後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本最大級の広大なユリの花畑の写真」

2019年05月29日 | 写真
日本の東北地方の宮城県、一迫(いちはさま)ゆり園には花々の大群落が初夏の丘陵に広がっています。
私どもは2008年の初夏に訪れました。その時撮った写真をお送りします。ユリの花の群落をお楽しみ下さい」
詳しくは、『「南くりこま高原一迫ゆり園」
https://www.miyagi-kankou.or.jp/kakikomi/detail.php?id=1408』をご覧下さい。









日本の2万年前の無土器、旧石器時代の生活の実態は?

2019年05月29日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には約4万年前から人間が住んでいたと考えられます。その頃はまだ土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。この時代を無土器、旧石器時代と言います。
その一方中国には北京原人が68~78万年前から住んでいました。この北京原人も土器も土鍋も無い石器だけの生活でした。旧石器時代だったのです。北京と陸続きの朝鮮半島にも当然数十万年前から人間が住んでいたと考えられます。
今日は日本の旧石器時代の人々がどのような生活をしていたかご紹介いたします。なお新石器時代とは土器と石器を併用していた時代で日本では縄文時代と言います。

それではまず北京原人の簡単なご紹介から始めます。
北京原人とは北京市房山県周口店竜骨山の森林で発見された人類です。そこには立派な展示館があり北京原人の生活の様子が展示してあります。私は1981年に北京鋼鉄学院の周栄章教授の案内ではるばる訪問したことがあります。南アフリカで誕生した人類が遠方の中国までやって来たのです。それは感動的な展示館でした。
北京原人は2015年現在はホモ・エレクトス (Homo erectus) の亜種として分類されています。
北京原人が生きていた時代は更新世でした。そして北京原人の化石の年代は68~78万年前と推定されています。
北京原人はアフリカ大陸に起源を持つ原人ですが現生人類の祖先ではなく、ネアンデルタール人と同じように絶滅しました。
石器や炉の跡が同時に発見されていることから、石器や火を利用していたと分かっています。動物の骨が見つかったことから、獣を狩猟して焼いて食べていたと考えられています。
しかし土器のかけらも見つかっていないのです。ですから北京原人は無土器の旧石器時代の生活をしていたのです。

1番目の写真は周口店にある北京原人の遺跡と展示館の入り口の写真です。
さて話は変わって日本の無土器の旧石器時代のことをご紹介したいと思います。
日本に人間が住んでいた確かな証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは3万年前からです。それ以前の石器も少数ながら出土しているのでまあ大雑把に言えば4万年前から人間が住んでいたと考えても大きな間違いがないようです。すると以下のような時代区分が出来ます。
旧石器時代 –約4万年前ー 紀元前14000年頃 (24000年間)
縄文時代 14000年前頃 – 前3世紀頃 (11700年間)
弥生時代 前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年 、
これ以降は平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土桃山、江戸時代、現代となります。
この年代区分が仮に正しいとすると旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約12000年間(正確には11700年間)も続いていたことになります。その後の歴史はたかだか2000年しかありません。
旧石器時代と、新石器時代と呼ばれる縄文時代の合計約36000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かりいただけると思います。
ここで思いをはせて頂きたいのは旧石器時代には土器が一切無かった事実です。人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や獣肉や魚介類は煮て食べることが出来なかったのです。
土器の鍋や蒸し器が出来るまでの日常生活の不便さは想像にあまりあります。
日本の旧石器時代に関する従来の学説では人々は定住していないで獲物の獲れる場所をさまよいながら焚火で獣肉を焼いて食べていたと言われています。
しかし近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。
関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があり、関東では神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」があります。
私は近くの相模原市の田名向原展示館に何度も通い旧石器時代の生活の実態が少し分かりました。

2番目の写真は20000年前の旧石器時代の住居跡です。相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。
この写真では平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見えます。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧跡時代の住居跡なのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

この旧石器時代の住居跡の発見を何故、特別な大発見と言う理由を簡略に以下に書きます。
戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。それが終戦直後の岩宿遺跡の発見で数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。
それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。
それが平成時代になってから事情が急変したのです。
各地の自治体が行う土木工事の前に、注意深い科学的な発掘調査をするようになったのです。
その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まるまでの後期旧石器時代のものと証明されているのです。
現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた旧跡時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
住居跡が見つかっていないので旧石器時代には人間は家も造らず、定住もしていなかったという学説が広く信じられていたのです。
しかしこの学説は間違っていたのです。
少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。
考古学を趣味としている私は何度もこの20000年前の旧石器時代の住居の復元模型を見て感動していました。
行ってみると其処は相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。
ここ田名向原展示館の付近は相模川中流で、考古学的史跡が3層、4層と住居跡や古墳が集中して存在しています。

3番目の写真は上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されているのです。

これ以上は長くなりますので明日の続編にします。

今日は日本に初めて住み着いた旧石器時代の生活の様子を間単にご紹介しました。北京原人の時代に比べると68~78万年も後のことなのです。日本が海に囲まれている事実の重さをあらてめて考えさせられます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)