日本人なら皆が知っている山本常朝の『葉隠』。
この書を読んだのが20代。
正直、チンプンカンプンでした。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
・・・何これ?サッパリわからないよ。
でも40代頃から、この意味が次第にわかってきて、
50代になると、ハッキリわかるようになりました。
要するに「武士道」の意味は・・・
「男は常に何かを決断すべき時がある。
そういうときは、誰が何と言おうと、
自分の命をかけて、決断すればいい・・・
たとえ身が滅ぶとも、甘受しよう・・・
それが生きるということの最終的な意味なのだ・・・」
以上が「武士道とは死ぬことと見つけたり」の意味なのです。
なぜ50代になって、武士道の意味がわかったかと申せば、
私自身、これまでに、何度も試練を受けてきて、
もう「ケツをまくって、生きるしかない」
という出来事にしばしば遭遇したからです。
(逆に子供の頃は、なぜわからなかったかと申せば、
その理由は「皆がやる通りにやること」が、
成功の秘訣だったからです。
たとえば、学校のテスト。
「高い」は「たかい」と読むのであって、
「俺はひくいと読むことに決めた」とはいかないわけです)
私は現在、好き勝手な日記を書いていますが、
これなども発表する前は
「こんなこと書いていいんだろうか?」と迷うこともしばしば。
しかし最後はいつも「ケツをまくっています」。
そして、思います。
今まで、自分の人生、何度もケツをまくってきたじゃないか・・・
若い頃はよく自己流の修行をしました。
新井白石の『折たく柴の記』の中に、
真冬の水垢離の話があれば、すぐに毎日実行しました。
勝海舟が『氷川清話』の中で、
夜の山中で座禅を組んだとあれば、
真夜中、度胸試しに、荒野をさまよいました。
28歳ころ、男は布団で寝てはいけない、
などとも思い、現在も30年間布団の上で寝ていません。
これは体にとてもいいようです。
イザというときのために断食は必要と思い、これは何度もしました。
ゴキブリなど怖がっていても仕様がないと思い、指でひねりつぶし、
正月に「親知らず」が痛み出し、ペンチで引き抜きました。
ある町に住んでいた時、図書館の不正に我慢できず、
10回以上も抗議・・・しかし完全にシカトされましたので、
館内でビラをまき、館長を退陣・・・たった一人の反乱でした
(ちなみに私は政治的にも宗教的にも無所属です)。
私は本来、臆病な人間で、
子供のころは、とても泣き虫だったのですが、
・・・こういう一連の硬派的行為は、
「不正はいけない。ひとりだけでも行動しよう」
または
「軟弱には生きたくない」
・・・などと、心のどこかで思いながら、
好き勝手にやってきた行為なのです。
現在は多忙なためか、あるいは利巧になったためか、
このようなことは、ほとんどしていませんが、
それでも、近所の図書館が急になくなるというので、
署名活動をいたしました。
つまり、20代の時に読んだ『葉隠」の精神が、
私の心のどこかで、脈づいているようなのです。
それでは、なぜ日本人がサムライなのか?
中国人やアメリカ人はサムライになれないのか?
私が思うに・・・
それは島国精神からくると思っております。
日本人の価値観は世界の主流派とは違うもの。
その中で・・・
日本人は最終的に
「宇宙的な正義から見て、孤独に行動する必要があり、
しかし、それは自己犠牲という不即不離の関係にある」
・・・それがサムライの精神なのだと思います。
最後は自分が責任をとればいい・・・
ただ一度の人生、思い切って行動しよう・・・
・・・かと申しても、
無鉄砲はいけないし、自己陶酔的行動も最低です。
自分を最大限に生かすこと、
日本人および人類のためになること・・・
何度も熟慮をし、この二つの精神から行動すべきです。
ただ私がどうしてもできなかったことがひとつあります。
それは割礼でした。
旧約聖書を読んでいると、割礼が何度も出てきて、
愚かにも「自分もすべきではないか?」と思いました。
しかし、どうしてもできませんでした。
私の本名はヨコカワ・・・やはりカワとは縁があるのでしょうか?