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『史上最大の茶番』(仮題)

2015年10月22日 15時13分33秒 | 日記
9月3日に、北京天安門で、「中国人民抗日戦争及び世界反ファシスト勝利七十周年記念大会(原文:纪念中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年大会)」と題する式典が開かれ、国連事務総長である潘基文も参加した。しかし、日本は中国に負けてはいないし、中共は建国して66年しか経過していない。式典は事実に反していると言わざるを得ないが、そもそも「歴史」とは、勢力のある物がごり押しすれば、そうなる物だろうか。そんなはずはない。

・歴史の萌芽と焚書

五経の一つ『礼記(らいき)』は、漢の時代に書かれた儒者の礼に関する書物だが、その中に、為政者に関する記録の取り方を紹介した短い文章がある。古代の天子の側には史官が控えており、天子が「行動すれば左史がこれを記録し、発言すれば右史がこれを記録していた」、と言う物だ。(『礼記・玉藻』「動かば則ち左史之を書し、言へば則ち右史之を書す」)。他に、右史と右史と行動と発言が逆に書かれた資料もあるが、兎も角も、古代の天子の側には、記録を取る官吏がいた。

史官の矜恃は、事実を正確に記述する事。周代に既に正確に記録を残す習慣があり、更に、史官の記録した物が各国に保管されていたので、例えば、孔子は魯の記録を整理して『春秋』という歴史書を編纂し、秦の焚書坑儒で書物が失われたとは言え、司馬遷が『史記』を執筆する時にも、信頼に足る資料を集める事ができた。

『史記』は、史官が記録をする様を、次の様に紹介している。

趙の恵文王の十八年(前281年)に、秦は趙の石城を抜き、翌年、更に攻めたので、趙は二万の戦死者を出した。その後、秦王は趙に使者を出し、好(よしみ)を結びたいので、澠池(べんち、澠は、漢音べん・呉音めん)で会見をしようと申し入れた。しかし、恵文王は秦を恐れて行きたくないと言う。それを藺相如(りんしょうじょ)が説得して連れ出し、宴席に臨んだ時の事、

秦王が、宴酣(たけなわ)となった頃に言った、「私は窃(ひそ)かに、趙王が、音楽を好むと聞いている。瑟(しつ、大型の琴)を奏でてほしい」、と。趙王は瑟を奏でた。秦の御史が進み出て、「某年月日、秦王、趙王と会飲し、趙王をして瑟を鼓せしむ」と記録した。藺相如が進み出て、「趙王は窃かに、秦王が秦の音楽を奏でるのがうまいと聞いております。盆缻(ぼんふ、打楽器)を秦王に献上いたしますので、共に楽しみましょう」と。秦王は怒って許さない。かまわず、相如は進み出て缻(ふ)を差し出し、跪(ひざまづ)いて秦王に要求した。秦王は、缻を打つ事を承知しなかった。相如は、「五歩の近さでございます、この相如に、我が頸の血を大王に降り注がせる事をお許し頂きたい(自分の首を斬らせろとは、相手の首を斬らせろと同じ意)」と。左右にひかえる者は、相如を斬り殺そうとした。相如は、目を張って左右を怒鳴りつけた。左右の者は、その声にひるんだ。かくて秦王は、不機嫌ながら、趙王のために一回だけ缻を打った。相如は、振り返ると趙の御史を呼び出し、「某年月日、秦王、趙王の為めに缻を撃つ」と記録させた。(『史記会注考証・廉頗 藺相如伝』)

国の名誉をかけて、命懸けで残されるのが記録だ。権力者の都合でひらひらと記述が変わるのであれば、「温故知新」もへったくれもない。しかし、恥ずべき行為が多い国にとってはどうだろう。秦が行った「焚書」の理由として、司馬遷は次の様に述べる。

秦は既に天下統一の望みを果たした後、天下の詩経・書經を焼き捨てた。諸侯の史記(史官の記録)が最も焼かれたが、そこに秦を譏(そし)る記述があったからである。(『史記・六国表』秦既に意を得、天下の詩書を焼く、諸侯の史記尤(もっと)も甚だし、其の刺譏する所有るが為なり)

李斯(りし)の建言によって「焚書」が行われるのは、始皇帝の三十四年(前213年)の事。「坑儒」はその翌年。始皇帝は狂暴な手段で歴史の隠蔽を試み、二千二百年後の中共は、大掛かりな手段で歴史の捏造を試みている。

・二十三年前は親日

今から二十三年前の平成四年(92年)10月23日~28日、天皇陛下が中国を訪問された。天安門事件(89年)で欧米諸国から非難を受けていた中国に、日本が手を差しのべた形での御訪中で、その頃、大陸ではちょっとした親日ブームが起きていた。ご訪問の間中、人民日報には、連日のように如何に人民が陛下を歓迎しているかという内容の記事と、公用車を取り巻く黒山の人だかりの写真が掲載されていた。テレビでも、北京の天安門だったか、上海の南京路だったか、歓迎する人々で埋め尽くされる様子を放送していた。ほんの短期間だったが、中国全土が親日ムードに溢れていた。

その後、93年に江沢民が国家主席となり、94年村山内閣成立。95年5月3日、村山総理が江沢民国家主席と中南海で会見した。日本人に対する風向きが、おかしなことになるのは、それからだ。95年5月4日の「人民日報」第一面、中央の見出しに「江主席 村山首相と会見、双方は歴史に対して正しい態度をとり、将来に目を向ける事が両国の関係を押し進め更に発展させるとの意を示した」と書かれていた。

この会見から約一ヶ月後の、「人民日報」95年6月12日号に、初めて排日の記事が掲載される。三面、一番上に大きく「中国人民抗日戦争勝利五十周年を記念す」と書かれた特集記事は、新聞のまるまる一面を使って行われた連載物だ。この特集が、その後の反日運動に火を点けた物である事は言うまでもない。

さて、それから二十年後の今年、排日運動はすっかり育って、「中国人民抗日戦争及び世界反ファシスト勝利70周年記念大会」という式典を産み落とした。

・立法形式の記念日

「中国人民抗日戦争及び世界反ファシスト勝利70周年記念大会」は、習近平が2012年11月に、中共総書記・中央軍事委主席に就任して以来の、初めての大規模記念活動で、主な内容は閲兵式だ。今回は建国以来15回目の大型閲兵式となるが、これまでは全て国慶期間中に行われており、今回始めて国慶期間外に行われた。同時に、閲兵方式で始めて、抗日戦争及び第二次大戦の勝利を記念する内容となっている。

この、馬鹿な茶番劇が、最初に全人代を通過したのは2014年2月25日の事だ。会議の決定は、当日晩19時の「CCTV13」で放送され、また、「新華社」「人民日報」等で、全国に配信された。以下は、2月25日の『新聞聯播(れんぱ)』で放送された内容だ。

『我が国は立法形式で、中国人民抗日戦争勝利記念日を決定し 南京大犠牲者の国家的追悼日を設立する(我国将以立法形式确定中国人民抗日战争胜利纪念日 设立南京大屠杀死难者国家公祭日)』

2014年02月25日 19時

女性アンカー: 弊社の報道です。十二期全国人民代表大会常務委員会 第七次会議は、25日午後、全国人民代表大会の、中国人民抗日戦争勝利記念日を確定する決定草案、及び、南京大犠牲者の国家的追悼日を設立する決定草案に関して、審議を行いました。

(委員長会議(委員長会議の委員長は張徳江)の委託を受け、全人代常委会法制工作委員会主任 李適時は、この二つの決定草案について、会議で説明を行った。以下は、その説明内容。)

女性アンカーの説明の朗読:
中国人民抗日戦争勝利記念日確定の決定草案に関する説明には、次の様に指摘されている。中国人民の抗日戦争は、中国人民が日本の帝国主義の侵略に抵抗した正義の戦争であり、世界反ファシズム戦争の重要な一部分であり、近代以来、中国が外敵の侵入に反抗して、始めて完全な勝利を獲得した民族解放の戦争である。中国人民の抗日戦争の勝利は、中華民族の衰退から振興に向かう重要な転換点となり、民族の独立と人民の解放・新中国の建設を実現するための重要な基礎を打ち立て、世界各国が反ファシズム戦争の勝利を勝ち取り・世界平和の偉大な事業を勝ち取る為の巨大な貢献である。全人代常委会が特に決定を下し、立法形式で中国人民の抗日戦争勝利記念日を確定し、集中的に中国人民の意思を反映するのは、我々に歴史をしっかりと記憶させ、過去を忘れず、平和を大切にし、未来を創始する事が、十分必要だからである、と。

説明に強調されているのは、本決定を行う事は、中国人民が、抗日戦争中に勇敢に身を捧げた英霊と、中国人民のために抗日戦争に貢献したあらゆる人々を更に追想し、中国人民が、日本帝国主義の侵略に反抗した極めて苦しい闘争を銘記し、中国人民の抗日戦争が、世界反ファシズム戦争の重要な地位にある事を顕彰し、中国人民が決然として、国家の主権・領土の保全、及び、世界平和を守るという揺るぎない立場を表明し、愛国主義を中心(核心)にすえた偉大な民族精神を発揚し、全国の各族人民を激励し、中華民族の偉大な復興という中国の夢を実現するために、共に奮闘するためだ。記念日の日付の決定については、中央人民政府政務院及び国務院の抗戦勝利記念日に関する規定を、草案は引き続き使用して、9月3日を中国人民抗日戦争勝利記念日と決定する。

南京大犠牲者の国家的追悼日設立の決定草案に関する説明には、次の様に指摘されている。1937年12月13日、日本の侵略軍は中国の南京で、我が同胞に対して四十数日の長きにわたる、この世の物とは思われないほど悲惨な大を開始し、三十万以上が殺戮に遭い、国内外を震撼させた南京大事件を引き起こした。これは、公然と国際法に違反する暴虐きわまる行為であり、動かぬ証拠であり、第二次世界大戦後に設立された遠東国際軍事法廷、及び、南京審判戦犯軍事法廷(南京軍事法廷)の裁判で、つとに歴史の結論と法律の定論がある。南京大の犠牲者に、国家的追悼日を設立し、国家が追悼活動と関係の記念活動を行うのは、十分に必要な事である、と。

説明に強調されているのは、本決定を行う事は、南京大の犠牲者と、日本の帝国主義の侵略戦争期間中、日本の侵略者の殺戮に遭って亡くなったあらゆる同胞を哀悼し、日本の侵略者の戦争の罪業を暴き出し、侵略戦争が、中国人民と世界人民に与えた深い災難を記憶し、中国人民が侵略戦争に反対し・人類の尊厳を守り・世界平和を守る確たる立場を表明するためである。決定草案の12月13日を、南京大犠牲者の国家的追悼日とする。」(「CCTV13・新聞聯播」『我が国は立法形式で、中国人民抗日戦争勝利記念日を確定し 南京大犠牲者の国家的追悼日を設立する(我国将以立法形式确定中国人民抗日战争胜利纪念日 设立南京大屠杀死难者国家公祭日)』2014年2月25日 19時)

上記の報道からは、この計画が、序列3位の張徳江(全人代常務委員長、江沢民派)周辺から出てきた事が分かる。張徳江は、香港と深い関わりのある人物で、2014年2月頃、香港では、反北京系のメディアの編集長が職場を追われ暴徒に襲撃される事件が発生し、香港人の中共に対する不満が高まっていた。また、当時は公式発表前だったが、周永康の身柄が拘束され、息子夫妻も拘束されて、中華圏は周一族に関する腐敗の噂で持ちきりだった。3月1日には、雲南省の昆明駅で、刃物を持った集団が通行人らを無差別に襲撃するテロ事件が起きている。更に、昨年から今年にかけては、解放軍幹部の腐敗の問題や、株バブルの崩壊、天津を始めとする各地では、原因不明の大爆発も起きている。

私は、天安門事件後、中国人民が依然として民主化を求めていた時期に、江沢民は、排日愛国運動を進める事で、共産党崩壊の危険を回避したと考えている。だから、再び共産党が危機的状況に陥った時に、江沢民派の中から、排日愛国を盛り上げるような提案が出されるのは当然の事であると思う。まして、70周年ならば尚更だ。

・準備

以下は、今年に入って発表された準備に関する報道だ。

1月22日に、公安部副部長兼北京市公安局局長傅政華(ふせいか)が、北京で行われる閲兵式は、今年の安保工作の最優先課題である、と発表した。(「中国網」『香港メディア:中国は反ファシスト70周年閲兵を挙行する(港媒:中国将举行反法西斯70周年阅兵)』2015-01-23)

3月20日には、外交部報道官洪磊(こうらい)が、中国側が、第二次世界大戦の主要参戦国・アジア諸国とその他の地区の国家指導者・国連等の国際組織の責任者を、抗日戦争勝利及び世界反ファシスト戦争勝利70周年記念活動に招待した、と発表した。(「網易新聞」『抗戦勝利70周年に閲兵を行う(抗战胜利70周年将阅兵)』2015-03-21来源: 北京晨报)

5月10日、習近平のロシア訪問に随行し、9日に赤の広場で行われた軍事パレードにも出席した中央軍事委員会副主席 範長龍は、ロシア国防省セルゲイ・ショイグと会談し、ロシア軍の指導者と部隊が、9月に行われる70周年の慶典活動に参加する事を歓迎する、と述べた。(「国防部網」『範長龍 ロシアの国防部長と会談を行う(范长龙与俄罗斯国防部长举行会谈)』2015-05-11)

5月13日、国務院は、全国の人民を、中央及び各地区各部門で行われる記念活動に参加させるために、2015年9月3日を休日とする。民衆が休暇中に活動しやすいように、9月3日から5日までを三連休とし、9月3日(木曜)は祝日。4日(金曜)は振替休日、6日は(日曜)は出勤とする、と通達を出した。(「国務院」『国務院の中国人民抗日戦争及び世界反ファシスト戦争勝利70周年記念日の振替休日に関する通知(国务院关于中国人民抗日战争暨世界反法西斯战争胜利70周年纪念日调休放假的通知)』2015年5月13日)

6月23日、宣伝部副部長王世明が、国務院新聞弁公室主宰の記者会見の席上で、式典全体の流れを紹介した。王世明は、9月3日午前、中共中央・全人代常委会・国務院・全国政協・中央軍事委の名義で北京天安門広場で行われ、習近平はそこで重要講話を述べる、と発表した。この他、当日は北京で歓迎会、及び文芸晩餐会が開かれる。更に、中共中央・国務院・中央軍事委員会の名義で、今も健在の抗日戦士・老同志、抗戦将校或いはその遺族のために“中国人民抗日戦争勝利70周年”の記念章を、総書記習近平が手ずから授与する。この他、一連の第二次大戦勝利70周年を記念する舞台、及び、映像文芸作品と出版物を発行し、中国人民銀行は第二次大戦勝利70周年記念貨幣を発行し、国家郵政局も第二次大戦勝利70周年記念切手を発行する、と。(「中国網」『9月3日戦勝記念日閲兵の日程配布 始めて外国軍の参加を望む(9月3日胜利日阅兵安排发布 首邀外国军队参加)』2015-06-23)

昨年2月に全人代が発表したのは記念日だったが、9月3日が近づくにつれて、公安局・外交部・中央軍事委員会・国務院が計画に加わり、最終的に国家全体が参加していった様子が窺える。具体的な内容、例えば、閲兵式に外国の首脳や軍を招聘する事などは、恐らく、5月9日に行われたロシア赤の広場での閲兵式を模倣したのだ。ただ、暗殺の噂の絶えない習近平が、この閲兵式をどう考えていたのかについては疑問の残る所だ。


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