後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

昔の学生さんが栽培した野菜を送ってくれました

2019年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
T君と知り合ったのは茫々50年くらい前のことです。初めて研究室で会った時は凛々しい青年でした。
その昔の学生さんが採れたてのソラマメと新玉ネギを沢山送ってくれたのです。T君は野菜の栽培が趣味なのです。毎年頂くたびに幸せな気分になります。

1番目の写真が今日届いた野菜の写真です。

T君は私が研究指導をして工学博士になった大学院の学生さんでした。そのような大学院の学生さんは数人いましたが、T君は気性の良い優しい人柄だったので印象が特に深いのです。
私のもとに5、6年いましたのでよく一緒に遊んだものです。
冬は家内や子供達と奥多摩のスケート場に何度も行きました。
甲斐駒の麓の山小屋にも泊まりがけで遊びにいきました。その折、釜無川でハヤ釣りを教えて貰ったのも楽しい思い出です。
T君の家は多摩川沿いの立川市にあったのでハヤ釣りの名人でした。
そんなこともあって私の山小屋の薪ストーブも作ってくれました。

2番目の写真の小川の手前の右側にある黒い鉄製の箱がその薪ストーブです。T君のお父さんが自分の経営していた工場で作ってくれたストーブです。
このストーブは毎冬やく30年間ほど使いました。その後、他の薪ストーブを買ったので不要になりました。
しかしT君との楽しい思い出が忘れられず、写真のように小屋の庭に安置したのです。この写真は2017年の4月に撮ったものです。
それはさておき、T君は工学博士になって大きな製鉄会社に就職し、そこの研究所に勤務します。
結婚式にもよばれましたので可愛い美人の奥さんにもお会いしたことがあります。
T君の勤務していた研究所は千葉市と瀬戸内海の水島市にありました。水島市の研究所にいた間は毎年、キビナゴの酢漬けを送ってくれました。T君の研究所での評判は抜群でした。人柄が良く周囲の人と協調して大きな研究成果を上げていたのです。
T君は定年後には千葉の自宅に住み、悠々と趣味の畑の仕事も楽しんでいます。奥さんもお子さんも孫達も皆健康だそうです。
私の一生は文字通り恥多い一生でしたが、T君やその他多くの学生君と知り合ったことが実に楽しい思い出になりました。
あれから茫々50年、T君も70歳前後になったはずです。
今日はT君が野菜を送ってくれたお陰で昔の楽しい思い出を次から次へと想い浮かべています。こうして老境の今日も感謝の念とともに流れ行きます。晴れ晴れした良い一日です。

北日本にある縄文時代の環状列石の謎

2019年05月27日 | 日記・エッセイ・コラム
イギリスには巨石を使った環状列石(ストーンサークル)が多数あります。有名なストーンヘンジもストーンサークルの一種です。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークル )
イギリスの環状列石は紀元前2,500年から2,000年の間に建てられました。
そして世界遺産に登録されたアフリカのセネガンビアの環状列石では発掘調査が行われ、8世紀から12世紀にかけての配石墓であることが判明しています。
( https://ja.wikipedia.org/wiki/ストーンサークル )
一方、このような環状列石は日本でも発見され、178もあることが分かっています。
しかもその4割があるのは秋田県です。(https://trip-s.world/stone-circle_akita )
この環状列石は北海道にもあります。しかし長野県から西では非常に数が少なくなります。
これら日本の環状列石は6000年前頃から造られたと言われています。
それは縄文時代の中頃です。
北海道と青森、秋田、岩手の北東北は縄文文化が非常に栄えた地方です。
しかしこのような大きな環状列石は何故造られたのでしょうか?
今日はこの謎に迫ってみたいと思います。

環状列石(ストーンサークル)とは石を円形状に並べた遺跡です。石の輪が一重、二重三重にもなっているケースもあります。何故このような構造になっているのか?またこの施設をどのように使っていたのか?などは分かっていません。
それでは環状列石の写真を示します。

1番目の写真はイギリスの環状列石です。イギリス湖水地方のスウェインサイド・ストーンサークルです。
イギリスにはこのような環状列石が多数見つかっています。

2番目の写真は北海道の森町にあるストーンサークルの写真です。写真に放射線状に走っているものは見学者用に作られた歩道です。
写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715 です。
このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。

3番目の写真は秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真です。直径が50m位あります。
この写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.html です。

4番目の写真は秋田県大湯のストーンサークルの周囲に復元した縄文時代の村の展示です。

5番目の写真は青森県の縄文遺跡の地図です。この青森と同じような縄文遺跡が多数北海道南部でも発見されているのです。北海道南部と青森には縄文文化が同時に花咲いたのです。
そこで北海道の歴史を概観してみましょう。
北海道は本州以南とは違った独自の歴史を持っているです。
旧石器時代から縄文時代までは北海道の歴史は本州とほぼ同じでしたが、その後の本州の弥生時代や古墳時代は北海道には存在しません。
その代わり、続縄文時代が本州での古墳時代の頃まで続いたのです。
その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の中部と南部の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。

擦文文化時代とは、その時代の土器に筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついています。
そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。
狭い意味でアイヌ民族と呼ぶのは、この鎌倉時代から明治維新まで続いた独特な文化の担い手の人々の事です。
広い意味でのアイヌ人とは旧石器時代から縄文時代まで北海道や本州にいた先住民族を意味します。
何故、北海道には、弥生時代や古墳時という時代区分がなかった?
そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm です。
本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道の縄文人(アイヌ人)は「続縄文時代」や「オホーツク文化期」を迎えていました。(http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/grp/04/nenpyou.pdf )

こんな縄文の歴史の中で北海道の森町の環状列石が造られたのです、
日本全土の縄文文化は主にアイヌ人の祖先が作ったのです。
本州の弥生文化は南方や朝鮮、中国からの渡来、移住した人々と混血した日本人が担っていたのです。
従って、弥生遺跡や古墳が北海道に存在しないことも無理なく理解できます。

さて環状列石は何故造られたのでしょうか?
その理由については次のような諸説があります。
(1)天文台説、
(2)お墓説、
(3)祭祀場説、
(4)これらを組み合わせた説。
縄文時代は漢字も導入されていませんから文献資料が皆無です。
ですから謎解きは想像に頼る他はありません。
縄文時代には天文観測の施設の遺跡が他に発見されていませんので(1)天文台説は可能性が非常に小さいと判断されます。
イギリスの環状列石の周囲から多数の人骨が見つかっているので(2)お墓説が有力です。
そしてイギリスで見つかっている人骨から頭蓋骨と大腿骨だけが無いことから、それらを取り出して部族の安全と幸せを祈る祭祀が行われたと推定されています。
先祖の霊が子孫の安全と幸せを守るという信仰は古代の多くの民族共通の信仰なのです。
縄文人も同じだったのでしょう。
それにしても環状列石は弥生時代以後は一切造られていないのです。何故でしょうか?
大胆な想像ですが弥生時代以後は中国特に朝鮮の文化の古墳文化が強力に導入されたため環状列石は消えて行ったのでしょう。環状列石はシベリア北部の民族の文化で古墳は中国、朝鮮の文化と言ったら間違いでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)