後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「妖艶な猛毒の芥子の花の写真をお送りします」

2019年05月09日 | 写真
ケシの花が散った後にできるケシ坊主から麻薬が作られます。栽培禁止です。
東京では薬科大学や都立薬草植物園など限定された場所で栽培されているということです。
何処でも厳重な鉄の檻の中の畑で栽培されています。赤.白・紫など美しい花で妖艶な感じがします。
今日は都立薬草植物園のケシの花の公開日なので写真を撮って来ました。
2重の柵の外側の柵の中に入れますが、その中にもう一つの鉄柵があります。手先は入りますが、芥子へは手が絶対に届きません。家内が柵の中へカメラを入れ苦心して撮りました。
猛毒の本物のケシの花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









小仏峠の輝く新緑と旧甲州街道物語

2019年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
江戸から大月までの旧甲州街道の宿場を順に記せば、新宿、高井戸、布田、府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上野原、鶴留川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、大月となる。大月から先は甲府盆地に入り、更に諏訪湖まで行き下諏訪で中山道と結ばれ、そこが終点になっていました。終点まで38の宿場がありました。
昨日は八王子から駒木野に入り小仏峠の下まで行って高尾山の輝く新緑の写真を撮って来ました。
駒木野から先は山の中でウグイスが美しい声でしきりに鳴いていました。
新緑の写真をお送りします。

1番目の写真は駒木野から旧甲州街道を少し登った所から見上げた裏高尾山の新緑です。

2番目の写真は日影沢の桂の国有林の新緑です。

3番目の写真は広大な梅林のある木下沢から見た裏高尾山の新緑です。

4番目の写真は小仏峠下に咲いていた藤の写真です。

5番目の写真は小仏峠下の旧甲州街道です。車道はこの先で終わり、その上は小仏峠を経て小原の宿場へ降りる登山道が続いています。足腰が丈夫だった以前はよく小仏峠に登り陣馬山まで足を伸ばしたものです。

そして以前に旧甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴川宿を訪ねたことを思い出しました。
あれは7年も前の2012年5月30日のことでした。
小原宿は現在の甲州街道の大垂水峠を越し、相模湖町へ近づくとあります。そこには「小原の郷」という歴史展示館があります。更にそこから100m位歩いたところに小原宿本陣があり公開されています。
よく昔のままに保全されているので旧甲州街道の宿場の雰囲気が感じられます。

吉野宿は現在の藤野町にあり、JR藤野駅に近くにあります。
現在の甲州街道を相模湖に沿って走って行くと本陣であった吉野浦(はじめ)氏の家が右にあり、その向かいに「吉野宿ふじや」 という看板の出ている歴史展示館があります。
歴史展示館で説明をしてくれた郷土史家から聞いた話です。
承久の乱(1221年)で鎌倉側に負けた後鳥羽上皇側の主な貴族や武将がこの桂川流域に配流されたので大和、京都の地名が残ったのです。
JR中央線の高尾、大原(現在は小原)宿、吉野宿、付近の嵯峨野、奈良本、など現在の地名は承久の乱の後に配流された人々がつけたと伝わっています。
その歴史的検証を一番深くされた方が、現在でも本陣に住んでいる吉野浦氏と聞き、後日、電話をしてさらに詳しいことを教えて頂きました。

鶴留川宿は現在の甲州街道の上野原町を通り過ぎて上野原警察署の前の切通しの坂を下り、右折して鶴留川の川原の方角へ下る。その下る道が旧甲州街道なのです。川の橋を渡った処「鶴留川宿」という石碑が立っています。そこを上ると宿場町のような家並みが道の両側に続いています。
本陣の建物も、展示館も一切ありませんが、昔風の静かな町なので散策していると当時の様子が蘇って来ます。
旧甲州街道は甲州や信州などからの参勤交代の行列が通った道でした。甲府城に詰める甲府勤番や八王子千人同心の武士達が江戸への往復で通った道です。また江戸庶民が富士講に通った道でもありました。そして幕府御用達の宇治茶を江戸まで届けるお茶壺道中も通ったそうです。鶴留川宿を歩いているとそんなことが彷彿とします。
なお鶴留川宿への旅日記は、「失われた時をもとめて、旧甲州街道を彷徨う(1)鶴川宿と上野原宿」(2018年4月23日掲載)にも御座います。

更に日本全国の街道に関する情報は以下をご参照下さい。
旧街道宿場一覧;http://www4.famille.ne.jp/~wanderer/syukuba.htm#hokkoku
旧街道一覧地図;https://gpscycling.net/tokaido/

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)