後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

箱根の湿生植物園の花々の写真です

2019年05月18日 | 写真
湿性植物園は箱根の湿地帯だった仙石原にあり、いろいろ珍しい花々が咲いています。
栽培種の花のコーナーもあり、その一方で昔から仙石原湿地に咲いていた野生の花々もあります。昨年の丁度今頃、箱根に行って撮ってきた写真です。
そんな花々の写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真は野生のノハナショウブです。

2番目の写真は石楠花です。

3番目の写真はヒマラヤに咲いている青いケシの花です。阿片は採れません。

4番目の写真はアミメヘイシソウです。仙石原の在来種ではありません。アミメヘイシソウ はサラセニア属の食虫植物の1種で、捕虫葉の先端部分に紅白の網目模様が入り、美しい花です。

5番目の写真はいろいろなサクラソウの園芸種の写真です。こんなにも数多くのサクラソウがあるのですね。

仏教国ー高円寺、吉祥寺、国分寺、八王子

2019年05月18日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は「歴史ミステリー、万願寺の謎に挑戦した」という記事を書きました。
日野市の万願寺という地名の来歴の謎を明かすことに挑戦したのです。
多摩モノレールの日野の駅に「万願寺駅」があり、周辺の地名を昔から「万願寺」と云い町名番地に使われています。しかしこの周辺に万願寺というお寺は無いのです。
昨日の私の推理では現存する安養寺の前身が「万願寺」だったという結論でした。
一応、結論を出しましたが証拠がありません。文献も皆無です。
釈然としません。もやもやして気持ちが悪いのです。
そこで前から気になっていた高円寺、吉祥寺、国分寺、八王子という町の名前の由来を調べてみました。JR中央線の駅の名前にもなっているので皆様ご存知のことと存じます。
調べてみたら高円寺、吉祥寺、国分寺にはその名と同じお寺が現存しています。八王子はある神社にちなんだ名前なのです。
今日はこの事をご報告します。嗚呼、日本は穏やかな仏教国なのだと今更ながら感銘を深くしました。

(1)高円寺という地名の由来
高円寺は東京都杉並区にある地名で現存する寺院「宿鳳山高円寺」に由来することが明確に分かっています。
かつては高円寺村と呼ばれていたのです。それより以前の江戸時代初期まで当地は「小沢村」と呼ばれていました。
宿鳳山高円寺には特別なエピソードがあるのです。
江戸幕府三代将軍・徳川家光が鷹狩りでしばしば宿鳳山高円寺で度々休憩しました。
家光はこの寺院が気に入り境内に仮御殿が作られたのです。
そして正保年間の頃に地名が小沢村から寺の名前に因み高円寺村に変更されたのです。
高円寺は弘治元年(1555年)、中野成願寺三世、建室宗正により開山されました。
将軍徳川家光が鷹狩りの際、雨宿りのために当寺に立ち寄り、時の住職が家光を将軍としてではなく一般の雨宿りの客として、さりげなくもてなしたことが気に入られ、家光は鷹狩りの度に当寺に立ち寄るようになったのです。時の住職さんのお人柄が偲ばれる良いエピソードですね。

1番目の写真は現在の宿鳳山高円寺の本堂です。
この本堂は昭和28年(1953年)に宮大工・中村青雲により再建されたものだそうです。

(2)吉祥寺という地名の由来
吉祥寺は、東京都武蔵野市の吉祥寺駅を中心とする地域名として使われている名前です。
しかし吉祥寺という寺は武蔵野市には無く文京区本駒込にあります。
現在の吉祥寺という地名は少し複雑ないきさつがあるのです。
明暦の大火によって、江戸本郷元町(現:文京区本郷一丁目、水道橋駅付近)に存在した諏訪山吉祥寺の門前町が焼失しました。
その時、幕府は同地を大名屋敷として再建することにします。
そのため吉祥寺門前の住人に対し、「札野」「牟礼野」と呼ばれた幕府御用の萱場を代地とし提供したのです。
5年期限で扶持米を与え家屋の建築費用も貸与するという条件で希望者を募ったのです。
吉祥寺の浪士の佐藤定右衛門と宮崎甚右衛門が土着の百姓・松井十郎左衛門と協力してこれに応じ、現在の武蔵野市東部を開墾して住人達を移住させたのです。
吉祥寺門前の住人たちは吉祥寺に愛着を持っていたのです。そこで移住地を新田は吉祥寺村と名付けました。
1923年(大正12年)の関東大震災を契機に被災した市街地から多くの人たちがまたもや吉祥寺に移り住むことになり、人口が急増し現在の繁華な吉祥寺になったのです。
現在の諏訪山吉祥寺は、東京都文京区本駒込三丁目にある曹洞宗のお寺です。

2番目の写真は現在の吉祥寺です。
この吉祥寺は室町時代1458年(長禄2年)に太田道灌が開基しました。道灌は、江戸城築城に際し和田倉付近の井戸から「吉祥」と刻銘した金印を得たので吉祥寺としたそうです。
徳川家康の関東入府にともなって駿河台に移り、明暦の大火と江戸大火によって現在の駒込の地に移転しました。
寺堂は近代まで七堂伽藍を誇っていましたが、東京大空襲で焼失しわずかに山門(1802年建造)と経蔵(1804年建造)だけが残ります。現在は復興され、本堂、客殿、庫裏などがあります。

(3)国分寺という地名の由来
国分寺という地名は明快です。
奈良時代の中頃、聖武天皇は諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。
武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性はつとに認められており、大正11年に国指定史跡に指定されています。

3番目の写真は武蔵国分寺跡の写真です。
武蔵国分寺には壮大な山門、楼門、金堂、講堂、七重塔、庫裏、僧堂、鐘楼、などなどが東西1,500m、南北1,000mの範囲に華麗に並んでいたのです。
当時はこの場所には東山道の武蔵路が南北に走り、近くには古墳時代からこの地を治めていた国府、現在の府中市がありました。
現在の国分寺跡公園は武蔵国に置かれた国分寺および国分尼寺の跡地です。現在は、両寺院の跡地の間を府中街道とJR武蔵野線が横切っています。

4番目の写真は現在の武蔵国分寺です。
もともとの国分寺は鎌倉時代末期焼失しました。その後は、新田義貞によって再建された小さな薬師堂が淋しく立っているだけでした。
現在の武蔵国分寺は国分寺市にある真言宗豊山派の寺院です。
武蔵国国分寺の後継寺院にあたります。

(4)八王子という地名の由来
これも明確に分かっています。平安時代に出来た牛頭天王をまつる「八王子神社」の牛頭天王の8人の王子に由来する地名なのです。分かりやすく言えばヒンズー教の8人の神様のことです。
「八王子」という地名は、全国に分布しています。それは、牛頭天王と8人の王子(八王子)をまつる信仰の広がり、八王子神社や八王子権現社が建立されました。
それが地名として定着していったのです。
現在八王子城にある八王子神社が牛頭天王と8人の王子(八王子)を祀っています。

5番目の写真は現在の八王子神社です。
牛頭天王をまつる信仰は、もともとインドのヒンズー教から中国を経て伝わってきたものです。
疫病や農作物の害虫そのほか邪気を払い流し去る神として信仰されていました。
その8人の子を眷属神とし、あらゆる人間の吉凶を司る方位の神として全国に広がっていったといいます。
さて八王子神社の由緒については、宗関寺(元八王子町)に伝わる古記録に記されています。
それによると、平安時代、延喜13年(913年)の秋、京都から訪れた妙行という学僧が、深沢山(後の八王子城)の山頂の岩屋で修行をはじめました。
天慶2年(939年)、妙行の功績が都の朱雀天皇の耳に届き、「華厳菩薩」の称号が贈られるとともに寺名も「牛頭山神護寺」と改められたのです。
これが、八王子神社の由緒とその神宮寺となった牛頭山神護寺(後の宗関寺)の縁起として伝えられたのです。八王子神社を中心とした地域が、中世には「八王子」と呼ばれるようになったのです。

以上少し長くなりましたが高円寺、吉祥寺、国分寺、八王子の地名の由来です。
思わず歴史散歩になってしまいました。と同時に嗚呼、日本は穏やかな仏教国なのだと今更ながら感銘を深くしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)