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◎末松太平事務所(二・二六事件異聞)◎ 

末松太平(1905~1993)。
陸軍士官学校(39期)卒。陸軍大尉。二・二六事件に連座。禁錮4年&免官。

御礼 

2009年04月25日 | 今泉章利
なんだか 恥ずかしいですが、4月21日に 一挙に記事を4本のせたからか、よくわかりませんが、121万7千275ブログ中、6千947番目のアクセスとの報告がGOOからありました。読んでくださった方、本当にありがとうございました。忙しいなんてごめんなさい。頑張ります。

(今泉章利拝)
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ひろ坊さまへ

2009年04月23日 | 今泉章利
ひろ坊さま

コメントありがとうございました。いま、めちゃくちゃ忙しくてもう少し待って下さい。これは、末松太平先生が、小生にお教えくださったものです。私もひろ坊さまに質問がありますしありがたい限りです。以下は、ひろ坊さまの4月15日に頂いたコメントです。「突然にすいません」と副題がありました。

車力村出身の者なんですが『二・二六事件の出発点』とありますが、どういう事なんでしょうか?
よろしければ教えていただけたらと思います。
ちなみに、私も田舎に田畑を残して今は都会に住んでいる一人です。

以上がひろ坊様のコメントでした。このような質問本当にうれしい限りです。すぐに答えられずにごめんなさい。 恐縮ながらもう少しお待ちくださいませ。

(今泉章利)

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渋川明雄様の「研究テーマ」(その2)

2009年04月22日 | 今泉章利
以下は、4月11日に渋川さんからお送りいただいたものです。

私の研究テーマは、「澁川善助と昭和維新運動そして二・二六事件」です。
二・二六事件について善助さんは、憲兵による第一回訊問調書で、「今度の事でも、其遠因近因とか言って分けて考えるべきものではありません。斯くの如く分けて考えるのは、第三者たる歴史家の態度でありまして、当事者たる私には説明の出来ないものであります。相澤中佐が永田中将を刺殺して後、台湾に行くと云ったのは全くこれと同じで絶対の境地であります」と言います。
また、池田俊彦さんは「生きている二・二六」の序章で「いま現代史を研究する人々、歴史家や評論家は、明治以来、今日に到る日本の歩んできた道を様々な角度から研究し、これに対して意義づけをしている。そして大東亜戦争を日本を亡ぼした悪として意義づけ、二・二六事件も、戦争に到る一段階として、その歴史的意味を見出そうとしている。これ等の人々の著書は、事件に悪意を抱く人も、好意を持つ人も、知り得る限りの資料を集めて様々な角度から論評しているけれども、真の歴史的意義を理解しようとせず、また渦中の人々の個々の真情を汲みとっていないように思われる。事実に対する分析も多くは表面的で、内面の肝心な観察に欠けているように思われてならない。
憲兵隊が作成したと称せられる裁判の法廷の記録も、事実ではあっても単に事実の羅列であって、陳述の真意を理解していないようである。
私はいままでに書かれたものが間違っているなどと言う気持ちは毛頭ない。唯、私の事件に対する感触は若干違ったものがあるが、それは私があの人達と生命をかけてやった事件であり、是非善悪を超えた魂の結びつきがあるからである。
老境にさしかかったいま、私は熱い思いを、あの過ぎ去った日々に投げかけている」と、言います。
二人の言っていることを重ね合わせると、遠因近因とか分けて考えるのではなく、表面的な事実分析で終わることなく、内面を観察し、個々の真情を汲みとることによって、是非善悪を超えた絶対の境地での魂の結びつきを分析していく。ということになると思うが、その中の要素、主観と客観、同調、統合、整合。
善助さん自身、説明のできないものと言っているから、難しいなあ・・・・。
竹山護夫氏の論文、興味ありますので早速「史学雑誌」第78編第6号、7号、第82編第1号、「日本のファシズム」「近代日本政治思想史」の5冊を購入発注いたしました。届いたらじっくり読みたいと思います。が、今泉さんと違い、もともと理解力に乏しいところに年齢を重ねて低下してきたので、本についていけるかどうか。

以上渋川様の4月11日の投稿でした。
(今泉章利)

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渋川明雄様の 「研究テーマ」(その1)

2009年04月21日 | 今泉章利
私が3月27日に、渋川明雄様に研究テーマをお教えいただきたいとお願いしましたら、次のようなコメントを頂きました。以下は渋川明雄様のコメントです。

研究というほどのことはありませんが、これは自己啓発のためです。
私のテーマは、「澁川善助と昭和維新運動」です。
昭和初期激動の時期に青春のエネルギーを、昭和維新運動に心血を注いだ善助さんの「生きざま」を直接関係者の証言を中心に浮き彫りにし、善助さんの叫びの中から日本人である自分の中に何かが欠け、また死滅してしまっている精神を覚醒させ、決して民族・国粋主義ではなく、グローバルなる現代に見合った「日本精神」を模索しようというものです。(うまく言えないのでちょっと変かな)善助さんについて語られたものは結構多くその資料を400字詰原稿用紙に書き写したら1000枚近くになりました。まだ増えると思います。
善助さんは同志の間では「昭和の高山彦九郎」と言われていたようで、中橋照夫(明大生)は「昭和の高山彦九郎との評判どおりの人物。激しい気性の持ち主で一方の雄ではあるが、総大将ではない」(二・二六事件第一回公判)と善助さんについて言っています。
高山彦九郎は、延享四年(1747年)上野国に生まれ、寛政五年(1793年)に割腹自殺した「尊皇即討幕」の大誓願を開眼し、皇政復古による維新翼賛の運動を礎石した人物(「高山彦九郎」唐澤道隆著、昭和18年)で、五・一五事件関係者の三上卓は「烈々たる気宇、不抜の信念、山の如き風格、火のような意志、それに手放しで泣ける大丈夫の涙」(「高山彦九郎」三上卓著、昭和15年)と高山彦九郎を評しています。
また、よく坐禅をしていたので「お上人」との愛称もあり(三角友幾手記)とても世話好きであったという一面もあります。
善助さんを知るとまさに高山彦九郎と重なってきます。
真剣に生きた善助さん。七生報国。今もどこかで闘っているんでしょうね。
略歴は次回にて。
(以上、渋川明雄様のコメントでした。)

コメントに書かれている「1000ページにわたる渋川さんにかかる記述」については、私は一度拝見していますが、しかも几帳面な字で、鉛筆で書き写しておられました。そのお気持ちは、写経にも通づるものあり。の感を深くいたしました。ワープロやいい加減な理解でとりあえず行こうというような小生、誠に、忸怩たるものあり、汗顔のいたりなどであります。

(今泉章利)

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明治憲法下における政治機関と憲法外の政治機関

2009年04月21日 | 今泉章利
近代史を理解しようとするときに、小生を悩ませるものは、(1)明治憲法のもとにあった国家機関(憲法的機関)と、(2)憲法における主権者たる天皇への輔弼ということで設けられた国家機関(憲法外機関)の両方が存在することである。
おまけに、それぞれの関係が複雑だったり議会の関係も今のそれと違っていたりするので、勉強ノートとしてメモしたい。なお、天皇は、主権者であり、統治権の総攬者(一手に掌握して治める)であられる。(このメモは長谷川正安氏の著作などからであるが、いろいろと議論がある筈で、特に、伊藤博文を参考に、今後、もう少し自分なりに整理したい。)

(1)明治憲法のもとにあった国家機関(憲法的機関)
①全面的規定
・裁判所(天皇の名による裁判)
・帝国議会(立法権の協賛) 貴族院と衆議院
②部分的規定
・内閣(天皇の国務の輔弼)
・枢密院(天皇に対する重要国務の諮詢)

(2)憲法における天皇への輔弼ということで設けられた国家機関(憲法外機関)
①元老(内閣総理大臣を選出して天皇に奏請)
②軍事参議官
③陸軍参謀本部(統帥権の輔弼)
④海軍令部(同上)
⑤内大臣(常時輔弼)
⑥宮内大臣(皇室事務の輔弼)

自分は、宮内大臣と内大臣をよく理解していなかった。内閣総理大臣の職務権限がどのように明治憲法に規定されているのか。。調べたい。

二・二六事件の蹶起趣意書で「所謂 元老、重臣、軍閥、財界、官僚、政党は此の国体破壊の元凶なり。」とあるが、この意味を、実際の機構とその人間とをあてはめて理解したいのである。恥ずかしくも遅きに失する感はあるが。

(今泉章利)

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崩壊期の政党政治

2009年04月21日 | 今泉章利
馬場恒吾というジャーナリストが、政党の実体は、会社と同じく資本金の大きさによる。主義や政策は第二義的の重要さしかない といった。
そして政治の費用は際限なくふくらみ、買収などで選挙に勝っていた代議士たちはいつしか没落崩壊するのだ と述べている。

昭和二年の事である。

1000万人の人々は、1年半まえに、ようやく勝ち得た普通選挙権を初めて、衆議院選挙で実施すべく若槻内閣が解散するのを待っていたのに、憲政会の若槻は、加藤高明なきあと頼みとしていた鉄道省の金づるが、スキャンダルでダメになったので、金のめどがたたず、結局、解散はやめた。
かわりに、政友本党の床次(とこなみ)との談合によって政権のたらいが回り始めたのであった。

備考:このたらいまわしの技は、いまでも小沢や、自民党名人によって引き継がれている。

水上さんはこの年、函館商船学校を卒業していろいろと考えていた時期かもしれない。

(今泉章利)

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テポドン追加 原爆、水爆のこと

2009年04月21日 | 今泉章利
追加です。

原爆、水爆についてついでだから言っておきたいと思います。一般に、原子力爆弾のことを知っている人は言わない。言っている人は、知らない。。。といわれています。もちろん私は後者です。


で、テポドンの話ですけど、これは核弾頭を運ぶ輸送機械ですから、爆弾は思いのままに、日本でもどこでも運んで爆発させ、人を殺すことができます。だから、このミサイルはどんな名前がついたって、北が原爆事件をやり、ミサイルの実験までやっているのは明らかに核戦争を考えているということです。北がどんな言い訳をしても、明白なことで、アメリカもロシアも中国もフランスも英国も および非常任理事国も、ぜんぶが認めたということです!!去年の12月のことです。

ミサイルが運ぶのは、核弾頭です。

広島、長崎のときの重量は重さが約4トンでした。ずいぶん重い爆弾で、これは飛行機、つまり、B29でやっと運んで落としたのです。

広島に落とされた爆発力はTNT火薬換算で13キロトン つまり13000トンの爆弾で14万人が亡くなりました。
あの昭和20年3月10日、一夜にして12万人が亡くなられた東京大空襲で使った爆弾が2000トン(2キロトン)ですが、広島の原爆は爆発力の点では、その東京大空襲の7倍のものでした。

今の原爆、水爆の重さは極秘ですが、その一番小さいもので、70キログラム程度といわれております。その爆発力は広島の約半分。大型の戦車から打つのだそうです。

いま、大陸間弾道ミサイルに乗せている水爆のサイズは、TNT火薬換算で475キロトンの第三世代といわれるものす。つまり 広島の40倍の爆発力を持つものです。(重量はミサイルの大きさにも関係するので極秘とされています。)大型ミサイルは一概には言えませんが運ぶものは4から8トンぐらいなものでしょうか。 広島の被害から計算すると600万人が一挙に死ぬことになります。これが、アメリカに5000発、ロシアに5000発、英国に200発、フランスに550発、中国に450発あるのです。単純計算すれば、6000億人が死ぬことになります。(現在世界の人口は、約70億人だそうです。)

SALT2でも他の細かい交渉でも、その後、核軍縮は全く進んでいません。だから、最近、オバマ大統領がが、メドベーチェフ大統領とこの話をしたことはすごいことなのです。

IAEAの事務局次長をめぐって、日本の天野大使が立候補して落選、再立候補すると新聞で報道されていますが、この複雑で、人類が抱えている最大問題のひとつを如何に解決するか彼の見解が見えてこないと批判されています。普通、国際会議で議論している人たち(日本人はなぜか、小生は一人も知りません、、)は、核軍縮に関して、相当勉強していて、多くの本や論文を発表しています。

天野さんがどぶ板選挙で戦うとか、外務省が何とか事務局長のイスをとって日本の国際間でのプレゼンスを高めたいとかいう発想や、外務省のホームぺエージにあるように、非核三原則が日本の方針ですーなどというぐらいでは、嘘をつきながら爆弾を作り、大陸間弾道級のミサイルを発射している国に、いうことを聞かせることができるはずがありません。それどころか、今、原発を作りたいというアフリカなどの国は40カ国以上もあります。その問題をどのような方程式で解いてくのか。何が外生変数で、何が内生変数で、求められるものは、微分値なのか積分値なのか。ターンパイクはあるのか。それが問われているのだと思います。

(今泉章利)

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唯物史観の二・二六事件をめぐって

2009年04月19日 | 今泉章利
前回書いたように、竹山護夫氏は、唯物史観を静的分析と言われている。読者の中にひょっとして動的分析でないのか、、と思った方もいるかもしれないが、竹山氏は「既に論理化され、整合統一されたあまりに純粋度の高い原理復帰主義思想をそのまま眺めて、そこから二・二六事件を解釈する」のは静態的な分析であると述べている。唯物史観の人にとっては厳しい批判である。

正直に言って、唯物史観の二・二六事件とはどんなものか関心を持ったので、藤原彰氏の論文を入手しようとしたが果たせず、氏の「天皇制と軍隊」という本を買ってみたが、はじめに次に様なことが書かれていた。

「日本のファシズムにおいて、そのもっとも主要な推進力となり、最終的に政治権力を掌握したものは軍部であった。資本主義の全般的危機の段階における反革命の暴力として、ファシズムが出現するとき、軍部が主要な役割を演じた例は多いが、とりわけ日本においてそれは決定的意味をもっていた。」とあり「天皇制の支配機構の再編強化と軍部の政治的領土の拡大という形で、ファシズム支配が確立した。」

これは「日本の軍隊の革命と反革命」という1969年の一橋大学の「社会学研究」に掲載されたものだそうだが、にいきなり、何の説明も定義もなく、結論を断定しきったこのような文章をみて、私はヨハネの福音書の冒頭の文章を思い出した。そして、、政党のパンフレットを思い出した。
ものごとは、事実から出発しなければならない。しかし、この文章は、結論を書いているのである。藤原氏は、証明抜きに、この結論を事実とまず決めつけているようにも読める。そして、彼は、この結論に、事実を貼り付けようされているような気がする。なんだか、とてもさみしい思いがした。事実は、自らの主張に都合よく並べ替えたり切り貼りするものではない。人間は、歴史的な事実に対してもっと謙虚でなければならないと思う。竹山道雄氏の感慨もそのようなものであったのだろうと思った。

藤原彰氏は1922年生まれ。陸士出身で、終戦後東大の史学科を卒業。一橋大学で教えていた。南京事件の発言で有名な人である。その弟子は、いまおられるかどうかわからないが、神戸の大学の教授で、二・二六事件の専門家として有名である。先日、私が慰霊像を清掃しているとき、代々木のネームプレートをつけたおばさまたちをひきつれて、見学に来られたことがあった。あなたは誰だというので、小生の父のことを言ったら、それは陸士の何期ですねというので、いや違います。47期です。といったらバツが悪そうだったので、でもよくご存知ですねと付け加えたら、私は二・二六事件の専門家ですからと言っていた。そうしたら、その女性の人たちはその先生に、拍手をしていた。

(今泉章利)

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テポドンどう思いますか

2009年04月15日 | 今泉章利
今日、4月14日、国連安保理で北朝鮮のミサイルを非難する議長声明が採択された。でもいったいみんなどこまでわかっているのだろう。

少し前、テポドンどう思いますか?と若い人にいきなり聞かれた。続けて、国際法違反ですか。飛んだら日本の感情は変わると思いますか 迎撃ミサイルはどうなるのですか、、 と来た。むうっーー。
そりゃあおっこってきたら大問題だし、、変わると思うけど、、こちらのミサイルも当たるかどうか分からないし、、数秒の判断だから、、もごもごと答えたが、頭で整理できていない自分がもどかしかった。

以下は、自分なりに整理したとりあえずの答えと追加の情報である。

北朝鮮は、一般的に人工衛星打ち上げなのだから、国際法上何の間違いも落ち度もないと主張しているが、自分が10月に核実験を行い、世界の非難を受け、安保理は次の決議1718号を行った。

・北朝鮮が2006年10月9日に行った核実験を非難
・北朝鮮に対し、これ以上の核実験と弾道ミサイルの開発・発射の中止を要求
・北朝鮮に対し、核拡散防止条約と国際原子力機関(IAEA)への復帰を要求
・北朝鮮に対し、既存のあらゆる核計画と大量破壊兵器を、完全な、検証可能な、不可逆的な方法で放棄することを決定し、核不拡散防止条約とIAEAが定める条件に厳格に従って行動することを決定

(訳が正しいかよく分からないけど一応正として、、)

つまり、爆弾の実験とミサイルの開発。発射をやめろと、みんなで、つまり、アメリカもロシアも中国もフランスもイギリスの常任理事国も日本などの非常任理事国も公式に決議した。議長声明も公式の議決で、いずれも国際法的力を有する となっている。 言いかえれば この決議に逆らうやつは どんな目にあっても 知らないよという いわば お墨付きなのだ。なぜこんなにみんな怒ったかと言えば、大量殺りく兵器の開発の恐ろしさを知っているからだ。北のような国が、日本に脅威を与える。そしてもし、日本が本格的に開発し始めたら世界第二の日本の工業力をもってすれば数千発でも造ってしまうかもしれない。そして他もやり始めて、映画のように誰かがミサイルのボタンを押してしまったら、人類は絶滅するのだ。!だからバカなこと、おろかなこと、はやめろと言っているのである。

(今泉章利)

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内務省 週報

2009年04月13日 | 今泉章利
なかなか書けなくて申し訳ありません。

最近は、国会図書館で、内務省の週報を閲覧しています。

これは、二・二六事件以降の内務省の察保局が昭和12年までまとめたもので、昭和11年は、4月27日に第1号ができ、12月末までに36号と、特輯号などと区別が3冊で、39冊がまとめられているものです。また昭和12年には2月6日までに4冊がまとめられています。
もちろん出版する目的でなく、内務省が、その警察力で入手した情報のかなりのエッセンスをまとめたものですが、目的はあくまで、二・二六事件に対する国民の動向、第二の二・二六事件が発生するかを見極めることなどが主目的です。
具体的には、海軍、陸軍、元神兵隊員、遺族の動向、橋本欣五朗、真崎、大岸、頭山満など、、さらには直心道場などにも報告が及んでいます。

これは、勿論極秘だったので、幻の資料と言われていましたが、当時の察保局長の萱場軍蔵氏が国会図書館に寄贈されたもので、誠に貴重な内容になっています。

(今泉章利)

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御酒が飲めなくなりました。

2009年04月06日 | 今泉章利
硬い文章ばかり、、少々疲れました。歴史学なんて、というきでずっといたのですけれど、結構、やっぱり大変な社会なんですね。
身の丈に合わせた自分に尺度を移したいと思います。

話は変わりますが、最近、明かに体質が変わってきているような気がしています。肌の表面に潤いがなく、風呂を出てクリームでも塗らないとカサカサになってしまうという思いを初めてしました。かゆくなるのです。
それから、お酒を飲むと、夜中に頭が痛くなってくることです。なんとも情けないことなのですが、思い当たる節はあります。私は、お酒が飲めなかったのです。、40年近く前に会社に入った時には、お酒が飲めなくてほんとうに苦労しました。飲むと頭が痛くなったり、二日酔いになったり、苦しい思いをしました。それを会社の仕事だというわけで、一生懸命に飲むように努力をして、今日まで来たような気がします。。そして最近、急に、元に戻って、お酒がのめなくなったのかもしれません。。

(今泉章利)

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竹山護夫さんのこと 二・二六事件の分析に対する方法論

2009年04月06日 | 今泉章利
竹山道雄さんの息子さんである護夫さんは、昭和44年に「陸軍青年将校運動の展開と挫折」-天皇・国家・軍隊・自我の四つの象徴をめぐってーという論文を書いた。注目されるのは分析に対する方法論である。きわめてわかりにくい表現なのであるが、小生の理解した範囲では、要は、大きく分けて二つある。静的な分析と動的な分析である。

静的な分析にはさらに二つあり、ひとつは、唯物史観に基づいた分析方法である。即ち、この事件は、資本主義が崩壊する過程の一つで、日本のファシズムが生まれるための必然的な運動であり、この運動のために日本のファシズムが生まれたのである。というわれわれ世代がが教科書で教えられたもので、今もこの見方が支配的である。(教科書で習うがなんだかさっぱりわからない教えである。)もう一つは、主観的な見方に基づいた分析で、体験談などはこの部類に属する。貴重なものではあるが、この見方だと全体が見えてこない。

動的な分析にも二つある。ひとつは、事件を構成する要素をひとつひとつ時間とともに捉え分析し、さらに全体として組み上げて分析するという手法である。これは途方もない努力を必要とする。もう一つは、事件の中核をなした人たちの出発点、つまり、この運動にかかわったいきさつ、動機など、活動の起点になるものを研究するというものである。勿論、派閥といわれるものの動きなども研究しなければならないが、とりあえず、竹山護夫氏は、中核をなした人たちの原点を論文にまとめた。

この考えは、経済分析などでは当たり前であるのだが、歴史分析で言われてみると、哲学的なものも含めて、言われてみるとそうかと思う。

彼は、青年将校運動のルーツに、大岸頼好と西田税をのべて分析をはじめてゆく。内容は、興味のある方は、ちょっと覚悟して論文を見ていただきたいが、小生の頭の中にあったばらばらのものが、面白言うように整理されてゆく気がした。竹山氏は、末松先生のところでかなり教えてもらっており、それがこの論文をして明解ならしめている。

竹山護夫氏はその後、山梨大学の教授になられたが44歳で亡くなられた。
北一輝の研究、戦時内閣と軍部、大正期の政治思想と大杉栄 などが残されているが、上記論文は、彼が25歳のころ、つまり東大の修士課程の時に書いた論文である。末松先生は、その時、彼とどのような対応をされていたのだろうか。

(今泉章利)

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河野壽 被告人尋問調書(1)

2009年04月04日 | 今泉章利
以下は、昭和11年3月4日、河野大尉が三島憲兵分隊の宮内憲兵大尉の訊問に答えたものである。河野大尉は、この翌日の3月5日、自決を決行され、3月6日、亡くなられた。この記録は、東京地検に残された裁判記録からのものである。大変に貴重なものである。またこの記録が、水上さんたちの裁判で一切引用されていないことも異常である。この記録は、東京地検の裁判記録の資料の中に入っているのだから、水上さんたち被告に対しても指示すべきであった。この資料の中には、河野さんが、自分が火をつけろと命じたと述べている。

被告人尋問調書 被告人 河野壽

右の者に対する反乱被告事件に付き、昭和11年3月4日、東京第一衛戍病院熱海分院に於いて、本職は、右被告人に対し訊問をなすこと左の如し。

問 氏名、年齢、所属部隊、官等級、本籍、族称、出生地、住所は如何。

答 氏名は前述の通り。年齢は当30年、 所属部隊は 元飛行第12連隊所沢陸軍飛行学校に派遣中
官級等等は、元陸軍航空兵大尉(40期)
本籍は、福岡県福岡市新大工町112番地
族称は 福岡県士族
出生地は長崎県佐世保市福石町
住所は埼玉県所沢市御幸町733北條馥方

陸軍司法警察官は反乱被告事件につき訊問すべき旨を告げたり

(続く)
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竹山道雄さんのこと

2009年04月03日 | 今泉章利
最近すこし本が読めるようになってきた。つまり少し理解することができるようになってきたように感じる。還暦なのに人の書いた文章が読めないとしたら悲劇かもしれないが、ようやく読めるようになってきたことは、喜劇かもしれない。
父が赤線を引いて几帳面な書き込みがある本がある。竹山道雄さんが終戦後に書かれた「昭和の精神史」がそれである。冒頭、「大事件が起こってそれが終わると人はその責任者を暴きたて非難をする。そしてその大事件の被害のカタルシスとするのだが、それから、もう10年すると、今度は落ち着いて、あれはいったい何であったのか。とその真の原因を探そうとする。と何かに書いてあった。」。と書いてあった。正確な言葉は違うがそういうことを書いておられた。そして「その真の原因を語ることは、歴史家が時間をかけてゆっくりと答えを出すとおもうので、その歴史のことを自分が語るには些か無責任であるが、歴史家の答えも待っていられないので、メモと思ってこの本を書こうとおもう。その時代を生きた自分がその時に感じたことと今の歴史家の言っているものが明らかに違うことを感じるからである。」として、二・二六事件の当時、溜池で山王ホテルで、兵隊が機関銃の射撃体勢に入り、後ろに将校がピストルを振り上げて何か言っている。通りをはさんで、群衆がみまもり、その前を、軍人がバイクで走ってゆく。。それを見ながら坂をのぼり、ドイツ大使館の前に行くと、大使館員がputcheだったか、(つまり、反乱という意味だったか、)、言っていたと書いてあった。(すべて今、頭に残っているイメージで書いているので正確な言葉ではないが、こう言うことである)竹山道雄さんには、小生はもっと違うイメージを持っていたのだが、この一文を読んで、改めて関心を強く持ったのである。竹山氏は、今の、つまり戦後直後の歴史家(つまり、マルクス史観というか、、)が言っている戦前は、明らかに彼の体験した戦前と違っていると書いているのである。このような竹山氏の率直な感覚に小生は魅力を覚えた。そして、この本に赤線を引いている父を思って、心が和んで行く気がした。。 竹山氏は、鎌倉に住んでおられたのだろうと思う。それが証拠に、その御子息の竹山護夫氏は、わが小学校、つまり、鎌倉市立御成小学校の6年先輩で、栄光学園にすすまれたという。

(今泉章利)

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佐賀のお墓参り(その4) エピローグ

2009年03月31日 | 今泉章利
佐賀のお墓参り報告のエピローグである。

中橋さん、香田さん、中島さんのお墓をお参りしたが、栗原さんも佐賀なのである。栗原さんは、明治41年11月17日、島根県松江市に生まれたのだが、ご尊父の陸軍大佐・栗原勇さんは佐賀のご出身である。
世にいわれる佐賀四人男のいわれである。私は、今度で二度目の佐賀訪問なのだが、本当に澄み切った空のしたに広がる佐賀平野を見ながら、なにが、この方たちを動かしたのだろうと思わざるを得なかった。

事件が、起こった直後、ある批評家が、佐賀県の出身者は実に卑劣でこのような事件を起こしたと雑誌に書いた。そして父のことはさらにひどく、同じ県出身なのに、今まで何も知らなかったなどと嘘をついている卑怯者とののしっていた。今でもこの「有名な」批評家の書いたものを古本屋で見ると、むなしくも悲しい。

昭和11年7月27日、原田熊雄さんが警保局長の萱場軍蔵氏にあった時のことである。二・二六事件に同情的であった朝香の宮や東久邇殿下に対し、事件で勝利をおさめた統制派の陸軍からこれからは経済の統制をしなければならないという話ばかり聞いているので、これではいけないということで、結城大蔵大臣から経済一般の話を、高松宮御殿でしてもらったときの話を(原田さんが萱場さんから)聞いた後に、萱場警保局長の発言として、

「なほ、二・二六事件で処罰された者の中に佐賀出身の将校が四人おる。その四人を佐賀で合祀して招魂社でも造ってもらいたいといはんばかりのことであった。その運動は結局成り立たずに済んだけれどもやはり、政務次官が鍋島だけにいろんな運動がくる。」といふ話をしておった。(西園寺公と時局、第5巻119ページ)

との記述があった。この記述からだけでは誰の発言なのか詳細は分からぬが、処刑の終わった7月12日から二週間、宮中や高級官僚クラスの人々の心が醸し出す何とも言えない空気が伝わってくるようである。

(今泉章利)

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