後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

キリスト教と神道と仏教の混淆の写真

2019年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には古来から民族宗教として神道がありました。西暦6世紀にインドの大乗仏教が中国から入って来ました。そして西暦1549年にザビエルによってキリスト教が伝承されます。
仏教と神道は混淆され明治維新までは仏教と神道は一体として人々に信仰されていたのです。現在でも神社とお寺は並んで存在している風景は珍しくありません。それらは同じものとして一体化されていたのです。明治維新以後、神道と仏教の分離運動が起きお寺と神社の間には塀が建てられ別々の宗教施設になったものも多数出来ました。しかし現在でも同じ境内にある場合も多いのです。
さて1549年に入って来たキリスト教は神道や仏教とどのように混淆したのでしょうか?

今日はキリスト教と神道と仏教の混淆の問題を取り上げてみたいと思います。
元来キリスト教の教義は排他的な性格が潜んでいて他の宗教との混淆を嫌っています。
しかし日本では宗教の混淆は悪いことではありません。神道と仏教の混淆ほど完全な混淆ぶりではありませんが今日は次の2つの事例をご紹介します。
(1)サン・ジワン神父を祀ったキリシタン神社の長崎市の枯松神社
(2)熊本県天草市の「﨑津三宗派御朱印帳」のこと。
これはキリスト教と、仏教と、神道という、3つの異なる宗教の御朱印を一冊の御朱印帳として発行したものなのです。

この二つの情報は五島列島生まれの写真家、峰脇 英樹さんが Face Book に最近掲載した写真情報です。それに私が少し調べたことを追加しました。
上の(1)と(2)について少し説明します。
(1)サン・ジワン神父を祀ったキリシタン神社、枯松神社
キリシタンを祀る神社は日本でも珍しいものです。 この枯松神社では年に一度、キリスト教のカトリックの信者と仏教の信者が共に祈りを捧げるのです。
詳しくは、キリシタン神社の神秘 http://oratio.jp/p_column/kirishitanjinja をご覧下さい。

1番目の写真は 長崎市下黒崎町枯松頭にある枯松神社です。
枯松神社は禁教時代に外海地方で活動した日本人伝道士バスチャンの師であるサン・ジワン神父を祀まつっています。この珍しいキリシタン神社は外海のかくれキリシタンの聖地のひとつです。
神社といっても鳥居はなく、小さな社殿がひっそりとあるだけです。厳しい弾圧の中、信仰がばれないように神社としてカムフラージュしたなごりなのです。

2番目の写真はこの合同慰霊祭の写真です。
この合同慰霊祭では、2000年より毎年11月3日に行われています。
サン・ジワンとその信仰を守り続けた先祖たちの霊を慰める祈りの行事です。特徴的なのは、現在のカトリック信者と仏教徒、そして旧キリシタン(かくれキリシタン)が一堂に会して祭りを行うことです。
カトリック教会による慰霊ミサやかくれキリシタンの代表によるオラショ奉納など、緑深い山林の小さな神社を前に行われる儀式はとても神聖で神秘的な雰囲気が漂うそうです。

禁教時代、外海のキリシタンは表面上、寺の檀家となって暮らしていました。
その中には、キリスト教が解禁になってからも教会には復帰せず、そのまま仏教徒として先祖が継承した潜伏期の信仰を守り続ける人たちもいたのです。そのような信者は「かくれキリシタン」と呼ばれ、外海では現在も数戸の家で信仰が継承されているそうです。
枯松神社のすぐそばの墓地にはキリスト教の洗礼名と仏教の戒名が一緒に刻まれている墓があります。かくれキリシタンの家の墓石なのです。「枯松神社際」と同様に、外海の信仰の複雑さを物語っています。
このようにキリシタンをまつった神社は全国的に珍しく、長崎市内淵神社の桑姫(くわひめ)大明神、東京都伊豆大島の おたあね大明神が知られているだけです。
詳しくは、枯松神社 http://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000609.html をご覧下さい。

(2)熊本県天草市の「﨑津三宗派御朱印帳」のこと。
三宗教の合本した御朱印帳は世界でただひとつのようです。
以下は、http://shimanotane.jp/sakitsu_3religionstamps/ からの抜粋です。
﨑津集落の共同墓地の下にある「鶴林山 普應軒(ふおうけん)」が「﨑津三宗派御朱印帳」の佛教部分を出しているのです。

3番目の写真はこの 普應軒です。
このお寺は元禄年間(江戸時代中期)に創建された曹洞宗のお寺で釈迦如来が祀られています。
ここで最近、有名になっているのが「﨑津三宗派御朱印帳」です。キリスト教と仏教と神道という3つの異なる宗教の御朱印を一冊の御朱印帳として発行しているのです。キリスト教に御朱印制度はありませんから非常に珍しいものです。

4番目の写真はこの「﨑津三宗派御朱印帳」です。
キリスト教の御朱印は世界遺産のカトリック崎津教会の神父さまが墨書しています。神道の御朱印は﨑津諏訪神社の神主さまが墨書しています。

5番目の写真はカトリック崎津教会を取り囲む天草市の崎津集落の写真です。

今日は珍しいキリスト教と神道と仏教の混淆の様子を示す写真を掲載し少し説明を加えました。
少し深く考えると潜伏キリシタンが厳しい禁教の下で250年も生き残ったのは神道信者や仏教徒の目に見えない保護や支援があったからなのでしょう。幕府の権力者を恐れない農漁民の崇高な勇気が250年の潜伏キリシタンの歴史を作ったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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峰脇 英樹
1964年長崎県新上五島町生まれ、東京写真専門学校を卒業後、写真関係の会社勤めを経て1995年に独立。各種雑誌、書籍、カレンダーなどに写真を発表している。長崎の教会、日本各地の風景も撮影。五島の教会では、昔の人はこの場所で何を感じ、何を思っていたのかを想像しながら写真を撮っている。写真展も定期的に開催。
『ペトロ岐部司祭と187殉教者列福式 公式記録』2017年のユスト高山右近列福式ミサ公式記録集を撮影。2004年に五島列島巡礼写真集『ロザリオロード 虹色の光の祝福の島 巡礼の道』を出版。 2008年に五島列島のカトリック教会51を歩いて巡礼。現在も堂崎教会で販売中。

「色々な花々を混栽した美しい花畑の写真です」

2019年05月13日 | 写真
先程、三鷹市の花と緑の広場で撮って来ました。
ヒナゲシ、ヤグルマソウ、マツビシソウなどなどを混栽した美しい花畑です。花畑を作った人の美しい心も偲ばれます。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









世界遺産、山中湖と富士浅間神社への小さな旅

2019年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
国連のユネスコの世界遺産は3種類に分かれています。知床や白神山地のような自然遺産と京都の文化財や白川郷の合掌造り集落などの文化遺産と日本にはまだ無い複合遺産の3種類です。
自然遺産とは文字通り非常に美しい景観の山や湖や海の組み合わせが主なものです。一方文化遺産とは人類の遺産として残すべき人間の作った特別な文化のことでです。複合遺産とはこの2種類の遺産が複合したもので、日本にはまだありません。
昨日、旅に行った山中湖や富士吉田にある北口富士浅間神社は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という世界文化遺産に含まれています。
これは富士山にまつわる信仰や宗教と芸術活動に対して2013年に認定されたものです。そして構成資産が全部で25箇所あるのです。
すなはち富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが含まれています。
昨日は山中湖と北口富士浅間神社を訪れ、写真をいろいろ撮って来ました。薄曇りの日でしたので鮮明な写真ではありませんが写真に従って昨日の小さな旅のご報告を致したい思います。

1番目の写真は富士吉田から山中湖に向かう高速道路にのしかかるような富士山の風景です。昨日は薄曇りなのでこんな富士山が見え隠れしていました。

2番目の写真は波立ち騒ぐ山中湖の岸辺です。薄い霧のようなものがかかっていて対岸や富士山は見えませんでした。

3番目の写真は何十年も山中湖の沖に係留してあるヨットです。富士山を背景にしてこのヨットの写真を撮るのが私の長年の習慣でしたが、昨日はヨットが陸に上がっていました。

4番目の写真は杉の巨木の並んだ参道の写真です。この参道の奥に北口富士浅間神社が鎮座しています。

5番目の写真は北口富士浅間神社です。元和元年(1615)鳥居土佐守創建です。一間社入母屋造、向拝唐破風造、檜皮葺屋根、安土桃山様式で 昭和28年、国指定重要文化財に指定されました。

6番目の写真は拝殿の内部の写真です。

7番目の写真は修験者と僧侶に導かれた富士講の行列です。この写真は富士山信仰の修験道の山行きの出発前の行列なのです。「六根清浄、・・・」と唱和する声が杉並木に神秘的にこだましていました。(この写真だけは2016年8月27日に撮ったものです)

さてこの記事の表題は「世界遺産、山中湖と富士浅間神社への小さな旅」となっています。
わざわざ「世界遺産、」とつけたのは昨日の小さな旅の間以下のようなことを考えていたからです。
富士山は古来より信仰の対象とされ、その上絵画の題材になり、更にいろいろな文学作品に描かれてきたのです。
今から約1,200年前、奈良時代にはすでに富士山を題材にした歌が「万葉集」に詠まれています。
また、富士山は、『竹取物語』や『伊勢物語』などの古典作品をはじめ、俳句や漢詩、夏目漱石や太宰治の文学作品にも取り上げられてきました。
絵画の世界では、平安時代から富士山は絵画に描かれるようになります。現存する最古の絵画は、秦致貞の『聖徳太子絵伝』だそうです。
江戸時代に富士登山が「富士講」等を通じて爆発的に人気となると、富士山も多くの絵師に描かれるようになりました。
葛飾北斎の『冨嶽三十六景』や歌川広重の『不二三十六景』、『東海道五拾三次』など、様々な場所から見た富士山が浮世絵に描かれています。浮世絵が海外に輸出されるようになるとゴッホやモネなど、西洋の芸術家にも大きな衝撃を与えました。

一方の宗教活動とは何でしょうか?
それは富士山信仰のことです。富士山そのものを信仰の対象としたもので修験道の山行きとそれを支える幾つかの登山口にあるそれぞれの浅間神社です。修験道の山行きが重要なので吉田口や須走口から登る登山道などもこの文化遺産に含まれているのです。

北口富士浅間神社は山中湖に行く道の途中にあるので、昔から何度も寄りました。
いつも人影の少ない静かな神社でしたが、昨日は参拝客が多く賑わっていました。
これも世界文化遺産に認定されたお陰でしょうか。
昨日は寄らなかった忍野八海にはいつも中国人の観光客が溢れ中国語が飛び交っています。

今迄何十年と、富士五湖や富士山の五合目までは何度も行きました。従来は単純に美しい風景に感動していました。しかし「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」が世界文化遺産になってからは富士山と文化のかかわりも考えながら旅を楽しむようになりました。
何か富士山への旅の楽しみが奥深くなったようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料===============
構成資産とは、富士山が「信仰の対象」「芸術の源泉」となった価値を具体的に証明できる文化資産のことです。山体だけでなく、古より富士山と関わりを持つ周囲の神社や登山道、風穴、溶岩樹型、湖沼などがあります。世界文化遺産としてふさわしい価値を有しているもののことです。構成資産は全部で25箇所です。
http://www.fujisan223.com/reason/kouseishisan/ からの抜粋です。
1. 静岡県・山梨県
富士山(富士山域)
「信仰の対象」と「芸術の源泉」の価値を持つ、標高約1,500m以上の重要な地域に9件の構成要素が存在。

1-1. 静岡県・山梨県
山頂の信仰遺跡群
火口壁に沿って神社等の宗教関連施設が分布し、山頂部で宗教行為が体系化されたことを示しています。
1-2. 富士宮市
大宮・村山口登山道(現 富士宮口登山道)
富士山本宮浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道。資産範囲は六合目以上です。

・・・中略・・・
1-5. 富士吉田市/冨士河口湖町
吉田口登山道
北口本宮冨士浅間神社を起点とし、山頂を目指す登山道。18世紀後半以降、最も多く利用されています。
1-6. 富士吉田市
北口本宮冨士浅間神社
浅間大神が祀られていた遙拝所を起源とし、1480年には鳥居を建立。富士講とのつながりが強いとされる。
・・・以下省略・・・・
そして静岡県の三保の松原が25番目の構成資産になっています。

古墳信仰と神道の混淆信仰の写真

2019年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する話を少し書きたいと思います。
話題は古墳に祀られている有力者の霊を守り神とする信仰と神社信仰が江戸時代に混淆したという珍しい話です。
東京都府中市にある武蔵熊野神社古墳がこの珍しい混淆信仰なのです。
この神社の奥の宮が古墳の玄室なのです。古墳そのものは飛鳥時代に出来ましたが、江戸時代中期に熊野神社が引越して来て合体したのです。
昨日撮って来た写真で説明いたします。

1番目の写真は神社と古墳が合体している様子を西側から撮った写真です。この写真の右の方にある建物が本殿で、その右の建物が拝殿です。本殿と古墳は接続しています。神社の奥の宮は古墳の中央の地下にある玄室です。

2番目の写真は本殿の脇にある石碑と古墳です。石碑には国史跡、武蔵府中熊野神社古墳と刻み込んであります。

3番目の写真は古墳の拝殿の写真です。他の神社の拝殿と同じで賽銭箱が置かれてあります。

4番目の写真は古墳を東側から撮った写真です。古墳は上が丸く下が四角形に造られています。そして古墳の全面は多摩川の川原から運んだ丸石で覆われています。

5番目の写真は古墳の裏鳥居を北側から撮った写真です。左右の石門には熊野神社と刻み込んであります。すなはち古墳と神社が融合合体しているのです。

この石造りの古墳については驚くべき事実が3つあります。
(1)これが650年前後に作られた古墳であると学問的に発見されたのがごく最近の2004年であったのです。
(2)上が丸く、下が四角形は中国の思想を受けた構造であり、副葬品に中国の七曜文様が見つかっているのです。こんな時代に関東地方まで中国文化が浸透していたことに驚きます。もちろん直接では無く朝鮮の慶州の古墳文化が伝わったのでしょう。
(3)驚くべきことは江戸時代にここに引越して来た熊野神社のご神体として古墳が利用されてきたのです。神仏混淆とは珍しくありませんが神社と古墳が混淆しているのは驚きです。そして古墳の玄室が神社の奥の宮として利用されていたのです。

この古墳の詳しい話については「私の郷土史(1)2004年に発見された多摩川の石で造った巨大な古墳」(2012年12月18日掲載記事)をご覧下さい。
また下記もご覧下さい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3 

今日は神社と古墳が混淆している信仰を簡略にご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


日本はアメリカ文化に侵略されてしまう悲しい現実

2019年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム
日本にはアメリカ文化が滔々と流れ込んで来ます。まるでアメリカ文化に日本が侵略されているような気分になります。
今日は身近な一例を描きたいと思います。
あれは1990年の頃、オハイオ州で仕事をしていた時に受けた衝撃でした。コロンバス市のあちこちに広い駐車場があり、その奥に小さな平屋の店があるのです。聞くとコンビニエンス・ストアと言って何でも売っている便利な店だと言います。1990年以前に何度もアメリカに行きましたがこんな貧相な店が広い駐車場の奥にあるのを見たことがありません。巨大なショッピングセンターはあちこちにありましたが、こんな店を見たことがありません。
全てが大きいのがアメリカだと思い込んでいた私はこの小さな店の存在に驚いたのです。衝撃を受けたのです。
それからしばらく経って日本にもコンビニが普及してきました。
しかし日本のコンビニには駐車場がありません。あっても狭いものです。
ところが最近出来たコンビニ店にはアメリカのように広い駐車場がついているのです。
この光景は1990年頃にアメリカで見たコンビニの光景と同じなのです。
懐かしさのあまり昨日、自宅の近くにあるコンビニの風景写真を3枚撮って来ました。





セブンイレブンの2店舗とローソンの1店舗の写真です。
他にもファミリーマートなどの広大な駐車場がありますが少し遠いので行きませんでした。

聞いた話では、東京の郊外で広い駐車場が無いコンビニは売上が伸びないそうです。もっとも人通りの多い駅近辺や繁華街では駐車場は不要だそうです。
東京を離れて山梨県に行くとコンビニの駐車場が更に巨大になり大型トラックが並んで停まっています。

昔の日本では楽しい小売店が沢山あったものです。肉類は肉屋で果物は果物屋で野菜は八百屋で買う楽しみがあったのです。
何でも売っている万屋(よろずや)という店もあり、そこには優しいおばさんがいて話の相手をしてくれました。
このような楽しい小売店が消えたのはアメリカ文化のスーパーマーケットが侵入してからです。
そしてコンビニは日本の小売店のとどめを刺したのです。

私はこのように日本がアメリカ文化に侵略されてしまう現実を悲しく思っています。
アメリカ文化の一つの特徴は「便利さ」にあります。そして全てのことの「コストカット」にあります。この「コストカット」は金銭の節約だけでなく労力を惜しむことも含んでいます。
よくアメリカ文化とヨーロッパ文化は違うと言います。二者の違いはいろいろあるようですがヨーロッパ文化には「便利さ」や全てのことの「コストカット」という精神はありません。不便でも伝統的なやり方を守ろうとします。肉屋もお菓子屋も花屋も昔通りの商売をしています。
以前、ドイツに住んでいた頃、家内が子供と一緒に肉屋に行くのが楽しいと言ってました。行くたびに肉屋のおじさんがソーセージを一枚切って子供に食べさるそうです。子供連れのお客には皆そうするのです。
パン屋や菓子屋もちょっとしたオマケをくれるので、日本の戦前の店のようだと云っていました。子供が喜ぶので買い物が楽しくなるのです。

アメリカ文化には不便でも伝統的なやり方を守ろうとする考えは皆無なのです。
それがアメリカの科学技術を世界一にしているのです。それは重々分かっていますがこの現実を悲しく思っています。皆さまはどのように感じていますでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

なんじゃもんじゃの花を見、共産主義を想う

2019年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は大きな樹木に咲く花々をご紹介いたします。木が大きく葉を繁らせていますので丁寧に眺めないと花がよく見えません。昨日、都立薬用植物園で見上げたなんじゃもんじゃの花と紅花栃の木(マロニエ)です。
それに以前、かつての棡原村(ゆずりはらむら)の山で撮った朴の木の花と山桐の花もご紹介いたします。

1番目の写真はなんじゃもんじゃの花です。この木は以前とても珍しく誰も正しい名前を知りませんでした。それで「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれていたのです。
しかし本当の名前はヒトツバタゴ(一つ葉タゴ、一つ葉田子、Chionanthus retusus)なのです。本種は小葉この木は単葉であることから「一つ葉タゴ」とも書かれます。
私があるお寺で初めてこの花を見た時は本当に驚きました。思わず「何じゃ、この花は?」とつぶやいたことを思い出します。

2番目の写真はなんじゃもんじゃの花を大きく写した写真です。細い花びらが重なるように咲いています。不思議な花です。
日本においては希少種のひとつであり、絶滅危惧類 に指定されているそうです。
中国、台湾、朝鮮半島および日本では対馬、岐阜県東濃地方の木曽川周辺、愛知県に隔離分布する珍しい分布形態をとっているようです。しかし流行の波に乗ってあちこちで植栽され、現在ではそれほど珍しいとは言えませえん。

3番目の写真は紅花栃の木(紅色のマロニエ)の花です。
パリの街路樹として有名で5月に白い花を咲かせます。昔住んでいたドイツではカスタニーエと言って並木が見事な白い花を咲かせていました。東京では警視庁のそばの堀端にマロニエの街路樹があります。秋には栗に似た大きな実を付けます。

4番目の写真は棡原村の山で撮った朴の木の花です。人里離れた山奥にこのような大輪の白い花が静かに咲いている光景は神秘的なものです。甘い香りが漂っていました。

5番目の写真も棡原村の山で撮った桐の花です。新緑の樹々の間に淡く控え目な色で咲いています。優しい穏やかな気分になります。山に咲いているので山桐と言いますが栽培種の桐が鳥に運ばれたものです。

さて昨日は、薬用植物園のなんじゃもんじゃの花の大木を見上げながら何故か共産主義のことを考えていました。
一言でいえば共産主義はヨーロッパ文化が生んだ人類の壮大な悪夢でした。
ヨーロッパ文化が共産主義という人類の壮大な悪夢を生んだのです。
キリスト教では労働者や貧しい農民は幸せになれないので武力革命を起こし彼等を幸福にする政府を樹立するという考えです。
この考えは一見素晴らしいもののように見えます。それまでの西洋文明の中でしいたげられ、蔑げすまれてきた下層階級の人々を平等に扱うというのです。フランス革命で謳われた自由と平等な社会が一向に実現しなかったので、共産革命が必要だと主張する人々が現れたのです。
しかし人々はこの思想の欠陥に気が付か付かなかったのです。この思想を使って政治を行う場合の最大の欠陥に気がつかなかったのです。
この理想的な思想は人間の持っている利己心、権力欲、支配欲などの欠点を完全に無視した思想でした。
この大きな欠点が露呈し、大部分の人類が共産主義を放棄するまでには、いろいろな悪夢のような悲劇が起きたのです。

世界で初めて共産主義革命で政府をつくられたのはロシアです。1917年のことです。その結果、ソビエト連邦共和国が生まれました。そのソ連は1991年に崩壊しますが、それまでの74年間にキリスト教に対する弾圧が続きました。従来のヨーロッパ文化の根幹をなしていたキリスト教を否定し、弾圧したのです。はかり知れない悲劇が起きました。
一つの例だけを示します。1931年にスターリンの命令で爆破され崩れゆく救世主ハリストス大聖堂の写真は有名です。ハリストとはロシア語でキリストのことです。
その救世主ハリストス大聖堂は70年後の1991年に再建されたのです。
再建された聖堂の前の参道を人々がのんびりと歩いています。

このソ連は全世界を共産化しようとしました。
例えば、ソ連は中国共産党と協力してベトナムを共産化しようとしました。彼等の支援で北ベトナムとアメリカが支援した南ベトナムの間に残酷なベトナム戦争が10年間ほど続きました。
その結果、共産勢力が勝利して、南北ベトナムは共産主義国家として統一されたのです。
ベトナム戦争は1964年のトンキン湾事件でアメリカの本格的介入が始まり1975年のパリ協定で終了しました。その間アメリカ軍の戦死者は5万人にのぼる熾烈な戦争だったのです。べトナム人の犠牲者は数百万人と推定されています。
共産党による南北ベトナム統一が終了すると宗教関係者や経済を握っている華僑が弾圧されます。彼等は弾圧を逃れるために船に乗って沖に逃げたのです。いわゆるボートピープルです。
アメリカをはじめ自由主義の国々がボートピープルを拾い上げる為に大型船を沖合に派遣しました。

このボートピープルの一人だった人が私どもが通っているカトリック教会の主任神父のヨゼフ・ディン神父さまでした。主任司祭として8年間つとめました。とても優しく信者の面倒をみる素晴らしい神父様でした。
このディン神父様はベトナムで神学生でした。ベトナム戦争後の弾圧を逃れ日本に来ます。そして東京大司教区で日本の司祭になるための勉強を続け27年前に正式に叙階されたのです。
東京のあちこちのカトリック教会の主任司祭を務めてから私共の教会に来たのです。
ディン神父はベトナムで過酷な体験をした筈です。しかし一切話しません。沈黙しています。たまにベトナムから兄弟や親族が会いに来ます。神父様は日本の土になるのでしょう。
この神父さまを見る度の私は共産主義は悪夢だったと何度も実感したものです。

ミサの間、いつもは忘れていた共産党のキリスト教弾圧のことを時々思い出していました。
神学生と言えば数多くの聖堂の爆破を命じたスターリンも神学生だった時代があったのです。グルジアの神学校に通っていたのです。それなのに何千万人も粛清した残忍な独裁者になったのです。人間の恐ろしさに粛然とした思いになります。

何故か、なんじゃもんじゃの花の大木を見上げながら昨日は共産主義のことを考えていました。私の連想にはいつも脈絡があません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「妖艶な猛毒の芥子の花の写真をお送りします」

2019年05月09日 | 写真
ケシの花が散った後にできるケシ坊主から麻薬が作られます。栽培禁止です。
東京では薬科大学や都立薬草植物園など限定された場所で栽培されているということです。
何処でも厳重な鉄の檻の中の畑で栽培されています。赤.白・紫など美しい花で妖艶な感じがします。
今日は都立薬草植物園のケシの花の公開日なので写真を撮って来ました。
2重の柵の外側の柵の中に入れますが、その中にもう一つの鉄柵があります。手先は入りますが、芥子へは手が絶対に届きません。家内が柵の中へカメラを入れ苦心して撮りました。
猛毒の本物のケシの花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









小仏峠の輝く新緑と旧甲州街道物語

2019年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
江戸から大月までの旧甲州街道の宿場を順に記せば、新宿、高井戸、布田、府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上野原、鶴留川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、大月となる。大月から先は甲府盆地に入り、更に諏訪湖まで行き下諏訪で中山道と結ばれ、そこが終点になっていました。終点まで38の宿場がありました。
昨日は八王子から駒木野に入り小仏峠の下まで行って高尾山の輝く新緑の写真を撮って来ました。
駒木野から先は山の中でウグイスが美しい声でしきりに鳴いていました。
新緑の写真をお送りします。

1番目の写真は駒木野から旧甲州街道を少し登った所から見上げた裏高尾山の新緑です。

2番目の写真は日影沢の桂の国有林の新緑です。

3番目の写真は広大な梅林のある木下沢から見た裏高尾山の新緑です。

4番目の写真は小仏峠下に咲いていた藤の写真です。

5番目の写真は小仏峠下の旧甲州街道です。車道はこの先で終わり、その上は小仏峠を経て小原の宿場へ降りる登山道が続いています。足腰が丈夫だった以前はよく小仏峠に登り陣馬山まで足を伸ばしたものです。

そして以前に旧甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴川宿を訪ねたことを思い出しました。
あれは7年も前の2012年5月30日のことでした。
小原宿は現在の甲州街道の大垂水峠を越し、相模湖町へ近づくとあります。そこには「小原の郷」という歴史展示館があります。更にそこから100m位歩いたところに小原宿本陣があり公開されています。
よく昔のままに保全されているので旧甲州街道の宿場の雰囲気が感じられます。

吉野宿は現在の藤野町にあり、JR藤野駅に近くにあります。
現在の甲州街道を相模湖に沿って走って行くと本陣であった吉野浦(はじめ)氏の家が右にあり、その向かいに「吉野宿ふじや」 という看板の出ている歴史展示館があります。
歴史展示館で説明をしてくれた郷土史家から聞いた話です。
承久の乱(1221年)で鎌倉側に負けた後鳥羽上皇側の主な貴族や武将がこの桂川流域に配流されたので大和、京都の地名が残ったのです。
JR中央線の高尾、大原(現在は小原)宿、吉野宿、付近の嵯峨野、奈良本、など現在の地名は承久の乱の後に配流された人々がつけたと伝わっています。
その歴史的検証を一番深くされた方が、現在でも本陣に住んでいる吉野浦氏と聞き、後日、電話をしてさらに詳しいことを教えて頂きました。

鶴留川宿は現在の甲州街道の上野原町を通り過ぎて上野原警察署の前の切通しの坂を下り、右折して鶴留川の川原の方角へ下る。その下る道が旧甲州街道なのです。川の橋を渡った処「鶴留川宿」という石碑が立っています。そこを上ると宿場町のような家並みが道の両側に続いています。
本陣の建物も、展示館も一切ありませんが、昔風の静かな町なので散策していると当時の様子が蘇って来ます。
旧甲州街道は甲州や信州などからの参勤交代の行列が通った道でした。甲府城に詰める甲府勤番や八王子千人同心の武士達が江戸への往復で通った道です。また江戸庶民が富士講に通った道でもありました。そして幕府御用達の宇治茶を江戸まで届けるお茶壺道中も通ったそうです。鶴留川宿を歩いているとそんなことが彷彿とします。
なお鶴留川宿への旅日記は、「失われた時をもとめて、旧甲州街道を彷徨う(1)鶴川宿と上野原宿」(2018年4月23日掲載)にも御座います。

更に日本全国の街道に関する情報は以下をご参照下さい。
旧街道宿場一覧;http://www4.famille.ne.jp/~wanderer/syukuba.htm#hokkoku
旧街道一覧地図;https://gpscycling.net/tokaido/

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

流れ行く日々よ、そして水芭蕉の群落に遭遇した思い出

2019年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると月日が以前より早く流れ去るようになります。しかしその中でも忘れられない出来事が次々と起こり退屈することがありません。
今日は神秘的な水芭蕉の花の群落に突然遭遇した時の思い出を書いてみたいと思います。それは心に焼き付いている神秘的な光景でした。

水芭蕉の花は若い頃から一度見てみたいと長い間憧れていた花でした。
尾瀬の「夏の思い出」という歌が一世を風靡したころから水芭蕉という花に魅かれるようになりました。
作詞、江間章子、作曲、中田喜直のこの歌の中で尾瀬に咲く水芭蕉の花の美しさが出て来たのです。
「夏が来ると思い出す、 はるかな尾瀬 遠い空、・・・」 という尾瀬の夏の日を懐かしむ歌です。
しかし東京に忙しく働いていた私にとっては尾瀬はあまりにも遠い場所でした。
尾瀬には行けませんがその頃水芭蕉花の写真は雑誌で何度も見て憧れていました。何時かは見てみたいと憧れていた花でした。
白い花びらのように見える苞(仏炎苞)がロウソクの炎のように太い蕊の後ろに後光のように立っている大きな花です。
尾瀬の歌で知ったので、私は水芭蕉は尾瀬にしか咲いていないと思い込んでいたのです。

それから茫々数十年が過ぎました。停年になり悠々の老境です。
その老境で度々北海道を車で旅するようになりました。
ある時、網走湖のそばで道に迷い湿地の雑木林の脇に入ってしまったのです。
車輪が泥に入るのを恐れ車を降りて周囲を注意深く眺め回しました。
そこは一面に白い水芭蕉が咲いている雑木林だったのです。
水芭蕉の群落に突然遭遇したのです。それは2003年の5月のことでした。
あれからもう16年になりますが、その水芭蕉の花が一面に咲いている雑木林の光景が忘れられないのです。

1番目の写真は16年前の5月2日に偶然迷い込んだ水芭蕉の群生地の写真です。
場所を詳しく言うと網走湖の南端の湿地帯でした。国道から呼人半島の付け根の方向へ少し入った雑木林の下に広がる湿地帯です。観光地でないので案内の看板も無く、近所の人だけが散歩するような細い悪路が林に中に続いていました。
私共は水芭蕉の花に誘われて暗い林の中を陶酔したように歩き回りました。あの頃は妻もまだ66歳で元気溌剌として白い花の群落の中を舞うように歩きます。

この幻想的な水芭蕉の群生地が忘れられず、その後何度か北海道へ行くたびに湿地帯を見つけると車を停めて歩き回りました。しかし水芭蕉の群落は網走湖以外では見ることが出来なかったのです。
2012年の9月にもまた網走湖のそばを通るチャンスが巡って来ました。
2003年に辿った道を思い出しながら探して行きました。そして9月20日にこの曾遊の地を再び訪れたのです。
しかし9月は水芭蕉の花の季節ではありません。雑木林の中は暗く、道も崩れていて、荒れ果てた感じです。そして以前に歩いた細い道の入り口には立ち入り禁止の綱が張ってあります。花が咲く季節以外は人を入れず水芭蕉を保護しているのです。
帰宅後、ネットで調べると毎年5月初旬には相変わらず一面に咲いているようです。

2番目の写真は網走湖のそばの雑木林に一面に咲いている水芭蕉の写真です。
この写真の出典は、http://abashiri.jp/tabinavi/02spot/abashiriko.html です。

3枚目の写真も水芭蕉の咲いている湿地帯の光景です。
この写真の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6 です。

水芭蕉の群生地のそばで以前に泊まった丘の上の「網走湖観光ホテル」悠遊亭を思い出し、行ってみました。2002年と2003年の北海道旅行の折に2回泊った大きなホテルです。
ホテルは倒産したようで閉鎖されていました。玄関先には雑草が茂っています。
車を停めた広い駐車場にも雑草が生えています。「栄枯盛衰、世の習い」といいますので仕方が無いのですが淋しい思いがします。
下を見降ろすと、当時と同じように広大な網走湖が広がっています。

4番目の写真は岸辺に降りて行って撮った網走湖の写真です。
網走湖は観光客があまり行かない湖です。大きなシジミだけが名物の地味な湖です。その南端の湿地帯に水芭蕉が群生していて現在でも毎年4月中旬から5月にかけて見事な神秘的な花を見せてくれます。網走湖呼人半島の水芭蕉を検索すると開花状況が出ています。
北海道の自然は変わりません。その大自然が美しいだけに何か淋しい思いをしながら女満別飛行場から飛行機に乗り帰京しました。

このように水芭蕉の花に憧れていましたので群生地を探していました。そうしたら箱根の仙石原の湿生植物園にもありました。近場なので何度も行きました。
その他の水芭蕉の群生地については末尾の参考資料に掲載してあります。

老境の日々はどんどん流れ去ります。しかし忘れ得ない思い出も沢山出来るのです。老境は人生においていろいろな意味で貴重な期間なのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====水芭蕉に関する参考資料================
水芭蕉の特徴: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%BA%E3%83%90%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%82%A6 より以下の文章と水芭蕉の写真を引用いたしました。

5番目の写真は水芭蕉の花です。
湿地に自生し発芽直後の葉間中央から純白の仏炎苞(ぶつえんほう)と呼ばれる苞を開く。これが花に見えるが仏炎苞は葉の変形したものである。仏炎苞の中央にある円柱状の部分が小さな花が多数集まった花序(かじょ)である。開花時期は低地では4月から5月、高地では融雪後の5月から7月にかけて。葉は花の後に出る。根出状に出て立ち上がり、長さ80 cm、幅30 cmに達する。和名の「バショウ」は、芭蕉布の材料に利用されているイトバショウ(Musa liukiuensis (Matsumura) Makino)の葉に似ていることに由来する。

水芭蕉の分布:
シベリア東部、サハリン、千島列島、カムチャッカ半島と日本の北海道と中部地方以北の本州の日本海側に分布する。南限の兵庫県養父市の加保坂峠にも隔離分布している。山地帯から亜高山帯の湿原や林下の湿地に分布する。学名の種小名は「カムチャツカ半島」に由来する。基準標本は、カムチャッカ半島のもの。

日本の主な群生地:
日本の各地に多数の群落がある。「夏の思い出」(作詞:江間章子、作曲:中田喜直)で歌われているが、実際に尾瀬沼でミズバショウが咲くのは5月末ごろ、これは尾瀬の季節でいうと春先にあたる。
北海道南部の大沼国定公園においても群落が多数あり場所により開花の時期が違う。
駒ヶ岳の噴火によってできた湿地であったり水の溜まる地形が多い為にミズバショウには適した地といえる。
田中澄江が『新・花の百名山』で、薬師岳と北ノ俣岳の間にある「太郎兵衛平」を代表する花の一つとして紹介した。
北海道網走湖畔(大空町・網走市)、雨竜沼湿原(雨竜町)、仁田沼 - 福島県福島市の吾妻連峰、尾瀬沼、奥裾花(長野市)、以下省略。

野火止塚の不可思議さ、今に残る野火止用水

2019年05月07日 | 日記・エッセイ・コラム
武蔵野には少なくとも3万年前の無土器の旧石器時代から人が住んでいました。
そして朝鮮半島の火田民のような焼畑農業もしていた時代もあったと考えられています。
その野焼きの火勢を見守る小高い塚が野火止塚と考えられています。
しかし野火止塚が何故築かれたのか理由を書いた文献が皆無なのです。
ですから武蔵野の各地にあった野火止塚の役割は想像するだけです。不思議な謎の小高い塚なのです。
この野火止塚の一つが新座市野火止にある古刹、平林寺の広大な境内の裏に保存されています。以前、自分で撮った写真を示します。

1番目の写真は平林寺の裏に保存されている野火止塚です。

2番目の写真は野火止塚の前にある説明板です。このような塚は九十九塚とも呼ばれ各所に沢山あったのです。
この塚は、火田狩猟による野火を見張ったものか、焼畑耕法による火勢を見張ったものかは明らかではないが、野火の見張台であったとの説が有力であると書いてあります。
火田狩猟の意味は私には分かりませんが、火田民は、かつての朝鮮半島に存在した焼畑農業を行う農民の一族です。 なお野火止という地名は武蔵野の他の自治体にもあります。

また和名抄とは和名類聚抄のことで、平安時代中期に作られた辞書です。
承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順が編纂した20巻もある膨大な辞書です。
この辞書の構成は大分類である「部」と小分類の「門」より成っており、その構成は十巻本と二十巻本によってそれぞれ異なっています。

このように多数の野火止塚が作られた時代ははるか昔の焼畑耕法が使われていた時代なのです。
平林寺は江戸時代に作られたのですから野火止塚よりずっと新しい建造物なのです。
この平林寺を建てる時、水が必要になり玉川上水から分水した水路が掘削されました。
それが現在も整備されている野火止用水なのです。
玉川上水から分岐して野火止用水を堀ったのは江戸時代の初期のことです。

3番目の写真は東京都と埼玉県の境付近を流れる現在の野火止用水です。前は幅も2間以上もあり水量も豊かだったのです。

4番目の写真は埼玉県の新座市の平林寺の裏手を流れる野火止用水です。

5番目の写真も平林寺の裏手の野火止用水です。昨日撮った写真です。

玉川上水は1653年の工事開始、1654年には江戸、四谷まで通水しました。
それの1年遅れで野火止用水が松平伊豆守信綱により完成します。
松平信綱は玉川上水短期完成への功績が大きかったので3割の水の取得を幕府から許されました。
現在の野火止用水は写真が示すように小さな流れだが、当時は水流の幅も2間、その両岸に幅一間の堤が続いていたのです。
信綱は江戸時代、初代の川越城主で現在の埼玉県新座市一帯を私領としていたのです。自分の領地の農業振興の目的も含めて玉川上水短期完成へ知恵をめぐらしたのです。
野火止用水の完成が玉川上水より1年しか後でない。これは始めの設計段階から野火止用水が含まれていたに違いない。そこへ3割の水を流している。そんな多量の分水をしても江戸で困らないように取水口を設計しておいたに違いないのです。
信綱は野火止用水の完成を待って、岩槻から平林寺を移築し松平一族の菩提寺としました。このような信綱の深慮遠謀ぶりは見事です。
確かに玉川兄弟は私財も寄付した、そして何よりも卓越した現場監督であったに違いない。しかし、この兄弟が1年間で玉川上水を完成させた裏には幕府側に強大な支援者が居たに相違あるまい。野火止の地域へ行くと「伊豆守殿橋」という名前の橋があり玉川兄弟のことは説明文に出てこない。

ローカルな視点から歴史を見ると興味が尽きません。今日は野火止塚と野火止用水にまつわる歴史を書いてみました。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



「埼玉県、野火止の森の新緑風景をお楽しみ下さい」

2019年05月06日 | 写真
埼玉県の新座市には野火止という不思議な名前の土地があります。平林寺という古刹がある場所ですが、その周囲は畑作の田園です。その畑の所々に大きな森が散在しております。
新緑が綺麗な大木が沢山繁っております。
今日は曇り日ですが写真を撮って来ました。
どうぞ野火止の森の新緑風景をお楽しみ下さい。









安倍総理は憲法改正が出来るか否か?

2019年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
安倍総理が2012年に総理大臣に就任してからもう7年になります。
頻繁に外国に行って各国の大統領や首相と会談してよく働いていることは偉いです。
しかし北朝鮮の拉致問題は一向に解決しない上、ロシアからの北方4島返還も全く不可能です。ロシアとの平和条約も出来ません。
残念ながら外交上の大きな成果を挙げていないのです。
それでは国内政治で大きな功績を挙げたでしょうか?

今日は安倍総理が就任以来、何度も繰り返し主張している憲法改正の問題を取り上げてみようと思います。
結論を先に言えば意外に強い世論の抵抗にあい、憲法改正が遅々として進んでいないのです。
憲法改正を早急に進めれば自民党の議員数が次の選挙で減ることを示唆する世論調査の結果が出ているのです。これでは安倍総理が逡巡せざるを得ません。
それでは最近のNHKによる世論調査の結果を少し詳しく見てみましょう。
NHKは、2019年1月12日から3日間、全国の18歳以上の男女を対象に、コンピューターで無作為に発生させた固定電話と携帯電話の番号に電話をかける「RDD」という方法で世論調査を行いました。調査の対象となったのは2166人で、56%にあたる1206人から回答を得ました。
調査結果の詳細は、 https://www3.nhk.or.jp/news/special/kenpou70/yoron-ent.html に出ています。以下はその抜粋です。

1番目の図は2019年の調査結果です。
安倍総理大臣は、2020年を新しい憲法が施行される年にしたいとして、憲法改正に意欲を示しています。国会での憲法改正に向けた議論について、「早く進めるべき」が23%、「急いで進める必要はない」が50%、「憲法改正の議論をする必要はない」が14%でした。

2番目の図は2018年の調査結果です。
国会で憲法改正に向けた議論を早く進めるべきかどうか聞いたところ、 「早く進めるべき」が17%、「急いで進める必要はない」が50%、「どちらともいえない」が24%でした。
2018年の調査では「早く進めるべき」が17%でしたが、2019年には23%と増加しています。
しかし2018年も2019年も「急いで進める必要はない」が同じ50%もあったのです。その上2019年には「急いで進める必要はない」の50%と「憲法改正の議論をする必要はない」の14%を合計すると64%になるのです。
世論は明確に急ぐなと言っているのです。

3番目の図は臨時国会に自民党の憲法改正案を提出すべきか否かを聞いた結果です。
安倍総理大臣は国会に自民党の憲法改正案を提出できるよう党内議論を加速させたい考えを示しています。これについて聞いたところ、「提出すべき」が17%、「提出する必要はない」が36%、「どちらともいえない」が38%でした。「提出する必要はない」が36%もあったのです。

4番目の図は安倍内閣が、今後、最も力を入れて取り組むべき課題を示しています。
結果は「社会保障」が28%、「経済政策」が20%、「地方活性化」が14%、「外交・安全保障」と「防災対策」が11%、「憲法改正」が6%で最下位なのです。世論は明確に急ぐなと言っているのです。

5番目の図は2018年9月の政治意識月例調査の結果です。
3番目の調査結果とほぼ同じ結果です。世論は明確に急ぐなと言っているのです。

安倍総理が急いでいるのに世論は急ぐなと言っているのは何故でしょうか?
理由は憲法改正で憲法9条が削除され平和憲法でなくなる恐れがあるからです。
憲法9条を示します。
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。
  国の交戦権は、これを認めない。

日本が戦後74年間平和だったのはこの9条のお陰だと信じている国民が多いのです。
ですから憲法改正で戦争が起きる可能性が増大すると考える人が多いのです。世論調査結果はこのことを示唆しています。
一方、日本が戦後74年間平和だったのはアメリカ軍が日本の各地に基地を持ち日本全土を守っていたからだと考える人も多いのです。
この9条に関する世論調査結果は次のようになっています。
憲法9条への自衛隊の明記について、どうすべきだと思うか聞いたところ、◇「9条2項を維持して、自衛隊の存在を追記する」が16%、◇「9条2項を削除して、自衛隊の目的などを明確にする」が30%、◇「憲法9条を変える必要はない」が38%でした。
驚くべきことに「憲法9条を変える必要はない」が38%もあったのです。
強力な自衛隊の存在は明らかに「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」に矛盾しているのです。
矛盾しているのにこの2項を永久に保持しようとしているのは日本人の言霊信仰にあると思います。
現実に合致していなくても「祈りの言葉」として保存したいのです。戦争中の「神州不滅」という言葉と同じです。祈りの言葉なのです。これも言霊信仰の一つなのでしょう。

私の改正案です。
第九条【戦争放棄と自衛のための軍備】
1 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、 国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。ただし自衛のための武力行使はこの限りではない。
2 前項の自衛のための武力行使目的を達するため、陸海空軍その他の戦力を保持する。
  
それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今日のカトリック小金井教会の外と中の風景

2019年05月05日 | 日記
今日は教会の外に咲いている花の写真とミサ風景の写真をお送りいたします。









今日の聖書朗読はヨハネによる福音書の21章、1~19節でした。
生き返った、すなわち復活したイエスが3度目に弟子達の前に現れ、湖畔で炭火で焼いた魚とパンで一緒に朝食を食べた場面です。

1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。
その次第はこうである。2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。
6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。

7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。

10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。

13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。

18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

江戸への水道、玉川上水の新緑の風景

2019年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
玉川上水は江戸初期に江戸へ生活用水を送るため、多摩川上流の羽村から取水し四ツ谷まで43Kmの堀を作ったものです。江戸幕府から委託され、工事を完成させた玉川兄弟の銅像は羽村の堰の岸辺に立っています。
現在も玉川上水はよく手入れされ大きな樹々が繁っています。江戸時代の自然がそのまま残っているようです。
三鷹市から上流の細長い緑の林には散歩道が整備され羽村市まで続いています。
昨日はこの玉川上水沿いの細い道を小金井市から小平市、立川市、福生市、羽村市と車を走らせ新緑の写真を撮って来ました。
5枚のうち始めの3枚の写真は順に立川市、福生市、羽村市で撮った玉川上水の新緑です。
4番目の写真は現在の羽村の堰です。5番目の写真は羽村の堰から見た多摩川の風景です。









このような江戸幕府が作った緑豊かな水道路の風景を楽しむたびに先人の苦労に感謝します。
玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟の努力と献身の結果出来上がった上水路なのです。
その苦労の様子をhttps://ja.wikipedia.org/wiki/玉川上水 から抜粋します。
・・・羽村から四谷までの43Kmの高低差が100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めたのです。
当初は日野から取水しようとしましたが開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更し、はるか上流の羽村村から取水することになったのです。
こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用します。
安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み―」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み―」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立―」と3案を考えました。
そして遂に第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成させたのです。
承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始されたのです。
この困難な土木工事を実際に請け負ったのが玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟だったのです。
しかし工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたのです。
庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられました。・・・

それにしても高低差がたった100メートルしか無いのに43000メートルも水を流す土木工事は現在でも容易なことではありません。
そして玉川上水は立川、小平、小金井、など各地で分水され江戸の西の農村を潤したのです。
現在でも平林寺への野止め用水はよく保全され美しい緑地帯になっております。

江戸幕府の土木遺産が現在も人々を楽しめているのです。感慨深いものです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


みずみずしい新緑の森の写真をお楽しみ下さい

2019年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
自宅から車で1時間以内の場所に大きな森が幾つかあります。五か所くらい奥深い森があるのです。
自然の樹木が大好きな私は四季折々通い、眺めては心地良い気分になって帰ってきます。
昨日は小平市にある都立薬草植物園の裏にある大きな森の中に座ってゆっくり樹々を眺めて来ました。
何とも言えないすがすがし幸福感に包まれました。
昨日撮って来たみずみずしい新緑の森の写真をお送りします。お楽しみ下さい。









さて最近の日本の新聞は平成天皇の退位と新天皇の即位に関する記事で埋めつくされていました。美智子様を讃える記事が沢山ありました。他には何一つ重要なニュースが無いようでした。
この日本新聞を外国の人々はどのような気持ちで見ていたのでしょうか?
外国では天皇のことをエンペラー、すなわち皇帝と呼んでいます。ですから私の韓国の友人は、「新しい皇帝が決まっておめでとうございます」と祝辞を送ってくれました。
私は新聞を見て平成天皇と美智子皇后は国民を深く愛していたことに感動しました。特に美智子様はハンセン病患者の一人一人の手を握って励ましたそうです。ご自分が感染すると恐れなかったのです。もっとも現在の医学では感染の可能性は無いということになっていますが。
天皇と皇后に愛された国民は幸せです。このことを外国の人は皇帝に愛された国民は幸福だと考えます。当然国民も皇帝を愛しています。このように外国人は日本が愛のある国だと思います。
しかし天皇と皇帝は違います。王様とも違います。違いますが、似ている国もあります。タイ王国とブータン王国とイギリスなどです。
天皇と皇帝と王様の違いを明確に説明することは至難の業です。お互いに翻訳出来ない言葉は沢山ありますが、「天皇」という言葉も翻訳出来ません。西洋の皇帝とも違いますし中国や朝鮮の歴代の王朝とも性質が違うのです。欧米人は天皇を便宜的に皇帝、エンペラーと呼んでいますが日本人は天皇のことを絶対に皇帝とは呼びません。
それはそれとして天皇や皇后の国民への愛はキリスト教の神の愛と同じようなものでしょうか?
今日は問題を提起するだけです。解答は皆様でお考えください。
最後に最近の新聞で心配になったことを書きます。それは全国民が一人残らず新天皇を讃え祝っているという報道ぶりです。天皇制に反対している7%の国民を抹殺した報道の姿勢です。6%の天皇制に無関心な人も無視しているのです。合計13%の日本人が新天皇を讃え祝っていないのです。少数意見を大切にして何故天皇制に反対しているかも報道すべきです。それが自由で平等な民主主義というものではないでしょうか?
何か日本が戦前の全体主義の国家に逆もどりしているようで怖いのです。日本の新聞は異常です。
誤解を避けるために明記しますが、私は天皇制に賛成ですし新天皇を讃え祝っています。
美智子上皇妃様には深く感謝しています。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)