怒りのブログ

憤りを言葉にせずになんとしようか。

公立VS私立Vol.2

2005-05-25 23:32:03 | 教育
いつも情報源&刺激剤(全ていい意味で)として勝手にお世話になっている
「THE義務教育ブログ」さんで
今、「私立小学校教育についてご意見募集中」というエントリーがあり、
たくさんの興味深いコメントが寄せられている。
そこの文章を読みながら少し自分なりの考えを整理してみたいと思う。
(まとまらなかったりして・・・)

前回は少し文章の矛先がずれて終わったが、そこでの私の主張を簡略化すると、
・私立の質を外から量ることを客観的に行うことは難しい。(よい方法があるなら教えてほしいものだ)
・よって、巷の比較は一面的な根拠や誤解に基づく可能性を含んでいる。
・私の少ない経験からも、決して私立の教員の資質は保証されたものではないということ。
・私立優位を訴える人は、公立バッシングをする者もおり、公立のおかれている状況への理解が弱い。
以上だろうか。

私立志向に対する批判はこの程度で今のところはおいておくが、
翻って「では公立はほめられたものだろうか」というとそうではない。
公立は確かに私立と違い、「公」に対しての縛りをもっており、単純に「学校対応」だけをのぞむとしっぺ返しをくらうシステムになっている。
(私の以前からの主張は、国・自治体・学校・地域の必要な教育情報共有化とそのためのシステムの効率化(=特にフィードバックを重要視する)、そして教育の展望の明確化にし、それを実現するシステムを保護・保障するハードウェアの整備である。)
このしっぺがえしは、子どもに対してだけでなく、保護者、教師に対してもそうである。
システムへの理解が不利なのは子どもと保護者であるが、モダンタイムスの様に型にはめられて教師も苦しむ点では同じである。
(ただ、教師は耐える方法を各自であみ出して生きているため、外見上は何をしているのか理解されないこともある。)
現実に様々な問題が持ち上がることと、私立でないこととは意味が異なるし、そこで比較しても正しい結果はでない。
私自身、自分の職場で抱える問題は、構造的な問題と考えることもあるが、その多くは、個人対応を徹底して可能ならば、意外に多様な要請・要求に応えうる体制はとれようものだと考えている。
(一番の障害は、教育に対する(高尚な)理念・理想を独善的に追い求めることができないシステムであり、それを生み出しているのは各自治体であり、妙なプレッシャーを与える文科省はその強烈なバックグラウンドである。)
そういった可能性を公立は持っていながら、なかなか生かしきれていないと思う。
今、学校への期待、要請、反発心、不信が高まる中(ほんとか?)、やはり「顔」というか、教師の行動は注目されていると思っている。(俺はみてねーよっていう無関心の関心をよせる人もいる)
そんな中で無茶な人的な資質向上を強制されることは、結局教育行政のしりぬぐいを現場の平教師がしているわけで、くさらないではいられないが、(少なくとも私や私の周りの人間は)不真面目にやっているわけではない。
正直、自分の子どもの話から、一面的な学校批判を展開される人にも出くわしているが、ことの筋と真相はそこにはないというのが私の実感である。
「公立」は切り捨て(退学という意味)がない分、多様な対応を求められるが、個人の資質云々よりも、状況に追い付けない、状況が追い付かないの両面あると思う。
(うーんうまく言えない。まとめられない。文才ないなー。)

唐突に言うが、「教師と塾講師の違いは、カリキュラムを適正に組めるかどうか」という言葉があるが、私は、公立のカリキュラムを熟知し開発し運用するそれと私立のそれは決定的に違うと思う。
これは差ではなく、すみ分けだと思っているが・・・。
(ちなみに教科書会社の執筆者はどうかという議論には組しない。児童実態を汲み取ることのない者は現場人ではないから。)
そう意味では、公立を選ばないという選択は大いに「あり」だとは思う。
また、逆に、公立を選ぶきっかけでもあるとも思う。

また、拡散。いいたいことの部分引用でとっちらかった。
寝るのでVol.3に期待。