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天皇まんざーい 長崎の爆心地は三菱が買ったばかりだった <>

2016-06-07 20:08:43 | 天皇まんざーい

 

 http://sci-tech.jugem.jp/?day=20090615 より転載しました

ジョー・オダネル『Japan 1945』
 

 

科学技術のアネクドート

 
長崎市松山町「平和公園」の変遷をたどる――長崎とアトム(1)

原爆投下以前の長崎市
 
毎年8月9日、人々が死者を弔うために集まり、二度とおなじできごとが起こらぬように誓いを新たにする場所があります。
 
長崎市の原子爆弾投下中心地、つまり「爆心地」です。
 
原子爆弾が投下されたのは、現在の松山町2400番地3号。当時は、松山町171番地という番地でした。この地は、いま長崎市が管理する「平和公園」の一部になっています。
 
長崎市による平和公園の案内を見ると、この公園は「世界平和と文化交流のための記念施設として昭和26年に整備を行い、これまで国内外の多くの人々に親しまれてきました」とあります※。
※長崎市みどり課の説明では、この公園は1955(昭和30)年に開園したとしています。
 
しかし、原爆投下からこの整備までの間、爆心地は野ざらしに放っておかれたわけではありません。
 
公的な記録とは別に、この爆心地には平和公園の前身となる公園が存在していました。遅くとも、原爆投下から3年後の1948(昭和23)年までには、長崎市民は爆心地を公園として認識していました。そして、この公園は「平和公園」とは異なる呼ばれ方がされていました。
 
この新連載企画「長崎とアトム」では、いま「平和公園」として知られる長崎市の爆心地が、原爆投下を境にどのような変遷をたどっていったのかを、当時の地元の新聞記事などから追っていきます。そして、そこから、当時の長崎市民ないし日本国民の終戦直後の精神性を探っていきます。つづく。

 

松山町171番地は別荘だった――長崎とアトム(2)
 
1945年8月9日に原子爆弾が投下された長崎市の「爆心地」には、「松山町171番地」という地番がついていました。いま「平和公園」の一角となっているこの地は、被爆の日を迎えるまで当地の富豪の高見和平氏が所有する別荘のテニスコートでした。
 
この敷地は、面積およそ38900平方メートル。夾竹桃や杉、それに桐などの木々に囲まれていたといいます。
 
原爆投下当時の松山町の街並みを復元した「長崎市原爆被災市街地復元図」という地図があります。これを見ると、敷地(中央の色付き囲み)の東側には浦上側の支流が流れ、西側にはいまの国道206号線にあたる大通りが走っています。
 

 
調来助編著『長崎 爆心地復元の記録』付録地図より(色付き囲みは当ブログで付けたものです)
 
また、大通りには「クリーニング店」「時計店」「牛乳配給所」などの商店が連なっていたことも見受けられます。
 
さらに、このとおりの道沿いの高見氏の別荘から北に100メートル進んだところには、「黒川」という名前の方が住む一軒家があります(地図の左がわの色付き囲み)。
 
この黒川家は、原爆投下の瞬間に松山町にいた人々の中で、ただひとりだけ被爆しながら生存を果たした黒川幸子さん(当時9歳)の住んでいた家です。
 
原爆投下時、高見氏の別荘は三菱長崎造船所が宿舎として使用するために買収したばかり。女子挺身隊の宿舎にする計画だったようです。まだ空き家となっていました。
 
この高見氏の別荘の真上、およそ500メートルの位置で、原子爆弾は炸裂しました。原子爆弾投下により、長崎では死者約74000人、負傷者約75000人という甚大な被害となりました。
 
どのように、この松山町171番地が爆心地であると突き止められたのでしょうか。つづく。
 
直立する電信柱――長崎とアトム(3)

被爆直後の長崎市浦上駅付近、山端庸介撮影
 
原子爆弾投下が投下されたのは長崎市松山町171番地(当時)の上空500メートル。この場所が爆心地であることは、どのように突き止められたのでしょう。
 
長崎市が編纂した『長崎原爆戦災史 第二巻 地域編』によると、被爆直後から、爆心地は松山町であるという未確認の情報が出まわっていたといいます。その根拠として、松山町の電信柱や木々などの姿が上げられます。
 
まわりの町では電信柱や木々はなぎ倒されているのに、松山町の電信柱や木々は焼けても直立して立ち残っていたものがありました。こうしたことから、松山町が爆心地であるという噂が流れていたのでしょう。
 
原爆投下の翌日、山端庸介という写真家が長崎の街の姿を撮影しています。1940年以降、従軍写真班の一員として、中国、台湾、シンガポールなどに赴きました。そして、1945年8月6日、陸軍西部軍報道部に従事させられていた山端は、長崎に赴任をしました。原爆投下の3日前です。
 
山端の撮った被爆直後の長崎の写真の数々は、平和博物館のホームページ「山端庸介撮影の足取り」で見ることができます。がれきの荒野と化した浦上の街でぽつねんと垂直に立ったままの電柱が山端に撮影されています。
 
後日、公式な爆心地の推計と決定が行われました。文部科学省学術研究会議・原子爆弾災害調査研究特別委員会から、理科学研究所の木村一治、田島英一、また地震研究所の金井清などの科学者が長崎に派遣され、現地を調査しました。
 
木村らは、浦上天主堂の忠霊碑(爆心地からおよそ450メートル)、浦上天主堂前の記念碑(450メートル)、長崎医科大学附属病院の窓枠(650メートル)、井樋の口の交番所(1470メートル)などに残されている焼け跡の向きなどを手がかりにしました。これらの焼け跡の向きの焦点が合った場所が、爆心地であると考えたわけです。
 
長崎市松山町171番地が爆心地であることが決定されました。つづく。
 
~~~~~~~~~~~~~~~~~
♫この記事は2009年に書かれています。とても貴重な資料だと思います。丹念に調べてくれています。続編がまだまだあります。17まであります。
 
この資料をみると、爆心地は三菱の場所ということになります。買い上げて日が浅いことも、わかります。ここで、原爆を地上で設置して爆発させたのかもしれないのです。本当に空から落ちて来たのかわかりません。
 
この後の記事には、政府による「一億総ざんげ」という事も出てきます。怒りが込み上げてきます。
 
一日も早く原爆の真相と、原爆の特許者の名前をアメリカが公表すべきですね。
日本人は2重3重に苦しめられています。
 
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