後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日は摘み取り自由の花畑に行きました」

2019年05月23日 | 写真
三鷹市の花と緑の広場で今日は無料で花を10本採って良い日です。
ヒナゲシ、ヤグルマソウ、マツビシソウなどを混栽した花畑の植え替えの時期なのです。
自由に花を採れる日は一年間に3,4回あるのです。
1、2番目の写真は今日の花々です。
3番目の写真は花を採っている家内です。4番目の写真は今日採って来た花です。5番目の写真は先週家内が緑の基金で貰って来たカスミソウの花です。

写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









日本古来の信仰と神社の歴史

2019年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の古代の縄文時代や弥生時代は大木や山体を神として祀る原始宗教だったと言われています。集落の人々が集まって神に豊漁や豊作を祈る祭壇や主祭殿が存在していたことが分かっています。

1番目の写真は青森県の三内丸山遺跡を実物大に復元した展示用の公園です。
大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅があり、食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。
しかし祭祀のための巨大柱のある場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたと考えざるを得ません。
(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)
写真の左下に写っている巨大な木柱を組んだ建造物は祭祀用の祈祷檀のようです。

2番目の写真は佐賀県の「吉野ケ里遺跡」の実物大復元展示の写真です。
この遺跡は稲作の始まった紀元前300年から紀元後300年にわたって造営された環濠村落で数多くの建物は堀や柵で囲まれ独立した小王国のような構造になっています。敵の襲撃に備えた堅固な柵や堀で囲まれた小さな王国です。
原始的ながらも中世の城郭都市を彷彿とさせる構造になっています。
この写真の出典は、出典は、http://www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=10 です。
この遺跡で特に注目すべきは3階建ての立派な主祭殿が存在していたことです。
此処に集落の人々が集まって神に豊漁や豊作を祈る儀式をしたと考えられています。その儀式を司るのは神官のような特殊な能力を持った人だったと思われます。

さて日本の旧石器時代は4万年前から12000年前までの38000年間、縄文時代は12000年前から紀元前300年前までの11700年間、そして弥生時代は紀元前300年から紀元後300年までの600年間と言われています。そしてその後は古墳時代を経て大和朝廷の時代へと続くわけです。

以上のことを思い出しながら先日、府中市の大國魂神社の写真を撮って来ました。
この神社は1900年前の弥生時代に創建されたという伝承があるので行ったのです。先日撮った写真をお送りします。

3番目の写真は拝殿へと導く豪華な門です。

4番目の写真は拝殿前の質素な中門です。

5番目の写真は府中の大國魂神社の拝殿です。この神社は明治維新までは六所大明神と呼ばれていました。明治4年の神仏分離令により六所大明神という名前を現在の大国魂神社と改名したのです。

それはさておき東京で創建が弥生時代までさかのぼれる神社は次のようなものです。
●大國魂神社(府中市宮町)
●根津神社(文京区根津)
この有名な2社は景行天皇41年(111年)創建と伝承されています。
●榊神社(台東区蔵前)
●五条天神社(台東区上野公園)
この2社はその前年(110年)に創建と伝承されています。
以上のことは「東京で一番古い神社」(https://ameblo.jp/manhattan1980/entry-11331387124.html )に書かれています。
そこで日本全国の神社の創建の年を調べました。
その結果は末尾の参考資料に示しました。
ここで神武天皇が即位したとされる年は西暦ではBC660年となることをご記憶してご覧になって下さい。
末尾の参考資料の創建年を見ると何と縄文時代からあった神社も多数あるのです。
とても信用出来ません。
漢字が日本に普及した飛鳥時代や奈良時代以後は文献資料もあるでょうから信用できる創建年も多いと考えられます。
2番目の写真の3階建ての立派な主祭殿が後の神社に次第になって行ってと考えるのが一番無理の無い考え方です。
考古学的な実証が無い限り参考資料の創建年は嘘です。
しかし嘘は嘘として神話のロマンが感じられます。
この神話も日本文化の一部として大切に伝承すべきと私は考えています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料================
神社を創建年代順に並べた 、http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1022563363.html
「神代から、神武・神功・継体、そして昭和期まで、一番古い神社は? 」

神社の一覧は数多くありますが、不確定の情報が多いためか、創祀・創建の順に並べた一覧表というものがなかった(本サイト調べ)ので、作成してみました。主な神社に伝わっている由緒の中で、創建年代を抽出して、ソートをかけた結果です。
創建年代が確定している神社はもちろんそれを採用していますが、確定していない場合、各種伝承や資料などを基に、主に下限(この頃までには確実に存在していたはず、という時期)で設定しています。創祀はもっと古い、というものが多くありますが、そこは確定できないので、そうした場合創建ベースにしています。

主な神社には、初詣参拝客が多いこと(発表に基づく、直近のニーズが旺盛)、皇室の崇敬が厚いこと(勅祭が行われていたり、四方拝の宮中行事など)、国幣小社以上の近代社格を有すること、一宮制に連なっていること、二十二社であること、以上複数はもちろん、一つでも合致している神社となります。

神代
オオモノヌシ 大神神社 奈良県桜井市
イザナギ禊ぎ 住吉神社 福岡県福岡市
イザナギ禊ぎ 志賀海神社 福岡県福岡市東区
イザナギ坐す 伊弉諾神宮 兵庫県淡路市
イザナギ坐す 多賀大社 滋賀県犬上郡多賀町
スサノヲの本宮 須佐神社 島根県出雲市
スサノヲ子孫 日吉大社 滋賀県大津市
オオクニヌシと越の国 居多神社 新潟県上越市
タケミナカタ諏訪入り 小野神社 長野県塩尻市
タケミナカタ諏訪入り 生島足島神社 長野県上田市
国譲り時 諏訪大社 長野県諏訪市・芽野市・諏訪郡
国譲り時 出雲大社 島根県出雲市

出雲大社と同時期 熊野大社 島根県松江市
シタテル伝承 倭文神社 鳥取県東伯郡湯梨浜町
天孫降臨 宗像大社 福岡県福岡県宗像市
天孫降臨後 玉祖神社 山口県防府市
神代 地主神社 京都府京都市東山区
神代 籠神社 京都府宮津市
神武天皇以降、BC660年以後
神武天皇の母 貴船神社 京都府京都市左京区
神武天皇東遷以前 宮崎神宮 宮崎県宮崎市
神武天皇即位前6年 都農神社 宮崎県児湯郡都農町
神武天皇即位前3年 枚岡神社 大阪府東大阪市
神武天皇即位前 生國魂神社 大阪府大阪市天王寺区
神武天皇元年 彌彦神社 新潟県西蒲原郡弥彦村
神武天皇元年 鹿島神宮 茨城県鹿嶋市
神武天皇元年 物部神社 新潟県柏崎市
神武天皇元年 安仁神社 岡山県岡山市東区
神武天皇元年 伊太祁曽神社 和歌山県和歌山市
神武天皇元年 安房神社 千葉県館山市
神武天皇2年 日前神宮・國懸神宮 和歌山県和歌山市
神武天皇6年 比々多神社 神奈川県伊勢原市
神武天皇18年 香取神宮 千葉県香取市
神武天皇33年 真清田神社 愛知県一宮市
神武天皇年間 鹿児島神宮 鹿児島県霧島市
神武天皇年間 大麻比古神社 徳島県鳴門市
安寧天皇13年 日御碕神社 島根県出雲市
安寧天皇18年 小野神社 東京都多摩市
孝昭天皇3年 氷川神社 埼玉県さいたま市大宮区
孝昭天皇年間 箱根神社 神奈川県足柄下郡箱根町
孝昭天皇年間 伊豆山神社 静岡県熱海市
孝安天皇15年 八倉比売神社 徳島県徳島市
孝霊天皇9年 阿蘇神社 熊本県阿蘇市
孝霊天皇年間 御上神社 滋賀県野洲市
孝元天皇5年 戸隠神社 長野県長野市
開化天皇3年 調神社 埼玉県さいたま市浦和区
崇神天皇再興 出雲大神宮 京都府亀岡市
崇神天皇元年 火雷神社 群馬県佐波郡玉村町
崇神天皇元年 六所神社 神奈川県中郡大磯町
崇神天皇7年 武蔵御嶽神社 東京都青梅市
崇神天皇7年以前 仁壁神社 山口県山口市
崇神天皇7年 賀茂御祖神社 京都府京都市左京区
崇神天皇7年 石上神宮 奈良県天理市
崇神天皇8年12月29日 方違神社 大阪府堺市堺区
崇神天皇9年 廣瀬大社 奈良県北葛城郡河合町
崇神天皇10年 秩父神社 埼玉県秩父市
崇神天皇11年 小田井縣神社 兵庫県豊岡市
崇神天皇12年 大和神社 奈良県天理市
崇神天皇30年 養父神社 兵庫県養父市
崇神天皇65年 熊野本宮大社 和歌山県田辺市
崇神天皇年間 積川神社 大阪府岸和田市
崇神天皇年間 大山阿夫利神社 神奈川県伊勢原市
崇神天皇年間 鵜戸神宮 宮崎県日南市
崇神天皇年間 氣多大社 石川県羽咋市
崇神天皇年間 南宮大社 岐阜県不破郡垂井町
崇神天皇年間 神部神社 静岡県静岡市葵区
崇神天皇年間 天日陰比咩神社 石川県鹿島郡中能登町
崇神天皇年間 白山比咩神社 石川県白山市三宮町
崇神天皇年間 龍田大社 奈良県生駒郡三郷町
垂仁天皇元年 鷲宮神社 埼玉県久喜市
垂仁天皇3年 倭文神社 群馬県伊勢崎市
垂仁天皇3年 富士山本宮浅間大社 静岡県富士宮市
垂仁天皇8年 浅間神社 山梨県笛吹市
垂仁天皇26年 神宮 三重県伊勢市
垂仁天皇27年 椿大神社 三重県鈴鹿市
垂仁天皇27年 大縣神社 愛知県犬山市
垂仁天皇年間 川勾神社 神奈川県中郡二宮町
景行天皇以降
景行天皇年間以前 小物忌神社 山形県酒田市
景行天皇14年 伊奈波神社 岐阜県岐阜市
景行天皇40年 姉埼神社 千葉県市原市
景行天皇40年 橘樹神社 千葉県茂原市
景行天皇41年 宝登山神社 埼玉県秩父郡
景行天皇41年 大國魂神社 東京都府中市


以下省略して明治時代へとびます。
中間は、http://www.buccyake-kojiki.com/archives/1022563363.html に出ています。

明治時代以降
明治元年 新潟縣護國神社 新潟県新潟市中央区
明治元年 広島護国神社 広島県広島市中区
明治元年 白峯神宮 京都府京都市上京区
明治2年 靖国神社 東京都千代田区
明治2年 北海道神宮 北海道札幌市中央区
明治2年 鎌倉宮 神奈川県鎌倉市
明治3年 伊勢山皇大神宮 神奈川県横浜市
明治4年 加藤神社 熊本県熊本市
明治5年 湊川神社 兵庫県神戸市中央区
明治5年 井伊谷宮 静岡県浜松市北区
明治6年 尾山神社 石川県金沢市
明治8年 大分縣護國神社 大分県大分市
明治13年 東京大神宮 東京都千代田区
明治17年 八代宮 熊本県八代市
明治23年 橿原神宮 奈良県橿原市
明治23年 金崎宮 福井県敦賀市
明治25年 吉野神宮 奈良県吉野郡吉野町
明治27年 報徳二宮神社 神奈川県小田原市
明治28年 平安神宮 京都府京都市左京区
大正9年 明治神宮 東京都渋谷区
昭和15年 橘神社 長崎県雲仙市
昭和15年 近江神宮 滋賀県大津市
昭和15年 南洋神社 パラオ共和国コロール町アルミズ高地

台湾、韓国、北朝鮮、中国、日本は文明共同体

2019年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はサミュエル・ハンチントン著「文明の衝突と21世紀の日本」(2010年版)の書評を書きたいと思います。彼は1927年生まれ2008年に亡くなったアメリカの国際政治学者です。
その前に先週公園で撮ってきた花々の写真をお送りします。
花の写真を選んでトリミングをし少し明るさを調整する作業は楽しいものです。写真を撮っていた花畑の光景を思い出し気持ち良くなります。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









さてハンチントンは1996年に『文明の衝突』を出版しました。
米ソ対立の冷戦が終わった後の世界は異なる文明の衝突による抗争や戦争が続く世界になるという主張を明快に書いた本でした。
この本は超大国アメリカの21世紀の外交政策を暗示しているので世界のべストラーになります。
しかし本の内容は主にイスラム圏とロシアとアメリカとの抗争についてでありアジアや日本に関しては非常に軽い記述があるだけでした。
その日本に関する記述を補強したのが 「文明の衝突と21世紀の日本」(2010年版)なのです。
最近この本を読んで次の2つの感想を持ちました。
(1)アメリカが唯一の超大国として21世紀の世界秩序を作るという主張が強すぎる。
ハンチントンは優れた国際政治の学者なので露骨な主張は書いてありません。しかし行間からこのような主張が感じられるのです。アメリカの政治家や官僚がこの本を絶賛しそうな内容です。
(2)アジアの文明に対する理解が深くないのです。文明の伝統的な影響力を無視し過ぎてます。
歴史や伝統を無視しがちなアメリカ人らしい世界観なのです。
それに対して抗議するために今日の記事の題目「台湾、韓国、北朝鮮、中国、日本は文明共同体」をつけたのです。
今日はハンチントンの文明観についてのみ考えてみたいと思います。
従来は国際政治は「国家」という主体を基本単位として考えてきました。日本とアメリカが同盟を結ぶ中国とベトナムが戦争をするといった具合にです。
それに対してハンチントンは、そもそも「国家」という枠組みのみをもって世界情勢を捉えるのがもはや不適切であり、代わりに世界は「文明」(civilization)という枠組みで捉えられるべきであると主張します。
それでは「文明」とは何でしょうか?
ハンチントンの定義によると文明は次のようになります。
「文明は、最も範囲の広い文化的なまとまりである……文明の輪郭をさだめているのは、言語、歴史、宗教、生活習慣、社会制度のような共通した客観的な要素と、人びとの主観的な自己認識の両方である。」
この定義に従ってハンチントンは世界には8つの文明があると主張したのです。
<世界の8つの文明>
・中華文明(中国など)
・日本文明(日本のみ)
・ヒンドゥー文明(インドなど)
・イスラム文明(北アフリカやイベリア半島にある数々の国々)
・西欧文明(西ヨーロッパとアメリカ)
・ロシア正教会文明(ロシアや旧ソ連諸国)
・ラテンアメリカ文明(中米や南米)
・アフリカ文明(アフリカ)

6番目の写真は主要文明が有する文明圏の分布を示すハンチントンの世界地図です。
この8つの文明の中で日本文明を特殊な文明としています。中国の文明と異なると言っています。
そして彼は台湾、韓国、北朝鮮については殆ど言及していません。
その彼は日本にわざわざ来て「21世紀の日本」について有名な講演会を開催しているのです。
この講演の内容をまとめた本が「文明の衝突と21世紀の日本」なのです。
何故か日本だけを重要視しているようです。この事はアメリカ政府の安保条約の重視を下敷きにしている感じを与えています。
日本の伝統文化を少し深く考察すれば日本は中華文明の社会なのは明々白々です。
この状態は台湾も韓国も北朝鮮も例外ではありません。北朝鮮だけは世襲の独裁者がいて共産主義の社会ですが、それは昔の中国の社会と同じです。共産主義だけは違いますが。

今日の書評の結論です。
ハンチントンの2つの本はアメリカの政策の為に書かれた政治的な本であり、文明や文化を深く考察した学術書ではないと感じました。
21世紀の世界秩序が8つの文明圏の対立と抗争で形づけられるという主張そのものは非常に独創的で説得力もありますが内容はかなり政治的な本なのです。
第二次大戦中のアメリカ政府に頼まれてルース・ベネデデクトが書いた「菊と刀」のような性格を思い出させる本です。しかし「菊と刀」のほうが学問的で好感を覚えます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


面白い名前、煙の木の花の写真です

2019年05月20日 | 写真
世の中には面白い名前の木があるものです。「煙の木」です。
昨日その木の花の写真を撮ってきたのでお送りします。生えていた場所は三鷹市の花と緑の公園です。

1番目の写真は煙の木の花の写真です。ピンクの花が煙のように見えるので煙の木と言うそうです。
英語ではスモークツリーと言います。
この木はウルシ科 の ハグマノキ属の木です。
初夏に咲く花木の代表で、ヨーロッパから中国に分布します。
枝先につく花は長さ約20cmで多数枝分かれし、伸びた花柄が遠くからは煙がくすぶっているように見えるのです。
私は初めて見たので非常に珍しく感じました。
ついでに撮ったバラの写真もお送りします。煙の木の花とともにお楽しみ頂けたら嬉しく思います。







俳句の名作を楽しむための3つの必要条件

2019年05月20日 | 日記・エッセイ・コラム
これは私の個人的な考えですから間違っているかも分かりません。
俳句を楽しむための条件とは次の3つです。
(1)同じ俳人の句を10句位選び、それを何度も、何度も朗読する。
(2)その俳句を作った人が住んでいた地方の周囲の風景を調べる。
(3)その俳句が作られた時代の日本人の生活状態を理解する。

今日は飯田蛇笏の「冬の十句」を実例にして上記の3つの条件を説明したいと思います。
私は山梨県の県立美術館や文学館には何度も行きました。甲斐駒岳の麓の山林の中の自分の小屋に通う道の途中なので度々行ったのです。美術館でミレーの絵画を沢山見た後で同じ敷地内のの文学館にも寄ったのです。
すると山梨県を代表する文人として俳人の飯田 蛇笏の直筆の俳句や句集や、 蛇笏関連の数多くの写真が広い部屋に展示してあるのです。
そうして飯田蛇笏を格調の高い俳句を作った孤高の俳人だったと紹介してあったのです。

飯田 蛇笏(いいだ だこつ)は1885年(明治18年)に生まれ 1962年(昭和37年)に亡くなりました。享年77歳でした。どちらを向ても山ばかりの甲斐の国で孤高の暮らしをしていました。
そして俳句を沢山作り、大正時代における俳句の雑誌、「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した俳人です。俳誌「キララ」後の「雲母」を主宰します。
蛇笏は山梨県の笛吹市境川町小黒坂の旧家に生れました。
1898年(明治31年)には山梨県尋常中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、後に早稲田大学に入学します。
詳しい経歴や活躍の様子は、https://ja.wikipedia.org/wiki/飯田蛇笏 に書いてありますのでご覧下さい。

飯田蛇笏が詠んだ冬の俳句です。
●浪々のふるさとみちも初冬かな    (ろうろうの ふるさとみちも しょとうかな)
●炉をひらく火のひえびえともえにけり (ろをひらく ひのひえびえと もえにけり)
●写真師の生活ひそかに花八つ手    (しゃしんしの たつきひそかに はなやつで)
●桃青忌夜は人の香のうすれけり    (とうせいき よはひとのかの うすれけり)
●ふぐ食うてわかるゝ人の孤影かな   (ふぐくうて わかるるひとの こえいかな)
●風邪の児の餅のごとくに頬ゆたか   (かぜのこの もちのごとくに ほおゆたか)
●山国の虚空日わたる冬至かな     (やまぐにの こくうひわたる とうじかな)
●市人にまじりあるきぬ暦売      (いちびとに まじりあるきぬ こよみうり)
●大つぶの寒卵おく襤褸の上      (おおつぶの かんたまごおく ぼろのうえ)
●手どりたる寒の大鯉光さす      (てどりたる かんのおおごい ひかりさす)

以上の10句の出典は、https://cazag.com/1892 です。

さて「(1)同じ俳人の句を10句位選び、それを何度も、何度も朗読する。」を実行してみましょう。
私は上の10句を100回以上声をあげて朗読しました。
するとそれぞれの俳句に謳われている情景が眼前に浮かんでくるようになりました。

しかしその情景はあくまでも主観的です。正しいのか間違っているのかが判然としないのです。
そこで飯田蛇笏が住んでいた甲府盆地の笛吹市の境川から見える山々の写真を自分で昨冬撮ったのです。
以下の5枚の写真が飯田蛇笏が冬の句を作った時見ていた山々の風景なのです。

1番目の写真は南アルプスの主峰、農鳥、間ノ岳、北岳です。

2番目の写真は北岳を拡大して撮った写真です。

3番目の写真は鳳凰三山で右から順に地蔵岳、観音岳、薬師岳です。

4番目の写真は甲斐駒ケ岳です。

5番目の写真は八ヶ岳の写真です。

飯田蛇笏はこのような山々の風景を毎日見ながら冬の句を作ったのです。
そして「(3)その俳句が作られた時代の日本人の生活状態を理解する。」ために大正時代の地方の生活状態を考えてみました。
当時は都会と地方では生活レベルの差が非常に大きく地方の農民は貧しく悲惨だったのです。
飯田蛇笏自身は笛吹の旧家に生れ早稲田大学を卒業しましたので裕福な生活でした。しかし周囲の人々は貧しく、蛇笏はその苦しみに心を寄せて俳句を作っているのです。

浪々のふるさとみちも初冬かな
彷徨い歩くはるか山国の故郷の道も初冬かなとは冬の生活の厳しさを暗示しているようです。

炉をひらく火のひえびえともえにけり
農家の冬の暖房は囲炉裏がただ一つです。朝起きて冷え切った囲炉裏に火を入れる寒さが私の身にもしみます。

写真師の生活ひそかに花八つ手 
田舎の写真屋さんへ家族写真を頼む人も少ないので生活もひそやかになります。
花八つ手は大正、昭和に流行っていた冬に花が咲く八つ手のことです。私の昔の家にも冬に咲いていました。

桃青忌夜は人の香のうすれけり 
芭蕉の亡くなった桃青忌の夜の甲斐の国では人影なぞ一切ありません。淋しいかぎりです。

ふぐ食うてわかるゝ人の孤影かな 
ご馳走のふぐを食べて送別の宴を終えた友人は独り暗い道を帰って行きます。夜道の孤影と別れの悲しみが重なっているのです。なお甲府盆地は山国ですが海の魚貝類は清水港から富士川の舟運で上がって来るのです。
甲府は今でも海の魚貝類が豊富で有名なのです。

風邪の児の餅のごとくに頬ゆたか 
大正、昭和には子供はよくお多福風邪にかかったものです。おたふく風邪にかかると子供の頬がふっくらと膨れあがるのです。その顔が可愛いのです。2、3日で直りますが母親は心配します。

山国の虚空日わたる冬至かな 
ここに示した5枚の冬山の写真の上空には高く澄み切った碧い空です。その様子を蛇笏は虚空日渡る冬至かなと詠んだのです。冬の寒風が想像されます。

市人にまじりあるきぬ暦売 
昔は初冬になると家々に暦売りが回って来年の暦を売りに来たものです。その暦売りが町で売り歩いている情景です。

大つぶの寒卵おく襤褸の上 
貧しい農家にも久しぶりに大きな卵が産まれました。貴重な卵が割れないように柔らかい襤褸の上にソッと置いたという句です。

手どりたる寒の大鯉光さす  
年越しのご馳走にしようと飼っていた大鯉を手にとってみたらウロコが金色に光っていたのです。鯉を手に取って横向きにしないとウロコが金色に見えないのです。一瞬、殺して食べるのを止めた感興を詠った句です。

このように俳句を楽しむためには上で説明した3つの必要条件があると思いますが、如何でしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

隠れキリシタン260年史が私のカトリック信仰の支え

2019年05月19日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関することを書きます。隠れキリシタンの260年の歴史が私のカトリック信仰の支えになっていることを書きたいと思います。

キリストの教は明快です。
神が人間を愛するのでイエスを地上に送りました。イエスは地上で人々へ、「神を信じるとパライソ(天国)へ行ける」と教えます。そして人々の罪を全て背負って十字架にかけられ処刑されるのです。3日後に生き返って、愛する弟子たちにもう一度会いに来るのです。そして互いに愛しなさい、敵をも愛しなさい、と言って天に登り、神の右の座に着くのです。世界の最終日の最後の審判の時に信者に永遠の命を与えるのです。信者は自分の肉体が永遠に復活することを信じています。
この教えは1549年にフランシスコ・ザビエルによって日本へ伝えられました。

1番目の写真はザビエル神父です。
この絵はザビエルの死後、日本で描かれ、大阪府の茨木市で、「隠れキリシタン」の家系の家で1919年に発見されました。ザビエルの来日以後、実に370年目に大阪府で現れた肖像画です。現在は神戸市立博物館にあります。
ご承知の通り豊臣秀吉が始めたキリシタンの禁教政策は徳川家康に引き継がれ、三代将軍の家光の時に徹底的に実行されるのです。キリシタンとして捕縛された信者が日本全国で多数処刑されたのです。
秀吉以来の処刑者は一説によると30万人に及ぶとも言われています。
信者を処刑しただけでなくあらゆる教会や集会所を破壊し尽くしたのです。
残ったのは隠れキリシタンの家の納戸、押し入れ、戸棚などの奥に隠した福音書の断片や祈祷書だけになったのです。
そして信者だけが隠れて集まり、聖母像(マリア観音)の絵や彫像を持ちだし、農家の奥の部屋で一緒にミサを立てたのです。
この事実はキリスト教が背負って来たヨーロッパ文化が消し去られた状態を意味します。美しい異国的な教会も、聖歌も、伴奏の楽器も、絢爛豪華な法衣も全て無くなったのです。福音書や祈祷書だけが残ったのです。
もしキリスト教が日本人の心の中に根付いていなければ、これで終りになる筈でした。
しかしキリストの教えが根付いていたのです。260年も代々と人々の心の中に信じられてきたのです。
そしてもう一つの伝承の「神父様が必ず帰って来て教会を建ててくれる」と共に生き続けたのです。
明治維新でフランスから長崎へ来たプチジャン神父の所へ隠れキリシタンがやってきます。
「私達は神父様が必ず帰って来ると信じていました。天主教の教えを260年間信じ続けてきました。マリア様のお像は何処にあるのでしょうか?」
彼等は踏み絵を踏んで表向きは仏教徒になっていました。そして隠れて集まりミサを立て、祈り続けて来たのです。
この隠れキリシタンの歴史は私たち日本人のカトリック信者へ強いメッセージを送り続けています。
私はカトリックの信者です。本当はキリスト教のことはあまり深く理解していません。信仰も弱いと思っています。しかし何故カトリックか?と問われれば「隠れキリシタン」を尊敬しているからと答えます。

2番目の写真は長崎にある26聖人の像です。出典は、http://www.asahi-net.or.jp/~yj9m-nkmr/seijin.htm です。二十六人のうち、日本人は二十名、スペイン人が四名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ一名であり、すべて男性でした。舟越保武氏の作です。
そして3,4、5番目の写真は隠れキリスタンが多く住んでいた五島列島のカトリック教会の写真です。私が撮りました。

このような隠れキリシタンの260年の歴史が日本のカトリック信仰の支えになっているのです。

この記事をお読み頂けた方々へ深く感謝いたします。そしてお読み頂いた方々の上に神様の慈しみが豊かにありますように心からお祈り申し上げます。後藤和弘







箱根の湿生植物園の花々の写真です

2019年05月18日 | 写真
湿性植物園は箱根の湿地帯だった仙石原にあり、いろいろ珍しい花々が咲いています。
栽培種の花のコーナーもあり、その一方で昔から仙石原湿地に咲いていた野生の花々もあります。昨年の丁度今頃、箱根に行って撮ってきた写真です。
そんな花々の写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真は野生のノハナショウブです。

2番目の写真は石楠花です。

3番目の写真はヒマラヤに咲いている青いケシの花です。阿片は採れません。

4番目の写真はアミメヘイシソウです。仙石原の在来種ではありません。アミメヘイシソウ はサラセニア属の食虫植物の1種で、捕虫葉の先端部分に紅白の網目模様が入り、美しい花です。

5番目の写真はいろいろなサクラソウの園芸種の写真です。こんなにも数多くのサクラソウがあるのですね。

仏教国ー高円寺、吉祥寺、国分寺、八王子

2019年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は「歴史ミステリー、万願寺の謎に挑戦した」という記事を書きました。
日野市の万願寺という地名の来歴の謎を明かすことに挑戦したのです。
多摩モノレールの日野の駅に「万願寺駅」があり、周辺の地名を昔から「万願寺」と云い町名番地に使われています。しかしこの周辺に万願寺というお寺は無いのです。
昨日の私の推理では現存する安養寺の前身が「万願寺」だったという結論でした。
一応、結論を出しましたが証拠がありません。文献も皆無です。
釈然としません。もやもやして気持ちが悪いのです。
そこで前から気になっていた高円寺、吉祥寺、国分寺、八王子という町の名前の由来を調べてみました。JR中央線の駅の名前にもなっているので皆様ご存知のことと存じます。
調べてみたら高円寺、吉祥寺、国分寺にはその名と同じお寺が現存しています。八王子はある神社にちなんだ名前なのです。
今日はこの事をご報告します。嗚呼、日本は穏やかな仏教国なのだと今更ながら感銘を深くしました。

(1)高円寺という地名の由来
高円寺は東京都杉並区にある地名で現存する寺院「宿鳳山高円寺」に由来することが明確に分かっています。
かつては高円寺村と呼ばれていたのです。それより以前の江戸時代初期まで当地は「小沢村」と呼ばれていました。
宿鳳山高円寺には特別なエピソードがあるのです。
江戸幕府三代将軍・徳川家光が鷹狩りでしばしば宿鳳山高円寺で度々休憩しました。
家光はこの寺院が気に入り境内に仮御殿が作られたのです。
そして正保年間の頃に地名が小沢村から寺の名前に因み高円寺村に変更されたのです。
高円寺は弘治元年(1555年)、中野成願寺三世、建室宗正により開山されました。
将軍徳川家光が鷹狩りの際、雨宿りのために当寺に立ち寄り、時の住職が家光を将軍としてではなく一般の雨宿りの客として、さりげなくもてなしたことが気に入られ、家光は鷹狩りの度に当寺に立ち寄るようになったのです。時の住職さんのお人柄が偲ばれる良いエピソードですね。

1番目の写真は現在の宿鳳山高円寺の本堂です。
この本堂は昭和28年(1953年)に宮大工・中村青雲により再建されたものだそうです。

(2)吉祥寺という地名の由来
吉祥寺は、東京都武蔵野市の吉祥寺駅を中心とする地域名として使われている名前です。
しかし吉祥寺という寺は武蔵野市には無く文京区本駒込にあります。
現在の吉祥寺という地名は少し複雑ないきさつがあるのです。
明暦の大火によって、江戸本郷元町(現:文京区本郷一丁目、水道橋駅付近)に存在した諏訪山吉祥寺の門前町が焼失しました。
その時、幕府は同地を大名屋敷として再建することにします。
そのため吉祥寺門前の住人に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地とし提供したのです。
5年期限で扶持米を与え家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募ったのです。
吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させたのです。
吉祥寺門前の住人たちは吉祥寺に愛着を持っていたのです。そこで移住地を新田は吉祥寺村と名付けました。
1923年(大正12年)の関東大震災を契機に被災した市街地から多くの人たちがまたもや吉祥寺に移り住むことになり、人口が急増し現在の繁華な吉祥寺になったのです。
現在の諏訪山吉祥寺は、東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗のお寺です。

2番目の写真は現在の吉祥寺です。
この吉祥寺は室町時代1458年(長禄2年)に太田道灌が開基しました。道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得たので吉祥寺としたそうです。
徳川家康の関東入府にともなって駿河台に移り、明暦の大火と江戸大火によって現在の駒込の地に移転しました。
寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていましたが、東京大空襲で焼失しわずかに山門(1802年建造)と経蔵(1804年建造)だけが残ります。現在は復興され、本堂、客殿、庫裏などがあります。

(3)国分寺という地名の由来
国分寺という地名は明快です。
奈良時代の中頃、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。
武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性はつとに認められており、大正11年に国指定史跡に指定されています。

3番目の写真は武蔵国分寺跡の写真です。
武蔵国分寺には壮大な山門、楼門、金堂、講堂、七重塔、庫裏、僧堂、鐘楼、などなどが東西1,500m、南北1,000mの範囲に華麗に並んでいたのです。
当時はこの場所には東山道の武蔵路が南北に走り、近くには古墳時代からこの地を治めていた国府、現在の府中市がありました。
現在の国分寺跡公園は武蔵国に置かれた国分寺および国分尼寺の跡地です。現在は、両寺院の跡地の間を府中街道とJR武蔵野線が横切っています。

4番目の写真は現在の武蔵国分寺です。
もともとの国分寺は鎌倉時代末期焼失しました。その後は、新田義貞によって再建された小さな薬師堂が淋しく立っているだけでした。
現在の武蔵国分寺は国分寺市にある真言宗豊山派の寺院です。
武蔵国国分寺の後継寺院にあたります。

(4)八王子という地名の由来
これも明確に分かっています。平安時代に出来た牛頭天王をまつる「八王子神社」の牛頭天王の8人の王子に由来する地名なのです。分かりやすく言えばヒンズー教の8人の神様のことです。
「八王子」という地名は、全国に分布しています。それは、牛頭天王と8人の王子(八王子)をまつる信仰の広がり、八王子神社や八王子権現社が建立されました。
それが地名として定着していったのです。
現在八王子城にある八王子神社が牛頭天王と8人の王子(八王子)を祀っています。

5番目の写真は現在の八王子神社です。
牛頭天王をまつる信仰は、もともとインドのヒンズー教から中国を経て伝わってきたものです。
疫病や農作物の害虫そのほか邪気を払い流し去る神として信仰されていました。
その8人の子を眷属神とし、あらゆる人間の吉凶を司る方位の神として全国に広がっていったといいます。
さて八王子神社の由緒については、宗関寺(元八王子町)に伝わる古記録に記されています。
それによると、平安時代、延喜13年(913年)の秋、京都から訪れた妙行という学僧が、深沢山(後の八王子城)の山頂の岩屋で修行をはじめました。
天慶2年(939年)、妙行の功績が都の朱雀天皇の耳に届き、「華厳菩薩」の称号が贈られるとともに寺名も「牛頭山神護寺」と改められたのです。
これが、八王子神社の由緒とその神宮寺となった牛頭山神護寺(後の宗関寺)の縁起として伝えられたのです。八王子神社を中心とした地域が、中世には「八王子」と呼ばれるようになったのです。

以上少し長くなりましたが高円寺、吉祥寺、国分寺、八王子の地名の由来です。
思わず歴史散歩になってしまいました。と同時に嗚呼、日本は穏やかな仏教国なのだと今更ながら感銘を深くしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

歴史ミステリー、万願寺の謎に挑戦した

2019年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム
以前から少しずつ調べていましたが、昨日は日野市の万願寺という地名の来歴の謎を明かすことにしました。
立川市から多摩市の多摩動物園を結ぶ多摩モノレールの駅に「万願寺駅」があります。その駅の周辺の地名を昔から「万願寺」と云い、現在も町名番地に使われています。
しかしこの周辺に万願寺というお寺は無いのです。
日野市には万願寺というお寺は昔存在していたのでしょうか?
江戸時代の「新編武蔵風土記稿」(1828年)にも万願寺を探したが無かったと書かれいたのです。
江戸時代から万願寺がなかったことに関心が持たれていたのです。
しかし私は万願寺は存在していた可能性を探索するため、昨日、多摩モノレールの「万願寺駅」の写真と近くの唯一のお寺である田村山安養寺(真言宗智山派)の写真を撮って来ました。その写真をお送りします。

1番目の写真は多摩モノレールの「万願寺駅」の遠景です。

2番目の写真は「万願寺駅」と書かれたモノレールの駅の入り口の写真です。

3番目の写真は「万願寺駅」から500mほど西にある田村山安養寺の山門です。

4番目の写真は田村山安養寺の本堂です。

5番目の写真は安養寺の本堂の脇にある弘法大師のお像です。

さて私は一つの仮説を立ててそれに従って調べていきました。
仮説、「安養寺の前身が満願寺であり、満願寺を書きやすい万願寺に変え、それが定着し周辺の地名になった」

この仮説の真偽を検証するため、まず全国の地名で万願寺を使用している所を調べました。下記がその結果です。
万願寺 (由利本荘市) - 秋田県由利本荘市の地名。
万願寺 (日野市) - 東京都日野市の地名。多摩国南多摩郡万願寺村。田村山極楽院安養寺、万願寺駅などが置かれている。
万願寺 (富山市) - 富山県富山市の地名。
万願寺 (おおい町) - 福井県大飯郡おおい町の地名。
万願寺 (米原市) - 滋賀県米原市の地名。
万願寺 (舞鶴市) - 京都府舞鶴市の地名。万願寺とうがらしで知られる。
大阪府八尾市の旧地名。東山本町を参照。
兵庫県加西市の地名。東光寺の田遊び・鬼会で知られる上万願寺町・下万願寺町からなる。
千葉県銚子市

以上のなかで有名なのが「万願寺とうがらし」です。しかもこの唐辛子は満願寺唐辛子とも書くのです。
これは万願寺と満願寺とは同じことだと暗示しているのです。
そこで全国に現存している満願寺を検索しました。各地に沢山あったのです。
試しに万願寺というお寺を検索しましたらありません。詳しく調査すれば存在しているのかも知れませんが非常に少ないと断定出来ます。
これから導ける結論は「満願寺」はお寺の名称として使用され、「万願寺」はその周辺の地名として使用されている漢字だということです。
満願には宗教的な意味がありますが、万願は満願の音訳で宗教的な意味はありません。

これで謎の一つは解けましたが仮説にある安養寺の前身が満願寺ではないかという疑問はまだ解けていません。
そこでhttps://ameblo.jp/suzuc-0706/entry-12288056475.html から安養寺由緒を転載いたします。
・・・安養寺は多摩川の近くに位置しています。将棋好きの言葉で「王手は日野の万願寺」と言いますが、その万願寺というお寺はなく、地名として残っているのみです。
「田村」というのは、かつての日野市下田のことですが、その名はこの辺りから起こり、居館を構えていた武蔵田村に由来しています。田村氏は日奉氏族西党の一氏で、知行地を有していました。田村駄太郎知實、その子の同三郎弘綱(平安時代後期〜鎌倉時代初期)等の末裔に、安養寺を開基したといわれる田村安栖がいます。
田村安栖は小田原城の御殿医で、小田原北条氏最期の場面に小田原の自邸を提供し、氏政、氏照兄弟が切腹場に当てた(1590年・天正18年7月11日)ことは「北条五代記」(小田原記)に詳しく書かれています。今でも小田原市の中央部に「安栖小路」の名が残っています。
安養寺の本堂(1690年頃・元禄時代初期)は田村氏の書院の一部を使い、建立されたと伝えられております。また、本堂北側に隣接する茅葺屋根の庫裏は本堂よりも古く、中興開山法印慶深の位牌に1606年・慶長11年11月22日没と刻していることから、その前後に建立されたものと思われます。黒光りする古い柱や床に残されている手斧の跡に、古館の結構を偲ぶことができます。
本堂に安置されている本尊阿弥陀仏如来坐像(都重宝)は、安養寺の前身である万願寺の本尊であったものと思われ、平安時代後期の作で端麗で細部の手法も見事です。また、藤原時代の毘沙門天像、鎌倉時代の大日如来立像等、多数の古仏も安置しております。
現在の本堂は、1983年・昭和58年に檀信徒をはじめ日野市並びに東京都のご協力により、改修復元工事を実施することができました。今日まで幾多の歴史的災害をのりこえてきたこれらの文化遺産を、私達は先人の例に習い、皆様と共に子々孫々に伝え護持していかなければならないと思います。・・・

この記述の筆者は地方の歴史に非常に精通した方で文章も客観的で適切です。従って「安養寺の前身である万願寺」はかなり可能性が大だと判断出来ます。
しかしその前身の萬願寺が存在していたとしても平安末期以前のことであります。その上文献に明記してないのです。すなはち確証が皆無なのです。

仮説、「安養寺の前身が満願寺であり、満願寺を書きやすい万願寺に変え、それが定着し周辺の地名になった」は今日の段階では証明が不可能です。
もし仮説が正しいのでしたら全国の万願寺という地名がある所には満願寺が存在している筈です。
京都府舞鶴市の万願寺という住所には現在も満願寺が存在しています。他の地方ではどうなのでしょうか?
今後少しずつ関連の歴史を調べて行きたいと思っています。

今日は歴史ミステリー、万願寺の謎にささやかに挑戦している私の知見を書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「好評だったのでもう一度お送りします」

2019年05月16日 | 写真
2019年05月13日 に「色々な花々を混栽した美しい花畑の写真です」を掲載しましたところ多くの方からお褒め頂きました。
ご好評だったのでもう一度お送りします。
同じ三鷹市の花と緑の広場で撮って来ました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









東京天文台のロマンと星空の写真

2019年05月16日 | 日記・エッセイ・コラム
近くの三鷹市の深い森の中に大正時代から東京天文台があります。現在も日本の天文学研究の本部になっています。
星空を観察する天文台にはロマンを感じます。憧れの研究所です。いつも公開しているので何度か見学に行きました。
今日は昨日撮ってきた東京天文台の森の写真とハッブル宇宙望遠鏡から撮った星空の写真をご紹介したいと思います。

1番目の写真は東京天文台の正門の写真です。現在の東京天文台は文部科学省直轄の施設で正式名称は国立天文台三鷹キャンパスと言います。

2番目の写真は東京天文台を囲む深い森の一部です。大きな天体望遠鏡での星空の観察の邪魔になる周囲の住宅の燈火を避けるために巨木の森で囲まれています。しかしここの天体望遠鏡は古くなり役目を終えています。現在は文部科学省がハワイに設置した大型天体望遠鏡の「すばる」が使用されています。

3番目の写真はハッブル宇宙望遠鏡から撮った星空の写真です。ハッブル宇宙望遠鏡は地上600kmの高さの宇宙にあります。1990年4月4日にNASAなどによって打ち上げられた巨大な天体望遠鏡です。

4番目の写真はハッブル宇宙望遠鏡から撮った星空の拡大写真です。
宇宙では空気や水蒸気が無いので、今まで見えなかった130億光年のかなたにある1万個以上の銀河の写真を撮ったのです。それは天文学の歴史において驚異的な成果になりました。
地球はこの1万個以上の銀河のなかの一つの銀河系の中の無数の太陽(星)のたった一つの惑星なのです。

さて宇宙が出来たのは136億年前と言われています。地球が生まれたのは46億年前です。
地球が生まれて生物が生まれたのが、40億年前、そして恐竜が活躍したのは2億5千万年前から6000万年前と分かっています。人間の誕生はほぼ100万年前です。
そして日本の旧石器時代は僅かに、ほぼ4万前に始まったばかりです。

俗世間の苦しみや悲しみを忘れてこの宇宙の壮大さを想うのも良いと存じます。
宇宙のことを想うと人間のはかなさがしみじみと感じられます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


===参考情報=============================
(1)東京天文台の歴史
国立天文台は、理論・観測の両面から天文学を研究する日本の研究所・大学共同利用機関である。大学共同利用機関法人自然科学研究機構を構成する研究所の1つでもある。 予算は文部科学省が出している。
日本の研究者は日本国外のハワイ観測所などいくつかの観測所や、三鷹キャンパスなどで研究活動をしており、総称として国立天文台と呼ばれる。本部は東京都三鷹市の三鷹キャンパス内にある。
近代日本における国立の天体観測所は、海軍水路寮が東京府麻布区飯倉(現:東京都港区麻布台)に設置した観象台から始まる。
別途、東京帝国大学(現在の東京大学)に星学科が設立された時、その附属の研究所として同じく麻布狸穴町に新たな観象台が設置され、1888年(明治21年)に、帝国大学附属東京天文台となる。東京の発展により、麻布付近は夜の灯火が増えて天体観測に適さなくなった。このため、当時は雑木林や田畑が広がる農村でありながら、甲武鉄道(現:JR中央本線)の開業により交通の便が良くなった三鷹への移転が決まり、1914年に工事が1始まった。当初は都会を離れることを嫌がっていた職員やその家族も、関東大震災(1923年)の被災により、三鷹周辺への移住が進んだ。
詳細は、https://ja.wikipedia.org/wiki/国立天文台 をご覧ください。

(2)ハッブル宇宙望遠鏡について
ハッブル宇宙望遠鏡(ハッブルうちゅうぼうえんきょう、英語:Hubble Space Telescope、略称:HST)とは地上約600km上空の軌道上を周回する宇宙望遠鏡であり、グレートオブザバトリー計画の一環として打ち上げられた。名称は、宇宙の膨張を発見した天文学者・エドウィン・ハッブルに因む。長さ13.1メートル、重さ11トンの筒型で、内側に反射望遠鏡を収めており、主鏡の直径2.4メートルのいわば宇宙の天文台である。大気や天候による影響を受けないため、地上からでは困難な高い精度での天体観測が可能。出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%83%E3%83%96%E3%83%AB%E5%AE%87%E5%AE%99%E6%9C%9B%E9%81%A0%E9%8F%A1 

5番目の写真はハッブル宇宙望遠鏡です。
ハッブル宇宙望遠鏡の撮った写真はハッブル・ウルトラ・ディープ・フィールドとも呼ばれている。
130億年前(ビッグバンから4億?8億年後)と推定されている宇宙の画像まで写っている。
現在までに撮影された中で最も深い宇宙の画像である。誕生後4?5億年の銀河が、1万個以上も映し出されており、通常の渦巻銀河や楕円銀河に混じるようにして奇妙な形の銀河も多数映し出されており、宇宙初期の混沌の中で銀河同士が影響しあっていた状態が映っていると考えられている。(2003年9月24日?2004年1月にハッブル宇宙望遠鏡のデータを集めるかたちで撮影)。高解像度画像を選択し、(PCのブラウザで閲覧なら)最後に + 印の虫眼鏡ポインタで画像を押せば特大写真になり、ひとつひとつの銀河をはっきりと見ることができる。出典:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99 

美しい五島列島の風景写真をお楽しみ下さい

2019年05月15日 | 写真
昨日、掲載した「キリスト教と神道と仏教の混淆の写真」という記事の中で写真家の峰脇 英樹さんをご紹介しました。
彼は郷土愛のつよい情熱的な方です。感心しています。
生れ故郷の五島列島の発展のために、「五島列島支援プロジェクト 」に献身的に貢献しています。
そこで彼の「 五島アルバム 」から美しいい五島列島の風景写真を5枚お借りしてここにお送りいたします。
なお https://gotoproject.jp/photographer/photo-minewaki/ にはもっと多数の写真が紹介してあります。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









そして五島列島支援プロジェクトとは以下のような活動です。
五島列島支援プロジェクトは五島列島の地域振興活動を行っております。農水産物の首都圏流通、水産物のブランディング、観光誘致・紹介、文化的景観保全の観点からカトリック教会の保全などを中心に活動をしております。その中で一番重要と考えることは五島列島に在住する人たちの力になることです。過疎化、少子高齢化、産業の疲弊、労働力の減少、厳しい環境における五島列島が少しでも活性化できるよう活動を行っております。
また、五島キリシタンの生きた証、平和と人権の象徴である殉教の聖地「牢屋の窄殉教記念教会」の保全を柱として、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」構成資産でもある「旧五輪教会」をはじめとする五島列島にあるカトリック教会の保全活動、五島列島に存在するカトリック教会の紹介を通じて、五島カトリック教会の歴史と信仰の未来継承を目的としています。
東京を中心として全国の方々に五島列島をより知っていただけるような活動を行い、本プロジェクト によって下記の活動を行います。

五島列島の農水産物、物産品の販売、首都圏流通の構築、支援。
五島列島、観光地の紹介、観光ツアー企画、特産品の開発、紹介。
五島列島のカトリック教会の保全活動、紹介。五島キリシタン史の紹介。
イベント企画、チャリティー企画。

五島列島支援プロジェクトの詳細は以下に掲載されています。
https://gotoproject.jp/about-goto-project/ と https://www.facebook.com/gotoproject/ です。



「近くの公園で撮った初夏の風景です」

2019年05月14日 | 写真
今日は奄美大島が梅雨入りしました。月日の流れは早いですね。春も終わり立夏も過ぎて初夏の季節になりました。
先週、近くの公園で撮った初夏の風景です。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。