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◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

水上研究 現状報告です。

2009年06月10日 | 今泉章利
一体何をやっているのだ!せっかく、末松さんからブログのスペースを頂いたというのに!!

本当に返す言葉もありません。現状を報告いたします。

1.仕事が忙しく、きつくいのと反比例して体力が衰え、体調を崩しております。

2.水上さんのほうは、大変貴重な資料を36点、遺品を22点、日大の卒業アルバムを見せていただきました。資料の整理中です。

3.やり残していることがあります。
どうしても前沢に行かなければなりません。それ以外は、手が出ないにしても、もう一度前沢に行かねばなりません。(東京地検にも行かねばなりませんが、それは、原稿がかなりできてからだと思っています。。)

4.今は、実は、いろはの草書を勉強中です。 水上さんや奥さまの書かれたものは、草書なので、このかなを、だいたいそれぞれ三種類、、、もちろん 例の、東京都地検と同じく わからないので、やっていますが、実に微妙で、集中してやらないとだめなのです。こんなこと小学校でやってくれればよかったのにといつも思います。

いつになるのか、焦る気持ちにさいなまれながらも、見せていただいた資料は実に感動的です。胸に迫るものがあります。

御結婚前後のお手紙、事件後のやり取り、遺書など、、いろいろな意味で一級のものと確信しています。真剣に国に殉じようとした若い立派なお二人だったと思います。
すべてを投げうち、殺されて、それでも、世間がどうであっても、正義は曲げないという強い意志を感じました。なくなって、12月の12日の奥様のメモなど涙なしには読めないものです。健気な、厳しい北海道の好奇と誤解と歪んだ同情と、、そんな中でほんとうに、奥様はまっすぐ生きようとしておられました。たったひとりのご令嬢とともに。

(今泉章利)

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サンクト ペテルスブルグ と 日露戦争(2)

2009年05月29日 | 今泉章利
ここサンクト・ペテルスブルグは、バルチック艦隊の基地ででした。 30分ほど北に行ったとことろに フィンランド海峡というのがあります。半分は橋で、海峡の真ん中に島があり、そこからは、東京湾トンネルみたいな海底トンネルになっています。真ん中の部分は島になっていて、そこに、艦隊がつながれていていたそうです。それがバルチック艦隊で、日露戦争のため、喜望峰を回ってインド、シンガポールを経て対馬で、我が連合艦隊と戦い負けたのです。1904年、明治38年の5月27-28日のことでした。ちょうど105年前のことでした。なんだかこんな日に、ペテルスブルグにいるのは不思議な気がします。

なお、対馬の日露戦争といえば、筆者の祖父、今泉義道の父、原道太海軍大尉(当時)が軍艦扶桑の水雷長として活躍したことがあったそうです。

この戦争で、日本の運命も変わっていきます。。。

この町には、凱旋門があります。トルコに勝ったというものですが、日露戦争でロシアに勝った日本に大喝采と最大の敬意を払ったのが、そのトルコでした。

今はとてもいい季節で、連日抜けるような青空、だんだん白夜が近づいていますが、夜の11時でも、十分に明るく、美しい建物の上に上弦の月が輝いておりました。

(今泉章利記)
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今、ペテルスブルグにいます。

2009年05月29日 | 今泉章利
あわただしかった出張が、ここロシアのペテルスブルグで終わり、これからパリ経由で帰国します。
昨日は、シエラザードを作曲したした方のお孫さんのリムスキーコルサコフさんという原子力物理学者にお目にかかりました。
チェルノブイリの話や、おじい様のリムスキーコルサコフさんのこと、ソ連時代の宇宙飛行士の話など楽しい半時を過ごすことができました。モスクワと違い、権威主義的でなく、自由な気風があり、美しい町並みがどこまでも続くすばらしい町でした。
なお、一緒に食事をしたレストランは、よくドストエフスキーが来られたところとか。

たぶん、ある基準を設ければ世界一きれいな町だと思います。

水上さんの関係で訪問した函館の水産学校の方からメールをいただきました。平澤さんという人が書かれた「叛徒」に水上さんのことが出ていると書かれてあった。

(今泉)

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御無沙汰しています。アジアの未来

2009年05月23日 | 今泉章利
やはり、サラリーマンは厳しいですね。

ベトナムから帰り、昨日今日は、日経新聞主催の「アジアの未来」という会議に出席していました。大変に、刺激的な会議でした。二日連続の会議で、ダボスの会議よりよほど質が高いかもしれません。

一日目は、ベトナムのグエン・タン・ズン首相、マレーシアのマハティール、今日は、韓国の首相、二階経済大臣、シンガポールのリー・クアン・ユーさん、中国やインドの政治家などが出てアジアを語っていました。心配で気になるところはいくつもありましたが、こんな風に、アジアの指導者がやってきて、議論し、質問に応じているのはなんとも不思議な感じがしました。

明後日からまた一週間、出張です。今度は、ロシアに行きます。モスクワとはじめてゆくサンクト・ペテルスブルグに行きます。

土曜に帰りますが、一日置いて、月曜日から、二日続けて、東京のあるホテルで、国際会議を行います。

ちょっとばて気味です。昔は何と言うことはなかったのに。

本当は、、事件に関することも、ものすごくたくさんある報告事項あるのですが、手が回りません。ご容赦ください。でも、おって、少しずつ報告します。少しご報告したものもありますが、、弘前の訪問、瀬棚の訪問、函館の訪問、水上さんの遺品、アルバム、など、、山ほどあります。でも、水上さんの輪郭が少し見えてきたのが救いです。

後は、学生運動を整理しなければなりません。

(今泉章利)

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水上源一さんのころの日大について

2009年05月11日 | 今泉章利
皆様

日大、日本大学については勿論ご存知でしょうが、どのようなイメージをお持ちでしょうか。
小生は、マンモス大学という感じを持っています。昔、高校を卒業して、大学に入れず、駿台という予備校も落ちて、三崎町の予備校に通っていたことがあります。まわりは日大だらけで、目の前の白山通りで、古田体制打破というデモや
バリケードストライキをやっていました。

だからそういうイメージを持っているのですが、水上源一さんのご卒業された法文学部政治学科は、わずか17名、先生は、24名。
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友に。

2009年05月09日 | 今泉章利
友に。

君は忽然と幽冥境を異にした。僕は、君のいなくなった部屋に、肉親の方たちとともに入り、まるで部屋のどこかに君がいるかのような錯覚にとらわれながら、君の戦いの跡を眺めていた。そこには、僕からの手紙もあった。様々な仕事が置き放しのままにされていた。

帰りの車で僕は泣いた。悲しかった。君には弱いところがあった。しかし、このぼくにはもっと弱いところがある。僕はもっともっとだらしのない人間だ。君は、いつも優しかった。人間にやさしかった。僕にはない優しさだった。僕のようなまだら模様の優しさとは違う優しさだった。

何にもない君の部屋には、君の魂魄だけが漂っていた。。

人は、思い出があると悲しい。たくさんあればある程、悲しみが増す。僕にはもう思い出はいらない。もういくら泣いても泣ききれないほどの思い出がある。
僕は、僕にむかって投げつけられた運命の糸や紙切れを拾い集めて、下を向きながら、整理をしていこう。命のともしびが消えるまでのわずかなあいだに、君の分も含めて、急いで、整理をしよう。

友よ。僕にその最後の力を絞り出す勇気を与えて呉れ賜わらんことを。

(今泉章利)
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水上さんのご両親のお墓(連休報告2)

2009年05月09日 | 今泉章利
北海道の瀬棚にある水上源一様のご両親源五郎様とまつ様、お兄様ご一家のお墓をお参りしてまいりました。
このお寺は日蓮宗龍光寺で、今は廃線なのですが、昔あった瀬棚の駅から歩いて10分ぐらいのところにあります。

まつ様は、昭和11年7月12日、ご子息源一様が処刑されたとき、嫁であるはつね様に「源一の起こした事件は、歴史に残る立派な事件だ。だから、遺骨は堂々と胸を張って持って帰るように。」と言われたそうです。
しかし、遺骨を抱き、何も知らない宣子様をつれて、瀬棚の駅に降り立った20歳のはつね様に対する人々の対応はあまりにもむごいものでした。

お骨の箱には、荒縄が縛ってあり、国賊の遺骨を見せしめのようにして、村の人たちは、寺までのあいだ、きっと好奇と冷たい目で見ていたのでしょう。駅から寺まで行列ができたということでした。
勿論特高警察や憲兵もいたと思います。お寺の和尚さんも、お墓にも入れられず、お骨を安置するのが精いっぱいだったと思います。

源一さんの御ねえさまのイノ様のご長男から、父親である湯浅兵次郎(ひょうじろう)様あての遺書を見せていただきました。

国の為よよぎの露と消ゆるとも 天より吾は国を守らん  源一

昭和拾壱年七月九日
為兵次郎兄

とありました。この遺書は、もともとはつね様がお持ちであったものではないらしく、昭和12年4月10日付の消印で、北海道瀬棚郡東瀬棚村真駒内 水上はつ様となっておりました。差出人は、和歌山県高野山 準別格本山 浄菩提院 となっておりました。この封書には、このほか二通の遺書があったそうですが詳細はわかりません。はつね様は、この封筒を受け取られた時は、どんなお気持ちであられたでしょうか。はつね様がおられたその家で、その遺書を見せていただいたのでした。

(今泉章利)

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連休お疲れ様でした。波多江タマさまとの会話(連休報告1)

2009年05月07日 | 今泉章利
皆様、連休お疲れ様でした。

私は、5月4日、對馬中尉の妹であられる波多江タマさまと、弘前で、ほぼ一日 話をしました。 對馬中尉の生まれ育った田舎館村の垂柳(たるやなぎ)にも行きました。對馬様のご遺言の「にもありました神明さまにもお参りをしてきました。

小作の話は、おばあ様とよくお話いたしました。タマさまは、この事件の今の書いてあるものはほとんど全部おかしい。軍部の派閥あらそいで事件が起きたような書き方をしているから、若い人たちは、まったく二・二六事件を誤解してしまうだろうと憂いておられました。この事件は、派閥の話ではなくて、農民のほとんどすべてを占める小作人が本当に貧しい状況にあったことから起こったのであり、その後に派生した政治的な動きは、真の原因ではない。農民の状況を理解も勉強もしないで二・二六事件を語るべきでなく、間違っているといわれました。

あまりにも農民や人々が貧しいから、何とかしなければというのが根源であるのに今の二・二六事件の書き方は間違っていると、94歳のタマ様は静かにいわれました。

(今泉章利)
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ひろ坊様へ 車力村小作農民組合のこと

2009年05月03日 | 今泉章利
ひろ坊さま 細かくなくて申し訳ありませんが、私の理解していることを書きます。私が、末松太平先生からいただいたコピーは、どこかの本の一部で、たぶん、青森県史とかそういうものの一部と思いますが、出典を示すものがないので、どなたが書かれたのかわかりません。が、それから理解しているものです。ここには大正15年から昭和の初めにかけての車力村の小作争議が書かれています。政党色など一切ない人々の命の叫びの中に、末松先生は何かを感じ、私に、二・二六事件だと言われたのだと思います。

大正13年の岩木川の氾濫で、車力村は、田圃も家も水につかりました。おまけに、霜、霰の冷害が一帯を襲い、産業のほとんどすべてといってよい米は七分作、五分作、三分作、皆無作となってゆくのでした。一方、当時の農業は小作人が耕して小作料を地主にはらうやり方でしたが、この小作人が地主に払う小作料は、とても多いものでした。
この頃、小作料は、全国平均で収穫の50%をこえていましたが、青森県では54%でした。さらに、津軽北部では、75%という記録もあるような状況でした。この数値だけでも驚くのですが、実際に地主から田んぼを借りるためには、前作米という契約と同時に一年分の小作料(お金)を払わなければなりませんでした。そしてこの年の秋には、もちろんそれとは別にお米で払うというものでした。所が話はこれで終わりません。当時の伝統では、さらに、礼米といって、地主に対して小作人は、4年に一度、一年分のお米を地主に収めなければなりませんでした。つまり、実際の小作料とは、54%なら67%に、75%なら94%のお米を毎年平均収めることになるのでした。信じられないけれどこれが実態でした。そして、そこに冷害や水害が襲ったら、すべてを取られて小作人はなすすべがありませんでした。目の前で、地主は、米蔵を建て、百姓は残りのわずかなお米で暮らしていたのです。勿論、小作料を払わなければ、小作人は追い出されるのでした。この話はもっと書こうと思いますが、大正13年の岩木川の氾濫、、、大正15年の5月1日のメーデーの日に、車力村の鎮守の森から、青森県で初めてのメーデーが起こったのです。
参加したのは、車力をはじめ、木造町れんげ田、筒木坂、稲垣村下繁田、中里町長泥、山茂木、芦野、下牛潟、などから650名であったそうです。そのスローガンには「小作人から田畑をとりあげるな」「小作人から飯茶碗を取り上げるな」「小作料を負けろ」「小作人を人間扱いにせよ」「小作人の生血を吸う鬼畜地主を倒せ」と行進し、農民組合の発祥の地として、全国新聞などで、車力の名前が紹介されたと書いてあります。

昭和のはじめと言えば、大岸さんも西田さんも、末松さんも、もちろん国民もその矛盾は強く感じていました。しかし、天皇の名において制定された明治憲法およびその政府は、そのような昔の農業の体制ととも存在し、それを変えさせまいという強い意志を、警察を擁する内務省の実際的なゲバルト(暴力)で封じ込めていったのでした。

ひろ坊様、今度また、車力村にいって当時を知っている昔の長老に話を聞こうと思っているのです。私の知らないことなど御教えくだされば幸いです。

(今泉章利)

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河野進氏ご逝去

2009年05月03日 | 今泉章利
河野司先生のご二男であられます進様が4月26日、心臓の御病気のため享年60歳でご逝去されました。ここに謹んでご報告申し上げます。御家族の方には心よりお悔やみ申し上げます。

進様は、晩年、お父様(河野司さま)とお母様(河野華江さま)を通じての河野壽様を書こうとしておられたようですが、残念なことでありました。なお、河野華江さまのお妹様は92歳でお元気であられることを聞きました。お元気なうちにお伺いしたいと考えております。

また、お兄様の道思(みちただ)さまは、進様よりも御年長のため、河野司先生の家に来られた方につきもう少しご記憶らあられるようですので、こちらもお伺いしていろいろとい話を聞こうと思っております。

(今泉章利)

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ひろ坊さまへ 車力村のこと

2009年05月03日 | 今泉章利
ひろ坊様

先日、報告申し上げました「小作争議」は、昭和48年に、車力村役場が編纂した、「車力村史」というものの一部であることが判明いたしました。この本は、非売品なのですが、先日ようやく手に入りました。634ページの大作です。

これと関連してですが、1977年に作間雄二おいう方の書いた「戯曲 西津軽郡車力村 -ある日本の医師の物語ー」というのも入手いたしました。岩淵先生を「石淵先生」にしていられましたが、当時の様子が伝わってくるようです。

末松先生はこのような生活に根ざした改革こそが昭和維新の本質であると言われておりますが、このような維新活動方針は大岸頼好の考えと合流し、維新活動は青年将校の中でも一番貧乏だった對馬中尉のような方たちとするのだと言われています。はっきりとはいわれていませんが、頭での維新活動ではないものが、末松先生の維新の基本というように私は理解しております。

(今泉章利)

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渋川明雄様からの投稿 渋川善助様のこと(その2)

2009年04月26日 | 今泉章利
4月22日に渋川明雄様から、渋川善助さんにかかるメール(その2)を頂きました。これは、4月14日に頂いたものの続きで、以下が、渋川明雄様からの投稿です。大変に貴重なものです。

QTE
大正14年10月1日、陸軍士官学校本科に第39期生として入校。
同期生で無二の親友となる末松太平は入校間もない頃、大岸頼好の紹介で「大学寮」の西田税を訪ね、後に森本赳夫、草地貞吾を連れて行くが、森本はこの男はと思う同期生を何人か連れて行き西田と会わせていた。渋川はその中の一人であった。
そして「日本改造法案大綱」を手にする。「大学寮」の講師であった西田税をはじめ、満川亀太郎、中谷武世、安岡正篤、沼波武夫とは後に関わりをもつ。
大正15年6月、両親宛に次のような手紙を送る。
「皇国の将来を思ふ時、点取虫共があくせくして居る有様が情けなくなってきます。こんな奴等に日本国を負わせることが出来るかどうかと。彼等にして戦争をやる機械にならんとするならばそれでよし、俺はその機械を動かして則天行地の大業を行ふ人間たらんという意気ごみです」
この後間もなく教官と衝突。その理由は、教官が教育者として見るべき条件として厳格な諸箇条を列挙したが、それに対して、その条件に照らせば陸士の教官はすべて教育者として失格だと批判。これが問題化する。自説を撤回せず、二度の重謹慎30日の処罰を受ける。
9月に祖父善太郎に次のような手紙を送る。
「人間には大きな務めがございます。人間全体に対する務めでございます。又国民と致しましては、親よりも家よりも大事な務めが御座います。君国の御為に尽すことでございます。これがつまりは親の為家の為ともなるのだと存じます。一身の出世が目的であったり致しましては決してお国の為となるとは限りません」
昭和2年4月、本科の卒業試験も終わっていたが、退校処分となり、同年5月28日に士官候補生を免ぜられる。退校処分決定者は、校長であった真崎甚三郎。
退校になったいきさつを末松太平は次のように言う。「退校になった理由は、彼が教育学の根本問題に照らして、学校幹部の教育者としての資格を批判したからだったが、学校当局をして退校に踏ん切らせたのは、意外にも些細なことだったことが、このとき永井大尉(注・士官学校本科時代の区隊長)の口を通じてあきらかにされた。それは渋川や私と同じ区隊の生徒、赤松候補生の日記がもとでだったという。赤松は軟文学を耽読していたことが理由で、処分を受けたことのある、学校当局から目をつけられている軟派中の軟派だった。が彼はかねてから渋川を尊敬していた。渋川は退校になる前に、二度の重謹慎の処分を受けるのだが、それに同情して赤松はその真情をこまごま日記につけていた。その日記がみつかったことによって、学校当局は渋川の背後にこういう軟派たちの支持があると思い込み、渋川の処分を寛大にすることはこの軟派たちをつけあがらせることになると、厳しく退校の処分に踏ん切ったという」
末松太平は渋川のことを次のように言う。
「同期生きっての秀才」
「士官学校の優等生だったころの渋川は、口も八丁、抜群の頭脳と赤鬼というあだ名通りの体躯にものをいわして時には強引に横車を押しとおした。あのまま秀才コースをまっしぐらに進んでいたら行くとして可ならざるなき有能無類の幕僚に成長したことだろう」と。
手紙から察するに、軍人に見切りをつけ革命家になろうと決心したに違いない。「俺はその機械を動かして・・・・」は、後に西田と隊付青年将校の間にあって動いていく。二・二六事件に到るまでの陰なる重要な人物なのだ。
UNQTE

以上が、渋川明雄さんの投稿です。水上さんの場合、このようなご自分で書かれたものなどが少なくて、手がかりが少なくて困っています。

(今泉章利)

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)
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お願い 注の意味です。

2009年04月26日 | 今泉章利
皆様

私のこのブログの最後には次のような注があります。

注:このブログのコピー、転載などは著作者の書面による同意なしには行えません。(すべての記事に適用されます)

これは、ブログなので、正確性を欠いたり、思い違いがあったり、単なる書き違いや打ち間違えなどがあって、もし、何の注意もなく次から次へとコピーが広がると間違えが、インターネット感染してしまう恐れがあるのを防ぐこともその目的のひとつです。
すごい人になると、プログラムで自動的に取り込んでこのブログを「公開」しているかたもおられます。考え方は、まだまだ練られていないし、後で読んでおかしいものは都度修正しています。なるべくアップデートするようにしたいのですが、混乱を生ずるので、その日付のままで修正しているのもあります。

やはりそのうち何かの形にしたいと思いますので、この注のとおり、お使いになるときはご一報いただければと思います。なにとぞ御理解、ご協力方、宜しくお願い申し上げます。

(今泉章利)

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ひろ坊様へ 車力村小作争議と政治、そして国民 (追加)

2009年04月26日 | 今泉章利
追加です。

寝るとき、あーーあれを書いていなかったと思いましたが、とてもしんどかったので寝ました。追加します。

まず、この組合名は、タイトルには書きましたが、「車力村小作農民組合」だったようです。そして、車力村の人たちは、あまり権力に屈せず、自ら行動を起こすということで注目されていたのかもしれません。。

もう一つは、農民救済の問題です。これも詳しく調べなければなりませんが、私の理解のポイントは、次の三点です。
(1)農民救済法は、いくつか出されたと思います。しかし、当時の議会のシステムは、現在の日本憲法と異なり、衆議院も貴族院も同じ力を持っていたということです。つまり、両院の賛成がなければ、廃案になります。衆議院から送られてきた法律案を、貴族院が修正して送り返したら、その修正を認めない限り、法案は成立しません。農民救済法は何回か廃案となり、修正を受け、骨抜きになったと理解しています。詳しくは、さらに勉強したいと思います。

(参考)当時の憲法のもとでは、どんなに衆議院で頑張っても、貴族院との、あるいは、枢密院との妥協なくしては、法律の成立は不可能でした。主権者は天皇であり、もちろん、明治憲法を変えることは思いもよらないことです。明治憲法の規定においては、衆議院を除いて国民の意思が反映される所はほとんどなかったと理解しております。地方知事は、政府の任命制ですし、政党は、伊藤博文が作った政友会が基本になっております。そして選挙は、知事のもと地方官僚や警察を実際の手先に使った内務大臣、そして警保局長などが、時の政権の意向を受けて、選挙妨害を行うのですから大変です。話すと長くなるのですが、要は、政友会(正確には立憲政友会)も立憲民政党も等しく、中央官僚、地方利権者たちと複雑で密接な関係があり、明治憲法における国民は、本当に限りなく無力に近い存在でありました。

(2)救済の実施に当たっても問題がありました。小作人に対する救済米に対し利子をとるというものです。昨日述べたあの小作料にこれが上乗せされたらいったい小作人はどのように生きてゆくのでしょうか。しかしそれよりも、もっと激しく彼らを傷つけたものは、小作人は、流れもので何をしでかすか分からない人間だから利子をとるのが当然だというような議論にあったということのようです。これは、小作人の方たちの人間性を否定されたということです。どんなにお辛かったでしょうか。そして話が複雑になるのは、ここに金貸しが登場するのです。あるいは、地主が金貸しになるのです。はじめはいいよ いいよと言っておいて ある時から変身し 借金の返済を迫るのです。裁判所からの取り立てに「あとはカマと仏壇しかない。これを取り上げられたら首をくくるしかない。」と相談に駆け込んだという多くの人たちのことが、淡谷悠蔵氏の本に書いてあります。また、娘売りという話も起こってくるのです。この話も別の機会にしましょう。

(3)最後の、そして最大の問題は、国民、特にインテリの無関心でした。
朝日新聞の荒垣編集局長が現地に行っての全面的な報道でも、都会の、たとえば東京では「かわいそうに」というような目線を下に向けた「同情」しかありませんでした。せいぜい学生が募金箱を持つようなものでした。淡谷さんが、市川房枝に頼まれて向かった日比谷公園のしゃれたレストランでは、ご立派な婦人活動家たちは、一瞥しただけでした。(それどころか淡谷さんは乞食と間違えられそうになったりして、場違いのご自分を感じられたのでした。)だれも、抜本的な問題に触れようとしない、理解していない、触れられないといったほうがいいのでしょうか。。よくわかりませんが、、東北の農民の問題はどこかの出来事でした。私の知っている千葉県の手賀沼の周りの農民たちは冷害もなく、誰も無関心であったという話をその地のお寺の住職から聞きました。

以前、菊池寛の二・二六事件事件当時の日記を、このブログにのせたことがありますが、まったく認識も理解もしていない、それどころか、雑誌の連載が気になってしょうがないというような感覚だったのをご記憶の方もおられると思います。当時東大の学生だった丸山真男の事件の日を回顧する文の中にも、まるで、そのようなもの、つまり、日本の小作人を柱にした農業システムが危機にひんしていることに対する認識をまるで持っていなかったのでした。憲法のシステムが大問題を起こしていたのです。その点、北一輝は違いました。もはや日本を変えるためには、明治憲法体制を崩す以外にないということで、国家改造法案を書いたのです。

多くの人たちは様々なことから国家の危機を感じていましたが、若き陸軍将校たちはこの農民問題を肌身に感じのだと思います。そして、このような政治がなぜ放置されているのだ。という青年の正義感はいやがうえにも高まってゆくのです。そして詳しくはわからないが、明治憲法の中では絶対的な限界があることを敏感に感じ取っていたような気がします。

備考:ひとり貧乏人の中で育ち貧乏の辛惨を知っていた吉川英治は、本当に貧乏で現場で死にかけて、人に騙されて、それでも人がよくて、努力家で人気作家になった人でしたが、、事件を知るや雪の中の蹶起した兵隊にキャラメルを配ったという話をきいています。

(今泉章利)

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渋川明雄様からの投稿 渋川善助様のこと(その1)

2009年04月26日 | 今泉章利
皆様

4月14日、渋川明雄様から、渋川善助さまの貴重な記事が送られてきました。このあとさらに(その2)が続く予定です。以下は、明雄様の記事です。

QTE
明治38年12月9日福島県若松市七日町61番地にて、父利吉、母ヨシの長男として生まれた。当時渋川家は家長である祖父渋川善太郎のもとに海産物問屋を営んでいた。
会津若松市立第二尋常小学校卒業、福島県立会津中学校第二学年を修業、小中学校を首席で通した。
大正9年、軍人の道を志向して家業を弟達に託し、仙台地方幼年学校に入学。
同校を経て陸軍士官学校予科に入学。予科入学式当日、入学宣誓文を朗読する。
大正13年11月21日兵科発表があり、志願通り歩兵となる。この日父利吉宛の手紙。
「今日です。愈々兵科発表がありました。今講堂から帰って来た所です。志願通りに歩兵になりましたから御安心下さい。本たうの軍人になる第一歩です。全く愉快です。しかし叶はないで飛んだ人々は実際気の毒です。何人か泣いていました。唇を噛みしめて、目に涙を一杯に溜めて居る人の顔みては嬉しさうな色も出しかねます。いづれ後から色々申上げます。今日は気が立って居ますからこれで失礼します。皆様によろしく」
大正14年3月14日、陸軍士官学校予科を326人中2番の成績で卒業。卒業時には恩賜の銀時計を拝受し、裕仁親王の御臨席を仰ぎ、御前講演を行う。題は「日露戦役ノ世界的影響」。その要旨は、
「日露戦役は、国内のみならず東洋、西洋諸国に対し政治、外交、思想、軍事上に多大な影響を与えた。
第一は、日本は立憲国であるが日露戦役の勝利による影響で随所に立憲運動の流行が見られた。
第二は、日露戦役は亜細亜解放戦役であり国民的運動を深めた。
第三は、世界外交上に大きく影響を及ぼした。
第四は、国民が熱誠なる忠義心をもって統治者に仕えれば戦争に勝利し健全な国家を作ることができることを知らしめた。
今や日本の思想界は憂慮すべきものがあるが、日本国民が真剣味をもって君国の為に戦えば感慨の情、切なるものがある・・・と結ばれている」
陸軍士官学校予科卒業後、士官候補生として郷土の若松歩兵第二九連隊に配属される。相澤三郎中佐、一期後輩の竹嶌継夫中尉も同連隊出身。二・二六事件で刑死後、菩提寺の本覚寺に渋川、竹嶌の位牌が並べて置かれた。
歩二九に於ける教官は小野寺信少佐で、同人の「偉大なる精神に感化を受けるところ大」であった。
UNQTE

大変によく分かる内容です。普通のものは、みんな、二次資料の写し書きなので、なんだか熱が入らないのですが、お読みいただいてこれがそうでないことがよくお分かりいただけると思います。お手紙のこと、後の昭和天皇の御前での講演、なにか運命を感じます。心が熱くなるのを禁じ得ません。ありがとうございました。次を期待します。

(今泉章利)

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