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新疆の黒髭(テロの淵源)

2014年05月12日 13時48分52秒 | 日記
2013年10月28日の北京長安街天安門広場でのジープの事故、今年3月1日21時頃に起きた、昆明駅前広場での、覆面暴徒による刺殺事件。4月30日の晩7時頃に発生したウルムチ南駅での爆発事件。中国政府は、これらの事件が全て、新疆の分離独立派によるテロと断定した。北京と昆明と新疆で起きた事件が、北京政府の言うように、同じ思想や背景があるのかは疑問だが、少なくとも、北京と新疆での事件が、ウイグル族と関わりのあることは間違いない。

何故、彼等はこの様な事件を起こすのだろう。

新中国誕生後、最初に軍を率いて新疆に入ったのは八老の一人である王震だ。ウイグル族の中共に対する憎悪は、ここから始まったと言われている。

「人民ネット」『髭の猛将王震』には、王震が新疆に進軍したときの様子を次のように伝えている。

「…(1949年)10月10日、二つの軍が同時に天山の南北を進軍していた。新疆に向かう部隊は王軍の指揮下にあり、風雪を冒し、山また山を越え、歩いて川を渡り、風にさらされ露に濡れて野宿し、昼夜兼行で進んだ。1950年1月20日、二つの軍は相継いで指定の地点に到着し、全面的に新疆各重要都市・軍事要地と千里のかなたの国境の守備を接収し、五星紅旗を天山・アルタイ山とパミール高原に挿し、円満に新疆への戦略的任務を完了した。

中国軍事史上、清朝の軍隊は新疆奪還に2年を費やし、1943年、国民党軍約7万の新疆への進軍には、準備に3年をかけ、更に、2年半かけて漸くダディ・カシュガル等の地に到達した。しかし、王震は7万の大軍を指揮し、僅か6ヶ月で全面的に新疆を接収し、軍事史上の奇跡を生みだし、また、彼の革命のための出征の歴史に、最も輝ける時代を描き出した。」(「人民網」『胡子猛将王震』2007年08月03日14:30)

王震の軍が新疆に入ったとき、新疆の人民は非常に歓迎した。当時、南疆のウイグル貴族が、特権の解消を不満に思い、土地のごろつき、宣教師と騒動を起こしたが、数十人の規模で、解放軍に対抗できる物ではなかった、と中共側は言う。しかし、華字紙や反体制側は、また違う事実を伝えている。

「大紀元」『当時 王震は新疆で殺人数知れず 今また王軍が一儲け』

大纪元2013年06月24日

「49年年末、中共元老の一人王震が、部隊を率いて新疆を占領した後、中共新疆軍政の最高権力を掌握し、大量に人を殺し、“※王黒髭”と呼ばれた。60年後、王震の息子王軍は、50億の莫大な資金を携え新疆に進軍し、新疆の石炭資源の大きなケーキを所有したが、同時に新疆の生態系に深刻な脅威を与える事となっている。目下、南泥湾(なんでいわん)に観光名所を作っているのも王軍の計画で、そこは嘗てその父がアヘンを植えた場所だ。

※原文は「王胡子」。胡子とは髭の事だが、馬賊や匪賊の意もある。


・“王黒髭が来た、彼の※息子も来た”

※王震(1908年4月11日~1993年3月12日)の家族は、妻の王季青との間に王兵・王軍・王之(おうし)という三人の息子がいる。王兵の息子が王京陽、王軍の娘が王京京、息子が王京軍、王之も一男一女がいる。また、王吉湘Clare Wangは王軍の孫娘。

《フィナンシャル・タイムズ》2007年7月の〈中信グループ元会長 王軍再登場 新たに会社を設立し50億を新疆に投入〉と題する中で、“中国天然”インベストメント・ホールディングス・リミテッド公司という名の企業が、新疆で大いに腕を振るい、現地メディアの報道によれば、この企業は新疆で大々的な投資、50億人民元にもおよぶ投入計画を宣言した。この“巨大バイヤー”の後ろ盾が、中信グループ第三期会長 王軍だ、と報じている。

2006年9月までの資料には、「中国天然」が、新疆トクスン露天掘り石炭鉱山、及び、トクスン露天掘り石炭鉱山運輸有限公司の80%の株を買い上げた事を、明らかに示している。

新疆は豊かな石炭資源を有している。「中国天然」の新疆での投資の主な目的は、石炭化学産業・石炭・電力、トクスン露天掘り石炭鉱山は、拡張を続ける三大石炭生産基地の一つだ。王軍主導の大規模な石炭鉱山の開発と建設により、新疆は深刻な環境危機に直面している。

※原文は「托克遜」地名。新疆ウイグルトルファン地区トクスン。


・王震は南泥湾で中共のためにアヘンを植えた

他に米国※ブルームバーグ社によれば、2012年12月下旬の、中共八大元老の家族の狂気じみた蓄財を公表した報道の中で、王震の二人の息子は、現在中国の西北にある一片の谷——南泥湾に、16億ドル相当の観光の名所を開発しようと計画している、と述べている。

中共は3、40年代の延安の時期、兵を募り馬を買うため、内戦のために準備を進めていた。中共は延安でアヘンの大生産運動を繰り広げた。南泥湾は、もともと延安地区唯一の原始林だったが、王震の359旅団によって、極めて野蛮で立ち後れた方法を用いて伐採し焼き払われた後、一面にアヘンが植えられた。

王震の359旅団は更に特別に職人を雇い、収穫したアヘンを加工して煙土を作り、その後、陝西・甘粛・寧夏の国境沿いの財政庁に送って保管し、随時、山西・河北等の地に輸送し、国民党軍の守備区であろうが、日本軍の占領区であろうが、金を払う物には誰であろうと売り捌いた。実のところ、日本軍の占領地域には進入が難しく、大部分の国境沿いの煙土は、すべて国民党の守備区域で、或いは民間に、或いは直接国民党の軍隊に売られた。

※このブログの『毛の戦友達の子孫 資本主義の新貴族となる』を参照されたし。


・王震は新疆で人を殺すこと麻の如く、“殺人王”と称された

1949年10月、王震は新疆に派遣され、新疆軍区司令員兼政委及び中共新疆分局書記に任ぜられ、10万の官兵を率いて新疆に進軍し、政治・文化の改造の紅色植民政策を行った。同時に、王震は新疆で極左的“鎮圧闘争”を提唱し、いわゆる《伊犁(イリ地名)で展開する放牧区の改革に関して》の計画を制定した。

《観察》の報道によれば、当時、新疆では狂気じみた極左的“鎮圧闘争”で、既に多くの死亡者を出し一千名を越える放牧主が逮捕されていた。王震は新疆での僅か数ヶ月間の大規模闘争で、殺害したい物をほとんど殺害していた。

当時、王震は大砲さえ用いてウイグル族の村を砲撃し、大量のウイグル人が惨殺された。後に、新疆人は王震のあだ名(“黒髭の王”又は“殺人王”)で、泣き騒ぐ子供を怖がらせ、子供が泣き騒ぐ度に、大人が怖がらせて“黒髭の王が来るよ!”と言うと、子供は怖がって、直ぐに泣き止むと言う。

最終的に、中共の指導者が顔を出して王震を北京に招き、その後王震は役職を解かれた。


・王軍は薄煕来が太子党の中での最大の支持者

王軍は、元中信グループと保利グループの、二つの中国最大の“国営企業帝国”の会長で、また、薄煕来が太子党の中で最大の支持者でもある。

2012年2月、王立軍・薄煕来の事件が勃発すると、多くのメディアが、王軍が積極的に“薄煕来の救援”活動に参与している、と報じている。報道によれば、王軍と中共の元老・新四軍の彭雪楓(ほうせつふう)将軍の子彭小楓が“手に手を取って連名で薄煕来を救援すべく、指導者に圧力を掛け”、中共中央に“正確に薄煕来問題を処理するよう”要求している、と報じている。

消息筋が明かした所では、2012年3月から、王軍等太子党及びその幕僚が、たびたび銀行業界の個人クラブで組織された秘密の集会で、収集・整理した習近平・温家宝に関する醜聞を根拠に、如何にこれらの資料をメディアに公表するかに至るまで、対策を協議している。

昨年ブルームバーグと《ニューヨークタイムズ》が発表した習近平の家族と温家宝の家族に関する汚職数億米ドルという報道は、背後に周永康・曽慶紅の参与があるが、王軍等の企てもあった。」(「大紀元」『当年王震在新疆杀人如麻 现王军又来捞钱了』2013年06月24日)

ここには、新疆と王震・王軍親子は深い関係があり、王軍と薄煕来・周永康は良い関係であり、反対に、習近平と王軍は敵対関係にある、という事が述べられている。更に、周永康・王軍等が、習近平の面目を潰すために、新疆で度々、騒動を起こしているという説もある。

例えば、2012年に中国全土で起きた、尖閣に関するデモでは、実際に、警察官がデモ隊を率いていたという報道もあり、また、先日ウルムチで起きた爆弾テロと発表された物は、習近平の新疆視察最終日に起こり、習近平本人を狙った物でもなければ、テロの首謀者から何かの発表があったわけでもないが、習近平は28日、カシュガル市公安局の派出所で、対テロ演習を視察しているので、その二日後のウルムチでのテロの発生は、指導者としての面目を潰す出来事であったに違いない。

その様な話を信じるか否かは別にして、もう少し、王震が新疆で行った蛮行について続けたい。次に紹介するのは、上記「大紀元」の中にも出てくる、牟伝珩(ぼうでんこう)の2009年7月の《観察》に掲載された小論だ。

『ウイグル族の漢に対する憎悪の淵源——“王震思想”では新疆の安定は困難』

「新疆ウルムチで5日(2009年7月5日のウイグル騒乱事件)に発生した大規模暴動について、中共中央政治局委員、新疆ウイグル自治区党委書記 王楽泉は、終了したばかりの自治区幹部会で、ウルムチ“7.5”事件での死亡人数は既に192人に上り、目下のところ、この事件の負傷者は1721人、うち179人が重傷、66人が危篤と発表した。今回の事件は他に、重大な物質的損害も生まれており、331の店舗が破壊され焼失し、破壊され火を付けられた車が672台。中国政府は、この事件は国内外の敵対勢力が共謀したものであると公言したが、しかし、その原因を捜せば、即ち、長期に渡ってほったらかしにされた漢・ウイグル両族の摩擦の総合的爆発、及び、中共の新疆政策と、大統一による“自治区”制度の失敗だ。

ここで言う“ウイグル族の漢族に対する憎悪”とは、新疆ウイグル族がひたすら漢政権を憎悪する感情を指している。実際、ウイグル族が漢政権を敵視するのには歴史がある。清朝政府から、官兵がウイグル族に対して強力な鎮圧を行って凡そ百年、新疆の動乱は途切れ途切れに続き、その間、国民政府を経て、中共建設に至り、新疆は最終的に中華人民共和国の一つの省となったが、未だ平穏ではない。なかでも、1949年10月、王震が10万の官兵を率いて新疆に進軍し、大いに漢軍の大生産活動が繰り広げられたが、当時、政府は新疆に対して大量の漢族の移住を行い、政治・文化を改造する紅色植民政策が行なわれた。とりわけ深刻だったのは、王震が新疆で極左的“鎮圧闘争”を提唱し、いわゆる《伊犁で展開する放牧区の改革に関して》の計画を制定し、ウイグル族の強烈な不満と反抗を引き起こした事だ。

資料によれば、1952年4月23日、王震によって支持されている中央新疆分局は、充分に極左的な《伊犁で展開する放牧区の改革に関して》の電報を中央西北局に打って、意見を求めた。しかし、王震は中央西北局の回答を持たず、勝手に着手した。5月7日、中央西北局からの返信は、明確に王震の所謂“放牧区改革”の意見を否定し、農業地域の土地の改革に集中し、遊牧区は暫く現状維持、半農半牧畜区は土地改革を行わず、租税引き下げの為の地主の鎮圧は行わぬ様に、と指示していた。しかし、王震は公然と西北局の意見を無視。丁度この頃、王の助け手、中央新疆分局委員に任ぜられた力群が南疆から帰り、王震と過激な思想で意気投合した。力群は地主の牧畜を没収するのみならず、宗教指導者の土地を没収し、宗教勢力の経済的基礎を徹底的に破壊する事を主張した。王震はそれを聞くと非常に喜び、直ぐさま“それはいい、西北局が我々の計画に同意しないのは、彼等が新疆の実情を理解していない証拠だ。もし、彼等が新疆に来て一定期間仕事をすれば、必ず我々の計画に同意するはずだ”と表明した。しかし、5月17日、中共中央は再び新疆分局に電報を打ち、中共中央西北局が5月7日に、新疆での若干の工作方針に対して出した意見は、正確である。新疆で社会改革を進めるには“充分に民族と宗教の特徴を評価し、意識的に民族と宗教に関して譲歩し、全ての社会改革の勝利と引き替えにする事が、全く必要なのだ”と指示してきた。しかし、王震は逆らい、張邦英に命じて《北疆放牧句の反革命を鎮圧するための指示に関して》を起草させた。

このため、1952年7月、西北局書記及び西北軍政委員会副主席に任ぜられた習仲勲(しゅうちゅうくん、習近平の父)は命を中央に受け、自ら新疆に赴き、そこで発生した民族紛糾事件を解決し、新疆の政治状況を安定させた。習仲勲は中央西北局の会議上で講話を発表し、彼は、内蒙古放牧区での経験と教訓を吸収するよう強調し、西北省区放牧区の工作方針を出し、放牧区では闘いは不要、階級を分類せず、と述べた。当時、習仲勲の講話は《新疆日報》上に掲載される予定で、もし、全文が掲載されれば、王震の“鎮圧”行動は否定される事になる。そこで、力群がまたも意見を出して“習書記の講話で、我々の新疆分局の指示と矛盾のある所は削除し、省略記号を打ちましょう。”王震は良い案と思い、かくて、彼等は習仲勲の講話と中央西北局の指示を放りだし、面従腹背、ほしいまま血腥い極左的“鎮圧闘争”を繰り広げた。当時、王震・力群は新疆の極左として、多くの人々の反感を引き起こし、彼等は中央と西北局の民族政策を執行しないので、北京に報告を送る事にした。これに対して、王震は、俺は歓迎する、俺が車でお前達を送ってやるよ、誰が民族政策を執行できるか見ものだ、と答えた。結局、車は荒れ地に到着し、これらの代表は全員車から降ろされ“解決”した。

中央西北局は問題を発見すると、習仲勲が直ぐさま新疆分局に放牧区での残酷な“鎮圧”を停止するよう要求した。しかし、王震・鄭力群率いる中央新疆分局は、放牧区“鎮圧”には充分な理由があり、西北局は新疆の実情を理解していないとの考えを堅持した。こうして、中央西北局と新疆分局の間の電話・電報のやりとりは続き、深刻な意見の対立が発生した。最終的に中央が表に立って新疆分局に電報を打ち、王震を北京に招いた。王震は北京で中共指導部の批判を浴び、その後職を解かれた。しかし、当時、新疆での狂気じみた極左的“鎮圧闘争”で、既に多くの死亡者と一千名を越す放牧主の逮捕者を出していた。王震は新疆での、僅か数ヶ月の大規模で残酷なウイグル族に対する鎮圧闘争で、殺したいと思う物は、殆ど殺していた。現地のウイグル族は王震に対しては、虎の話をするように顔色が変わる。現在に至るまで、新疆では子供を脅かすときには、泣くと、黒髭の王が来るよ!と言う。その後、中央は行き過ぎを正す命令を出したものの時既に遅く、ウイグル族の中共政権に対する恨みの種は、既に深く深く埋められていた。

実は、王震がいったい新疆でどれ程人を殺したのか、今に至るまで分からない。ネット上の多くの王震の新疆での大規模な殺生を讃える文章には、当時、もし、ウイグル族の村が、解放軍の戦士を殺害した反乱分子を匿えば、王震は直ぐさま全ての村を包囲するよう命じ、時間をくぎって解放軍を殺害した人物を引き出すよう命じ、さもなくば1人につき5人当該村の男を処刑した、以前、ある村が逮捕に抵抗したために、大砲できれいに砲撃された、と言う。王震は“謀反の鎮圧”に名を借りて、村々で人を殺し血を流し、かくして、※新疆現地の民族が、大量に現地人をした王震に対する感情は、恨み骨髄となった。現地人は言う、王震の“将軍”という名声は全く戦場で得た物ではない、彼は戦場では何の功績も残していない、それは新疆の“鎮圧”という残酷な運動の中でできた物だ、と。

※新疆は面積160数万km²で中国で最も広い省区。ウイグル・漢・カザフ・蒙古・回・キルギス・タジク・シベ・ウズベク・オロス・タタール・ダウール・満州等の民族が住んでいるが、70年代の資料によれば、ウイグル族が全体の三分の二を占めていた。

しかし、こうした対立を形成した物は、一部の新疆に入植した漢族の、王震の鎮圧は有効だという考え方だ。現在はまだ少数だが、極端な民主主義の漢族に至っては、ネットの世論を利用して、再び王震式の手法で新疆を統治する事を呼びかけている。この種の、互いに完全に相反する認識の対立が、これまでのウイグルと漢の衝突と分裂の、歴史的原因だ。このような民族間の人心の乖離が、実は民族独立の要求よりも、更に本質的な問題なのだ。

この他、中共のウイグル族の信仰するイスラム教に対する圧力と、伝統的な意識から来る大漢族主義とが絶え間なく新疆に広がり、並びに、既に確立している漢族とウイグル族の経済的格差と政治的格差。これら一連の問題に、ウイグル人は酷く民族の憂いを感じており、同時に民族間の対立感情を煽られている。我々は歴史資料を比較して考えてみると、1949年、中共の解放軍が新疆に入って採用した“生産建設兵団”様式及びその移民は、漢族の人口急増を引き起こし、現在は既にウイグル族を越えており、それに加えて、漢族が新疆の政治・経済資源の優位を独占し尽くしているので、ウイグル人の心には更に不満が募っているのだ。1955年、中共は省制を解消し、改めて大統一して“新疆ウイグル自治区”となり、60年代にはいると、新疆はその他の省・自治区と同様、経済の発展は遅れ、社会は貧困であった。中国経済が改革開放政策を実施して後、特に西部大開発の後は、漢族とウイグル族との間に巨大な経済利益・貧富の格差が出現した事により、民族の矛盾は日に日に際立って来ている。中国の政府統計局の発表した数字によれば、1949年、中華人民共和国建国の始めには、新疆地区のウイグル人口の比率は76%だった。改革開放後ウイグルの人口の新疆地区での比率は46%に下降した。しかし、漢人の比率は逆に1949年の6%から40%に上昇した。この様な人口の成長速度は、新疆の歴史上前例のない事だ。新疆の面積は江蘇省の60倍、或いは、台湾の40倍に相当し、しかも、豊富な天然資源を有しているとは言え、全国25の貧困県のうち、20県が新疆にある。

歴史上ウイグル族が新疆の人口では大多数を占めていたこともあり、当地のウイグル人の心中には、大なり小なりある種の“大ウイグル族思想”、“大トルコ主義思想”とも言うべき物が存在している。彼等は同様に漢族人をさげすんで “※Heitayi(塔伊)”と呼ぶ。今、新疆のウイグル族は現地で落ちぶれて“少数民族”となり、且つ大小の漢人官僚が現地で出世し財を築くのを目の当たりにしている。現地の国家機関は、国営企業と工場・学校の職務定員の、90%以上がその親族と漢族に占有されている。しかもウイグルとカザフ等の少数民族は取り残されて、いわゆる“自然経済”、即ち耕作・放牧と露天の焼き肉売り等の仕事に従事している。かくして、ウイグル人の“漢政権敵視”の感情は、代々受け継がれて行く。先頃、新疆で連続して発生した、多数の解放軍衛兵に対する奇襲事件は、ウイグル族の“漢政権への敵視”の感情が収まっていない事を示している。

※もとはロシア語のКитайで、中国・中国人の意のようだ。

メディアの報道によれば、目下“7.5”事件によって、当局は新疆でまた高圧的な政策を推進し、ウイグル人の抗議活動を防止するために、新疆の各地でウイグル人に対する監視と鎮圧を強化し、都市から農村まで武装人員を配備して至るところで巡回し、“大訪問”という名目で、各家庭・各住居に対して徹底的に調査を行っている。この他、当局は更に宗教活動を厳しく監視し、あらゆるモスクが正常な宗教活動を行うときには、政府から派遣された人物が全て監視するので、現地に非常な緊張をもたらしている。数年前と記憶しているが、中国政府はカシュガルの古いモスクの周囲の市場を取り壊し、ウイグル人を激怒させた。今年、全ての古い都市は既にすっかり破壊して更地にしたので、ウイグルの人々の怒りは一触即発と言える。

7月7日、党の機関誌人民日報は、きつい口調の評論員の文章《厳しく暴力犯罪を攻撃し、断固として社会の安定を守る》を発表した。文章は、“7.5”事件を“これは国外が指揮し、国内で行動した、計画的で組織的な殴打・破壊・略奪・焼き討ち事件だ。この様な理性を失った狂気じみた・人を激怒させる暴力行為は、決して容認する事はできない。我々は迅速に行動を起こし、力に頼み有力な措置と手段で、厳しく暴力犯罪を攻撃し、断固として社会の安定を守る”と称している。昨年のラサの“3.14”事件の時、政府はダライグループの策動であると指摘したが、国際社会の多方面から、何故ダライが一声掛けると百人が応じて、あれほど多くのチベット人がデモに出て不満を表明するのか、と質問が出た。今回の“7.5”事件で、政府はまたも“世界ウイグル会議”の煽動と指摘したが、ネットメディアからはより多くの、何故、ラビアが少し煽動すると、新疆でこれほど多くの群衆が暴動に参加するのか、との質問が出ている。

見たところ、“7.5”事件が発生したのは、問題は、やはり中国がこれまで一度も憲法の上での“民族の自治”を実行しなかった事に起因している。もとより、ウイグル族の中には極端な宗教勢力と民族独立の主張があるが、しかし、何故彼等がその様な情勢を形成したのかと言えば、その責任は、ただ政府の民族政策の失敗をもってのみ解釈できる。もし、政府が今後も引き続きウイグル族に対して、大鎮圧的“王震思想”を用いて、新疆の安定を手に入れようとするならば、全く反対の結果が生まれるだけで、必ずウイグル世界の更に多方面にわたる反抗を引き起こすに違いない!“民、死を畏れざれば、奈可ぞ死を以て之を懼れしめん(民が死を恐れない時に、どうして死で脅す事ができるだろう『老子』)”という道理は、まったく明白だ。」(《観察》『维族仇汉情结渊源——“王震思维”难求新疆稳定』2009年7月)

王震は、新疆での、彼等の言う所の封建地主と宗教指導者の大量虐殺により、劉少奇によって北京で開かれた新疆分局常務委の会議上、猛烈な批判を受け、会議は新疆分局の改革を宣言した。また、ウルムチで開かれた幹部会でも、批判の矛先は王震に集まった。しかし、王震は新疆から離れただけで、新疆での豪腕ぶりが、その後の人生に暗い影を落とした様子はない。建国当初、天安門に呼ばれず、遙か西の新疆に駐屯していた人物が、最終的には副主席にまで出世するのは、新疆平定が指導者の間で評価されての事に違いない。実際、軍事専門のポータルサイト「西陸軍事網」に掲載された文章には、王震の行動を次のように伝えている。

「…俗に、雷を落とすような強硬な手段を用いなければ、菩薩の心根は明らかにはならない(菩薩が敢えて悪党を殺して、善人を救った喩え)と言うが、まさに王震将軍の強硬な手段は、威嚇作用を起こし、その結果開放後の新疆は、80年代後期以前には、新疆では何の反乱も起きていない。死人もチベットよりも少ない。聞くところによれば、当時王震の名でウイグル族は泣く子を脅かし、王震が亡くなると、南疆の老チベットは爆竹を鳴らして喜んだと言う。しかし、強硬な手段もあるが穏やかな手段もあって、当時、解放軍は無償でウイグル人民に土地を開放し、教育し、婦女子は二度とターバンも男性に依存する生活も必要なくなり、一夫多妻制度の取り消しなどは、南疆の絶対多数の人民の支持を得ている。歴史がどの様に変化しても、王震将軍が新疆を平定した意義は、我々の大切な資源と後方の中国にとって、非常に偉大な事なのだ…。」(「西陸軍事網」『王震新疆剿匪记——“王胡子”铁腕治新疆』2013-10-23 18:39:55)

解放軍が無償で開放した土地は、もともとウイグル族の物であるし、解放軍の“生産建設兵団”は、資源のある場所を重点的に占領していると言われている。ターバンや一夫多妻は、ウイグルが決める事で、干渉であると言わざるを得ない。

王震が新疆を平定したことにより、中国は豊富な鉱物資源を手にすることに成功し、その資源は、漢族の生活を潤している。要するに、ウイグル族の暴力事件を云々する以前に、中国共産党内には、王震の推進した極左的「鎮圧」を高く評価する気風があるのだ。とすれば、新疆での暴力事件は、今後も止む可能性は少ないように思う。中共政府の言い方を借りるなら、テロは終わらないのだ。
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