ひよりみっ!

ディープインパクトが三冠馬になった年からやってる日記

第3期はないのかな?

2006-10-04 19:21:25 | アニメ
「ARIA The NATURAL」の最終回を見ました。
次回予告から、アリシアさんが雪玉転がす話になるのは想像していたので、
ゆったり静かに幕を下ろしていくのだと思っていたのですが、なんのなんの。
まさか、最終回でこんないい話を見せてくれるとはいい意味で期待を裏切られました。
もともと、アリシアさんの「こんな大人になりたかったのよ」な話は好きだったんですが、
アニメでそれを5倍くらいにふくらませてくれましたね。

ネオ・ヴェネツィアは本当に人のいい街で、
アリシアさんが雪だるまを作り始めると、みんなが「手伝わせて」と現れます。
理由なんて、きっと「大きい雪だるまができたら素敵ね」くらいしかありませんが、
それでみんなが幸せになれます。
「世界に何かいいことが起これば、それを自分のことのように喜べる人」が集まっているのがARIAという作品であり(例外の存在も描写されていますが)、
アリシアさんがなりたかった大人というのも、つまりはそういう人だと思います。

最後なんて、雪玉が行き止まりまでたどりついたら、
そのへんに住んでいる人たちがわらわらと現れて、
雪だるまの続きを作り始めて、
さらにお茶会まではじまってしまうという超展開。
これも「ARIAだからな」「ARIAなら仕方ないな」で終わってしまうわけで、
かくしてアリシアさんが転がし始めた雪玉は、
立派に飾り付けられた三段の雪だるまになりました。
いや、この際誰がはじめたかなんていうのはどうでもいいことです。
誰が最初に雪玉を転がしても、結果はこうなるのがネオ・ヴェネツィアです(笑)。

途中、中央が高くなっている橋でけっこう大きくなった雪玉を転がしたとき、
上に乗っていたアリア社長が下り坂で玉に轢かれたのはお約束ですが、
地面と玉に残ったアリア社長の型を見たときは単純に大笑いしました。
これだからアリア社長からは目が離せません。

ラストシーンでは、藍華・アリス・灯里の3人が、
近い未来にプリマ(アリスはシングル)に昇格するであろうことが示唆されていました。
アテナ先輩が「春になったらピクニックに行きましょう」と言ったときには、
「ああ、シングルの昇格試験って、こんな感じでさりげなく仕込むのね」
と思ってニヤニヤ。
でも、こういうのを見ると、アニメでの次の展開はあまり考えていないのかなと思えて、少しだけ寂しいです。

シリーズ全体として、ときどき作画が微妙と思えることはありましたが、
演出のほうは安定していて、まったりしている内容であるにも関わらず飽きずに見つづけることができました。
とくに、藍華ちゃんの髪が燃えたあたりからおもしろいお話が続いたと思います。
好きな話は、前半は鏡の話と自分ルールの話(ぶっちゃけアテナ先輩が出てる回(笑))、後半は海との結婚式と最終回ですね。
あとは、アテナ先輩が記憶喪失になっていれば……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

精神性は数値ではかれないの

2006-10-04 01:50:28 | 雑記
好きなアニメほど、他の方々の感想が気になるもので、
今クールは「となグラ!」の感想を追いかけていたんですが、
批判サイドで序盤によく見かけたのが「勇治の性格がダメすぎ」で、
中盤以降になると「香月の性格に耐えられない」が増えてました(笑)。

物語の基本のひとつに、主要登場人物が「最初はできなかったこと」を「最後にはできるようになる」というものがあります。
少年マンガでよく見られるバトルもので考えるなら、
「最初は自分より強くて勝てなかったライバルに」
「修行を積んで実力を上乗せすることにより」
「ライバルよりも強くなって、最後には勝つ」
という流れになります。
このケースは、克服すべきものが主人公の外側にありますし、
強さは比較的数値化しやすいので、主人公の能力が劣っていることも把握しやすいです。
これに比べて、克服すべきものが主人公の内側、つまり己の精神的部分に存在する場合は、主人公の苦悩を理解するのが少し難しいかもしれません。
というのは、人間の性格といったものは、客観的に数値化して他者と比較し、優劣をつけることができないからです。

そもそも、人間というのは他人と比較することによって自分の価値を判断します。
ルールがきちんと存在する勝負の世界では、勝敗をわける基準が明確に数値化され、
参加者自身が客観的に自分の敗北を悟ることが可能です。
(まあ、ボクシングとかフィギュアスケートなんかで、
採点基準があいまいだと言われることもありますがね)
ゆえに、敗者は自らが劣っていることを認めることができ、
努力によって勝者との差を埋めようとする気持ちが生まれます。

これに対して、個々人の持つ性格や価値観には、
先に述べたとおり客観的な指標が存在しません。
人はそれぞれ「おおよそ自分自身が正しいという測定結果が出る」ものさしを持っていて、
それをもって他人をはかろうとします。
だから、物語の登場人物の精神が未成熟な場合、
自分のものさしをもって彼(女)をはかった結果として、
「自分が悪いのに、どうしてこいつはそれに気づかないんだ!」という憤りを覚えたりします。
ところが、当の本人は別のものさしを持っていて、それで自分をはかりますから、
自分自身が間違っている可能性があることにはなかなか気づきません。

誰かが自分の価値観のおかしさに気づくときがあるとすれば、
それは自分よりすぐれていると思える人間が、
自分とは違うものさしで物事を判断していることを理解したときです。
そのとき、人は己のもっているものさしを修正する必要性を知り、
新しいものさしで自分をはかって、自分が不完全であることを認めます。

「となグラ!」の例で言うなら、
勇治や香月が「己のものさしにこだわりすぎている(=自分が正しいと信じて疑っていない)」ことを指摘するのはいいとしても、
「お前のものさし自体がおかしい(=お前の性格はおかしい)」というのは主観的にすぎると思うわけです。
で、ふたりとも最終的にはものさしを修正して、己の未熟さを認めたのですから、評価すべきはそのときの彼らではないですかね。

思うに、自分のものさしにこだわりすぎると、
他人を批判ばかりして、いいところを素直に評価できなくなるんじゃないかと。
「自分にはない他人のいいところ」を認めることは、
「自分が不完全な人間であること」を認めることでもありますから、
なかなか難しいことではありますけど、
私は生まれてこの方「完全な人間」なんてものにお目にかかったことはありませんし、
ならばきっと私自身も不完全な人間に違いないわけで、
もっているものさしも相当いいかげんなはずです。

でも、できれば誰のものさしではかったとしても、
「まあまあ好ましい人なんじゃないかな」と思ってもらえる人にはなりたいんですよ。
たとえ、正しいものさしなんて一本もないのだとしても、ね。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする