訂正をしたものです。

(つまり、「つくる会」側の認識だけでなく、国の認可に入る点は責任の拡張、重層化を示す事実なので気をつけなければいけないことでしょう。)
・平成18年度より採用をねらった改訂版を作成し、今日に至っています。
多くの内容に変化は無いが、用いている資料や事実には変化が認められます。
因に、この改訂版も国の検定をもとに、訂正がなされています。
・埼玉県教育委員会には「つくる会」の中心メンバーが委員に採用されています。
これにあたって、当人は「つくる会」の脱退をしているが、実質、大きな影響下にあることを否定することはできないはずです。
・日中および日韓の関係において、この教科書の採用、不採用は大きな影響をもっています。
つまり、日本側の第二次世界大戦に対する歴史観が問われています。
これは、日本の歴史観に対して中国、韓国側の過干渉だという認識レベルの問題や、自国の歴史教育一般化(特に歴史教育の独立性)の話に還元した問題と考えると、歴史の事実認識のゆがみが生じることを端的に示す事実であろうと考えます。
これは、別に中国や韓国の日本史解釈にすり寄りなさいといっているのではありません。
単純に、第二次世界大戦が資源枯渇と外圧のために植民地開拓に乗り出さなければならなかったとか、アジアの諸国の独立を促したなどという、程度の悪い(というか頭の悪い)戦争肯定論を引き出しなさいといっているのではないのです。
また、南京虐殺事件などのように、事実認識に(一部の人たちの)ずれが生じていることを、単なる解釈論の差異としてしか認識せず、戦争責任を薄める論調にすることでもありません。
・採用を前にして、白表紙の教科書が配付された自治体が存在します。
不公正であるため、再三の回収指示に対し、扶桑社側の回収の動きは非常に遅かったのは事実です。

故意にやった暴力的な所行を疑われてしかたがない点です。
・「つくる会」の中心メンバーは偏った歴史観(皇国史観、ないしは自慰史観の論者である)、性教育観(現在の学校における性教育実践において、事実認識の誤った批判、極論を持ち出す異常なジェンダー否定論より始まり、アナクロな古い夫婦・家庭観、男女の社会的立場を主張することが日本の文化保持に必須の条件としている)、共産主義批判(これも非常に古い批判で、すでに論破されている内容ばかり)などをもった者で構成されています。
・栃木県の某市の教科書採用にあたって、強硬な反対論者が市長、教育員などにつめよったり、不要な圧力をかけたそうです。

これはやってはいけないことです。
これに対しては民主的な手続きを粘り強く続けることを理解してほしいと思います。
市長に直接文句をいうくらいなら、選挙で落とすようがんばればいいのです。
また、要求の方法などは署名活動やその他の方法が生きるはずであることを理解してほしいものです。
これでは右翼の宣伝カーと同じレベルでしょう。
・扶桑社の教科書の積極的な採用理由として「テーマごとの学習がしやすい」「歴史的な事実確認の優位性」「内容が豊富」などがあげられています。

他の教科でなく、歴史教科書、公民教科書から出版している点からも、この社が何を目的に教科書を作成しているかがにじんでいます。
次は保健の教科書でもだすのでしょうか。

このような主張のハッキリした教科書問題は以前にもありました。
家永教科書裁判はその例です。(これは扶桑社の主張と逆の問題であるのだと認識しています。)

結局、(歴史)教科書で、歴史的事実を全て語ることは難しいのだけれど、広く知識の普及を考えた時、教科書の著者の主張を受けている事実は否定しがたいイメージがあります。
しかし、扶桑社のような作為をもった教科書作成・普及活動はあざといと言わざるを得ず、それなりに批判を甘んじて受ける立場を享受するべきだと思います。
非常に嫌らしいのは、この点に関して扶桑社側、というか「つくる会」側がたいしたコメントをしていない点です。
無気味とさえ言える。
教科書で勝負といわんばかりであるけれど、そう考えるならば、ひどく偏った印象を与えるこの本は、排斥されてしかるべきだと思います。
今まで使われてきた教科書と比較するだけで、その偏った印象はわかります。
この点に関して、「偏っている?どこが?」という外野のツッコミがよくあるのです。
しかし、それは今までの歴史教育の否定の発言でしかなく、教育を受けた者が、以後、多くの歴史書物をひも解く時に、どこまで公正でリベラルでいられるかということに対する否定であると思います。
ある意味、独自の対案なく、今の教育界を混乱させる、物議をかもし出したいだけなのではないかと疑ってしまいます。
また、それほど罪深い印象を与えるのが、この扶桑社の教科書は問題なのです。
そして、この点に関して、扶桑社側がコメントをもたず(赤本をみてみたい)、「つくる会」も取材要請には消極的であるようなのは問題を大きくしているだけなのです。(この点は家永裁判の方が、古くてメディアは少ないが、よほど説明されていると思います)

一つの例を言いましょう。
扶桑社では「大東亜戦争」の名称を使っています。
理由は、「第二次世界大戦」は押し付けられた名称だからだということです。
戦争中の名称だって押し付けられた物でしかないし、それよりも三国同盟をもって世界に戦争をしかけた日本の姿が見えてくる名称を使わないという方が無益だと思います。
自慰史観と揶揄される論拠ともいえるのではないかと思います。
「第二次世界大戦中、日本は、この戦争に大東亜戦争という名を与え、まるでアジアの解放を大義名分として侵略戦争を展開していった。」という説明でも、大東亜戦争の名前は歴史的に残りますし、より対象化して考えられると思います。
いや、アジアの何かのための戦争ではなくて、はっきりアメリカに対して資源枯渇問題をきっかけとした戦争とでもいった方がいいのでしょうか。
(もちろん、諸外国の戦争責任を問わないといっているのではないです)

時に、教科書を離れて言えば、「侵略」でさえ、「戦争だったのだから」とか「他の外国でもやっていた(きた)のだから」と、正当化されるような表現に出逢います。
あの時にOKだったのだから、今もOKの認識が必要であるなどと言わんばかりのものです。
が、「侵略」は罪であるという認識こそ、現代に通じる、つまり、外交を通して、また、国連の一員とし生き抜く独立した日本の認識であるはずです。
日本が歴史的な意味で独自性、自立性を発揮できることの一つは、この認識ではないかと思います。
米英とイラクの戦争にしたって、歴史を語る視点をどこにおくかで事実は変わるように見えるけれど、戦争を正当化する理由に使われているうちは、その事実認識は戦争の続きでしかないのだと思います。
どこに罪をおき、死んだ者への追悼をおくか、将来の関係を考えるかは、戦争が前提ではだめなのです。
「侵略されたらそんな議論できないよ」という極論を言うのなら、少なくともそうでない状況の日本でしっかりとした認識を示すべきです。

歴史の事実認識に関しては、第一に、高文社の三国共同の歴史本にゆずります。
靖国問題やナショナリズムと教育の問題に関しては高橋哲也さんの著書(「教育と国家」「靖国問題」)にゆずりたいと思います。

正直、自分の言葉で説明するのにも疲れました。
意外と「左翼教師」のような(思考停止の)レッテルを張ったり、根拠や論理展開の成り立っていない議論を吹っかけてきたりする輩が多いのです。
常識的な発想に乏しい人たちへの説明を私一人がかぶる必要はないと考えます。

一応Q&A式で彼等の主な主張へ再々再度応えておきます。
○独立国なのだから、国旗掲揚や国歌斉唱は当たり前。
・・・何をもって当たり前なのか。どういうときにそうするべきなのか。ちっともはっきりしない。
靖国神社などが主張(説明)するように、祝日などには家の前に国旗を掲げなければいけないもので、多くのリベラルを装うナショナリストたちが主張するように、そうしなければ日本人じゃないのか?(だったら、今、日本人じゃない人は多いよね!=こういう婉曲的ないいまわしに絡んでくる人もいるのだが、あえて、私なりの表現を使っておく。)

○公立教員は公務員で公僕なのだから、上の命令に従え。国旗国歌については、指導要領にも入り、法的な拘束力はあるのだから。
・・・私も従うのは当然の立場ではあると思います。
しかし、市民としての立場を保障しなさいといいたい。
そして、東京都教育委員会のように、無駄な人員、予算を割くようなこと(式に指導主事をおき、異常なチェックをするなど)はせずに、きっちり教育委員会側から説明責任を果たし、論議を収束するよう心掛けるべきだといいたい。(それが上の仕事だろ!石原・横山の無能!=これも遠回しに言っている。)

○日の丸・君が代のそもそも論。(=君が代は千年以上前の大和歌だとか、民衆のセレモニーでも歌われていためでたい歌で、慣れ親しまれている・・・など、そもそもの歌の成り立ちや意味として、ちっとも軍国主義ではないし、非日常的でないから、どんどん正当化して歌えという主張。)
・・・諸外国の反日運動において、なぜ日の丸が焼かれるのか。太平洋戦争で行ってきた日本の行為を総括していないからだ。そのことの象徴でもあることを忘れて「そもそも論」につき合いたくはない。(日の丸じゃなくても、日本国旗だったら焼かれるとかいうアホな議論にもつき合いません。主義主張の旗だという認識がないのでしょうから。)
「そもそも論」に留まらず、大戦時の血塗られた歴史をもって日の丸・君が代を語る時に、真に現代における歴史的意味合いが問われ、正当かつ前向きに国旗・国歌として捉えられる議論が成り立つといいたい。自虐ではなく、総括、自己反省が必要だ(だった)といいたいのです。
侵略戦争歴史に自虐だといって目をつぶり、本来の意味と違うことを主張すべきだといって目をそむけています。我々日本は本当に戦争責任を明確にし、独自性、独立性を持ってアジアの恒久平和につくしてきたのでしょうか。そのことを問いたいのです。
そのための象徴でもあることを忘れた議論につき合いたくないのです。(個々の事実をあげないと、「いや、輝かしい歴史だ。」とくる無神経さには辟易する。また、そう言えば、こっちの象徴の意味も認めろとくる。ある程度は認めているっちゅーの!)
また、喧嘩両成敗的に戦争責任を、独立、自立した国として考えずに、比較の問題としてのみとらえる考え方にも反対です。
そんな考えをする輩は、天皇の戦争責任をはっきり問えない盲信右翼(やっぱ宗教だね)と同列ととらえ、議論ができない=思考停止したものと考えます。

○日の丸・君が代がいやなら出ていけ。
・・・暴論も甚だしいです。議論無用、言語道断とはこのことではないでしょうか。好き嫌いで議論しているのではないし、もしそうならば、ナショナリズムとは宗教なのだと批判されてもしかたがないでしょう。(というより、私は、この手のことに異常な議論をふっかけてくる人たちはカルトな宗教家なのだとおおよそ信じている。)

○お前、日教組だろう。洗脳されたんだろう。
・・・バカな詮索も甚だしい。私は日教組の組合員でもないし、日教組のようなへたくそな活動集団には、考えを組されることはあっても、こちらから組することはないです。組織率も下がっているのだし、組合活動は早くに発展的に解消するか、改革をするかして、新規組合を立ち上げてほしいとさえ思っています。
よほどマイナーな全教の方が私の嗜好にはむいているかもしれません。(笑)
何にしても、私の成り立ちを知らない者がバカな言葉を吐くなといいたいです。
そっちが考える以上の人間なのだという自負はあります。私は日教組ほどバカではないのです。

○替えたいのなら、日の丸・君が代の対案は?
・・・(いろいろな感情を考えずに)すぐに替えていいのだったら、国旗は日本が軍隊を持たず、恒久平和を求める国なのならば、ピカソの絵のようなシンプルなハトを白地や桜色の生地に描いてもいいなと思います。
別な案もあるでしょうけれど、公募する価値はあると思います。決定は有識者を集めた委員会を通し、国会で決めてもいいし、国民投票でも決して大仰ではないと思います。
国歌は「さくらさくら」なんて日本的かな?世界の趨勢は侵略的な内容が多いらしいですから、思いきって独自性を出したいですし、歌いやすいものがいいですね。
君が代は声が裏返るし、暗い(荘厳との意見もあるが、オリンピックでも意識高揚の曲調の方がいいな)ところが嫌ですね。
これも公募したっていいと思います。
歴史的には公募をしたこともあるらしいです。
ご時世故の消滅の運命とでもいっておきましょう。

○第二次世界大戦で逝った者に対する気持ちを問う
・・・先の著書に話をゆずります。
追悼の意志はあり、それをすることはやぶさかではないが、国家主義に利用される生き方は断固拒否する。そのためだったら自分の祖先でも踏みつぶす。(それも供養ではないか?子孫がよりよく繁栄することに繋がるのだから。)
むしろ、戦争に死んだ者達のために、積極的に武装解除をしていく心構えを説きたい。
有効な平和は武力の均衡からは生まれえない。(理想論というなら言え、そういう者は理想を語れず、ギチギチと生きるがいい。すぐに自分に限界をもうけていることを知ってから人に自分の考えを言ってくれ。)

何にしても、2ちゃんねるじゃなくてブログなのだから、私が削除したいコメントを削除することに文句をいうな!といいたいです。