後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

人生いたるところに青山あり・・・そして海外に住む日本人

2015年05月21日 | 日記・エッセイ・コラム
高校時代の漢文の先生からこの一節を習って以来、長い人生の折々に必ず思い出す言葉です。仕事がうまく行かなくて屈折しているとき。残雪の連山を見ながら亡くなった親や恩人のことを思い出しているとき。海の上でヨットに乗っているとき。フッと思い出して青山でなく青い海原に眠る人々のことを思うこともあります。
この一節は幕末の長州の月性という僧侶が作った漢詩の最後の一節です。
言葉の響きが良い上に蒼く光る山々を連想されるので広く人々に使われる一節です。
その七言絶句の漢詩と訳は以下の通りです。          

『將東遊題壁』

男兒立志出郷關,
學若無成不復還。
埋骨何期墳墓地,
人間到處有山。

將(まさ)に 東遊せんとして 壁に 題す。

男児志を立て郷関を出ず
学若し成る無くんば復た還らず
骨を埋むる何ぞ墳墓の地を期せん
人間到る処青山あり

(「人間(じんかん)」は世の中を指し、「青山」は墳墓を表しています。)
その大意は、人はどこで死んでも青山(=墳墓の地)とする所はある。故郷を出て大いに活躍すべきであるとの意です。
幕末の長州で月性は尊皇攘夷の運動を活発にしていて吉田松陰とも交友があったそうです。
明治、大正、昭和と時代が進むと樺太南部や台湾や朝鮮が日本の領土になります。それに従って日本を出てこれらの新天地で働く日本人も増えていったのです。
「人間到る処青山あり」という一句は何となく時代の風潮に合致しているように感じる人が多かったのです。その理由もあって旧制中学校の漢文の時間にはこの漢詩を暗記したのです。
私が戦後に入学した新制高校は旧制中学校のままの漢文の先生が教えていたのです。
勿論、この漢詩の重要な一節は、「学若し成る無くんば復た還らず」です。学問をきわめるために故郷を出るのです。しかし最後の一節だけを唱えるようになり、広くいろいろな分野で活躍するために故郷を出ると拡大解釈されるようになりました。
最近、ネットの上で交流している方々には日本の故郷を遠く離れて何年も異国に住んでいる方々が数多くいらっしゃいます。
そこで、拡大解釈のついでにこの「人生いたるところに青山あり」という一節を海外に住んでいる日本人が好きになってくれるようにと祈りたいと思っています。
故郷の日本のことを懐かしく思うのは大変良いことです。しかし現在住んでいるところを愛しお墓も作ろうと決心している人も多いと思います。私はそのような人を尊敬します。
外国に住む日本人はそれぞれの理由があるのでしょう。しかし住んでいる土地を愛し、その国の土になるという決心は崇高なものと思います。理由は分かりませんが私には崇高な決心のように思えるのです。
勿論、その逆も真です。日本に帰化して日本の土になった人も知っています。時々その墓参りに行きます。何故か感動します。理由は分かりません。
今日の挿絵の写真はフランスとインドとオランダの風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

アルプス地方の風景写真の出典は、http://www.v3wall.com/ja/html/pic_down/1680_1050/pic_down_33070_1680_1050.html です。

インドの農村の風景写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/samberasam51/23670410.html です。

オランダの風景写真の出典は、http://sayaka007.blog17.fc2.com/blog-entry-70.html です。
=====参考資料================
月性:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%88%E6%80%A7
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。長門国萩では益田親施・福原元・浦元襄などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間[1]到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。
安政5年(1858年)5月、42歳で病死した。
15歳のとき豊前国・肥前国・安芸国で漢詩文・仏教を学び、また京阪・江戸・北越を遊学し名士と交流した。長門国萩では益田親施・福原元・浦元襄などに認められ、吉田松陰、久坂玄瑞らとも親しかった。
安政3年(1856年)、西本願寺に招かれて上洛、梁川星厳・梅田雲浜などと交流し攘夷論を唱え、紀州藩へ赴き海防の説得にあたるなど、常に外寇を憂えて人心を鼓舞し、国防の急を叫んでいたので世人は海防僧と呼んでいた。長州の藩論を攘夷に向かわせるのに努めた熱血漢で、詩をよくした。「・・・人間[1]到る処青山有り・・・」という言葉で有名な漢詩「将東遊題壁」(男児立志出郷関 学若無成死不還 埋骨豈期墳墓地 人間到処有青山)の作者としても名高い。 安政5年(1858年)5月、42歳で病死した。

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