後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

古墳信仰と神道の混淆信仰の写真

2019年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する話を少し書きたいと思います。
話題は古墳に祀られている有力者の霊を守り神とする信仰と神社信仰が江戸時代に混淆したという珍しい話です。
東京都府中市にある武蔵熊野神社古墳がこの珍しい混淆信仰なのです。
この神社の奥の宮が古墳の玄室なのです。古墳そのものは飛鳥時代に出来ましたが、江戸時代中期に熊野神社が引越して来て合体したのです。
昨日撮って来た写真で説明いたします。

1番目の写真は神社と古墳が合体している様子を西側から撮った写真です。この写真の右の方にある建物が本殿で、その右の建物が拝殿です。本殿と古墳は接続しています。神社の奥の宮は古墳の中央の地下にある玄室です。

2番目の写真は本殿の脇にある石碑と古墳です。石碑には国史跡、武蔵府中熊野神社古墳と刻み込んであります。

3番目の写真は古墳の拝殿の写真です。他の神社の拝殿と同じで賽銭箱が置かれてあります。

4番目の写真は古墳を東側から撮った写真です。古墳は上が丸く下が四角形に造られています。そして古墳の全面は多摩川の川原から運んだ丸石で覆われています。

5番目の写真は古墳の裏鳥居を北側から撮った写真です。左右の石門には熊野神社と刻み込んであります。すなはち古墳と神社が融合合体しているのです。

この石造りの古墳については驚くべき事実が3つあります。
(1)これが650年前後に作られた古墳であると学問的に発見されたのがごく最近の2004年であったのです。
(2)上が丸く、下が四角形は中国の思想を受けた構造であり、副葬品に中国の七曜文様が見つかっているのです。こんな時代に関東地方まで中国文化が浸透していたことに驚きます。もちろん直接では無く朝鮮の慶州の古墳文化が伝わったのでしょう。
(3)驚くべきことは江戸時代にここに引越して来た熊野神社のご神体として古墳が利用されてきたのです。神仏混淆とは珍しくありませんが神社と古墳が混淆しているのは驚きです。そして古墳の玄室が神社の奥の宮として利用されていたのです。

この古墳の詳しい話については「私の郷土史(1)2004年に発見された多摩川の石で造った巨大な古墳」(2012年12月18日掲載記事)をご覧下さい。
また下記もご覧下さい。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E7%86%8A%E9%87%8E%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E5%8F%A4%E5%A2%B3 

今日は神社と古墳が混淆している信仰を簡略にご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


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