後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

世界遺産、山中湖と富士浅間神社への小さな旅

2019年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
国連のユネスコの世界遺産は3種類に分かれています。知床や白神山地のような自然遺産と京都の文化財や白川郷の合掌造り集落などの文化遺産と日本にはまだ無い複合遺産の3種類です。
自然遺産とは文字通り非常に美しい景観の山や湖や海の組み合わせが主なものです。一方文化遺産とは人類の遺産として残すべき人間の作った特別な文化のことでです。複合遺産とはこの2種類の遺産が複合したもので、日本にはまだありません。
昨日、旅に行った山中湖や富士吉田にある北口富士浅間神社は「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」という世界文化遺産に含まれています。
これは富士山にまつわる信仰や宗教と芸術活動に対して2013年に認定されたものです。そして構成資産が全部で25箇所あるのです。
すなはち富士山、富士五湖、忍野八海、北口富士浅間神社などが含まれています。
昨日は山中湖と北口富士浅間神社を訪れ、写真をいろいろ撮って来ました。薄曇りの日でしたので鮮明な写真ではありませんが写真に従って昨日の小さな旅のご報告を致したい思います。

1番目の写真は富士吉田から山中湖に向かう高速道路にのしかかるような富士山の風景です。昨日は薄曇りなのでこんな富士山が見え隠れしていました。

2番目の写真は波立ち騒ぐ山中湖の岸辺です。薄い霧のようなものがかかっていて対岸や富士山は見えませんでした。

3番目の写真は何十年も山中湖の沖に係留してあるヨットです。富士山を背景にしてこのヨットの写真を撮るのが私の長年の習慣でしたが、昨日はヨットが陸に上がっていました。

4番目の写真は杉の巨木の並んだ参道の写真です。この参道の奥に北口富士浅間神社が鎮座しています。

5番目の写真は北口富士浅間神社です。元和元年(1615)鳥居土佐守創建です。一間社入母屋造、向拝唐破風造、檜皮葺屋根、安土桃山様式で 昭和28年、国指定重要文化財に指定されました。

6番目の写真は拝殿の内部の写真です。

7番目の写真は修験者と僧侶に導かれた富士講の行列です。この写真は富士山信仰の修験道の山行きの出発前の行列なのです。「六根清浄、・・・」と唱和する声が杉並木に神秘的にこだましていました。(この写真だけは2016年8月27日に撮ったものです)

さてこの記事の表題は「世界遺産、山中湖と富士浅間神社への小さな旅」となっています。
わざわざ「世界遺産、」とつけたのは昨日の小さな旅の間以下のようなことを考えていたからです。
富士山は古来より信仰の対象とされ、その上絵画の題材になり、更にいろいろな文学作品に描かれてきたのです。
今から約1,200年前、奈良時代にはすでに富士山を題材にした歌が「万葉集」に詠まれています。
また、富士山は、『竹取物語』や『伊勢物語』などの古典作品をはじめ、俳句や漢詩、夏目漱石や太宰治の文学作品にも取り上げられてきました。
絵画の世界では、平安時代から富士山は絵画に描かれるようになります。現存する最古の絵画は、秦致貞の『聖徳太子絵伝』だそうです。
江戸時代に富士登山が「富士講」等を通じて爆発的に人気となると、富士山も多くの絵師に描かれるようになりました。
葛飾北斎の『冨嶽三十六景』や歌川広重の『不二三十六景』、『東海道五拾三次』など、様々な場所から見た富士山が浮世絵に描かれています。浮世絵が海外に輸出されるようになるとゴッホやモネなど、西洋の芸術家にも大きな衝撃を与えました。

一方の宗教活動とは何でしょうか?
それは富士山信仰のことです。富士山そのものを信仰の対象としたもので修験道の山行きとそれを支える幾つかの登山口にあるそれぞれの浅間神社です。修験道の山行きが重要なので吉田口や須走口から登る登山道などもこの文化遺産に含まれているのです。

北口富士浅間神社は山中湖に行く道の途中にあるので、昔から何度も寄りました。
いつも人影の少ない静かな神社でしたが、昨日は参拝客が多く賑わっていました。
これも世界文化遺産に認定されたお陰でしょうか。
昨日は寄らなかった忍野八海にはいつも中国人の観光客が溢れ中国語が飛び交っています。

今迄何十年と、富士五湖や富士山の五合目までは何度も行きました。従来は単純に美しい風景に感動していました。しかし「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」が世界文化遺産になってからは富士山と文化のかかわりも考えながら旅を楽しむようになりました。
何か富士山への旅の楽しみが奥深くなったようです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料===============
構成資産とは、富士山が「信仰の対象」「芸術の源泉」となった価値を具体的に証明できる文化資産のことです。山体だけでなく、古より富士山と関わりを持つ周囲の神社や登山道、風穴、溶岩樹型、湖沼などがあります。世界文化遺産としてふさわしい価値を有しているもののことです。構成資産は全部で25箇所です。
http://www.fujisan223.com/reason/kouseishisan/ からの抜粋です。
1. 静岡県・山梨県
富士山(富士山域)
「信仰の対象」と「芸術の源泉」の価値を持つ、標高約1,500m以上の重要な地域に9件の構成要素が存在。

1-1. 静岡県・山梨県
山頂の信仰遺跡群
火口壁に沿って神社等の宗教関連施設が分布し、山頂部で宗教行為が体系化されたことを示しています。
1-2. 富士宮市
大宮・村山口登山道(現 富士宮口登山道)
富士山本宮浅間大社を起点とし、村山浅間神社を経て山頂南側に至る登山道。資産範囲は六合目以上です。

・・・中略・・・
1-5. 富士吉田市/冨士河口湖町
吉田口登山道
北口本宮冨士浅間神社を起点とし、山頂を目指す登山道。18世紀後半以降、最も多く利用されています。
1-6. 富士吉田市
北口本宮冨士浅間神社
浅間大神が祀られていた遙拝所を起源とし、1480年には鳥居を建立。富士講とのつながりが強いとされる。
・・・以下省略・・・・
そして静岡県の三保の松原が25番目の構成資産になっています。

古墳信仰と神道の混淆信仰の写真

2019年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する話を少し書きたいと思います。
話題は古墳に祀られている有力者の霊を守り神とする信仰と神社信仰が江戸時代に混淆したという珍しい話です。
東京都府中市にある武蔵熊野神社古墳がこの珍しい混淆信仰なのです。
この神社の奥の宮が古墳の玄室なのです。古墳そのものは飛鳥時代に出来ましたが、江戸時代中期に熊野神社が引越して来て合体したのです。
昨日撮って来た写真で説明いたします。

1番目の写真は神社と古墳が合体している様子を西側から撮った写真です。この写真の右の方にある建物が本殿で、その右の建物が拝殿です。本殿と古墳は接続しています。神社の奥の宮は古墳の中央の地下にある玄室です。

2番目の写真は本殿の脇にある石碑と古墳です。石碑には国史跡、武蔵府中熊野神社古墳と刻み込んであります。

3番目の写真は古墳の拝殿の写真です。他の神社の拝殿と同じで賽銭箱が置かれてあります。

4番目の写真は古墳を東側から撮った写真です。古墳は上が丸く下が四角形に造られています。そして古墳の全面は多摩川の川原から運んだ丸石で覆われています。

5番目の写真は古墳の裏鳥居を北側から撮った写真です。左右の石門には熊野神社と刻み込んであります。すなはち古墳と神社が融合合体しているのです。

この石造りの古墳については驚くべき事実が3つあります。
(1)これが650年前後に作られた古墳であると学問的に発見されたのがごく最近の2004年であったのです。
(2)上が丸く、下が四角形は中国の思想を受けた構造であり、副葬品に中国の七曜文様が見つかっているのです。こんな時代に関東地方まで中国文化が浸透していたことに驚きます。もちろん直接では無く朝鮮の慶州の古墳文化が伝わったのでしょう。
(3)驚くべきことは江戸時代にここに引越して来た熊野神社のご神体として古墳が利用されてきたのです。神仏混淆とは珍しくありませんが神社と古墳が混淆しているのは驚きです。そして古墳の玄室が神社の奥の宮として利用されていたのです。

この古墳の詳しい話については「私の郷土史(1)2004年に発見された多摩川の石で造った巨大な古墳」(2012年12月18日掲載記事)をご覧下さい。
また下記もご覧下さい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3 

今日は神社と古墳が混淆している信仰を簡略にご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)