後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

江戸への水道、玉川上水の新緑の風景

2019年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
玉川上水は江戸初期に江戸へ生活用水を送るため、多摩川上流の羽村から取水し四ツ谷まで43Kmの堀を作ったものです。江戸幕府から委託され、工事を完成させた玉川兄弟の銅像は羽村の堰の岸辺に立っています。
現在も玉川上水はよく手入れされ大きな樹々が繁っています。江戸時代の自然がそのまま残っているようです。
三鷹市から上流の細長い緑の林には散歩道が整備され羽村市まで続いています。
昨日はこの玉川上水沿いの細い道を小金井市から小平市、立川市、福生市、羽村市と車を走らせ新緑の写真を撮って来ました。
5枚のうち始めの3枚の写真は順に立川市、福生市、羽村市で撮った玉川上水の新緑です。
4番目の写真は現在の羽村の堰です。5番目の写真は羽村の堰から見た多摩川の風景です。









このような江戸幕府が作った緑豊かな水道路の風景を楽しむたびに先人の苦労に感謝します。
玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟の努力と献身の結果出来上がった上水路なのです。
その苦労の様子をhttps://ja.wikipedia.org/wiki/玉川上水 から抜粋します。
・・・羽村から四谷までの43Kmの高低差が100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めたのです。
当初は日野から取水しようとしましたが開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更し、はるか上流の羽村村から取水することになったのです。
こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用します。
安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み―」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み―」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立―」と3案を考えました。
そして遂に第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成させたのです。
承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始されたのです。
この困難な土木工事を実際に請け負ったのが玉川庄右衛門と清右衛門の兄弟だったのです。
しかし工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたのです。
庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられました。・・・

それにしても高低差がたった100メートルしか無いのに43000メートルも水を流す土木工事は現在でも容易なことではありません。
そして玉川上水は立川、小平、小金井、など各地で分水され江戸の西の農村を潤したのです。
現在でも平林寺への野止め用水はよく保全され美しい緑地帯になっております。

江戸幕府の土木遺産が現在も人々を楽しめているのです。感慨深いものです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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