それにしても、
多年に渡り、
学会の事務からも、おかしな物を送りつけてくるというのは、
どう考えても、
異常にしつこい、と言わざるを得ませんが、
それは、以下の理由に因るものです。
拝啓
大寒を迎えいよいよ冬将軍の到来です。
風邪など召されていらっしゃいませんか。
さて、突然この様なお手紙をお出ししまして、まことに失礼致します。
私は、大東文化大学の中国文学科を卒業した者で山と申します。
私がこうして筆を執りましたのは、
他でもない貴大学中国文学科で教授をされております中林史朗氏に関する事で、
申し上げたい事があるからです。
確か97年頃だと記憶していますが、
中林史朗氏のホームページに公開されている氏の業績の記述がおかしい事に気づきました。
具体例を挙げますと『陔餘叢考』に関する記述がおかしいのです。
中林氏の教授昇格の前後には、
ホームページ上に四十三巻の『陔餘叢考』に関する訓譯が挙げられていましたが、
その後全くなくなり、現在では巻四までとなっています。
『陔餘叢考(がいよそうこう)』とはの趙翼の書いた、
大まかに言えば歴史に関する考証集で、
一巻に約二十編前後の小論文が収められています。
そもそも、これは故原田種成先生が、
学生の訓読向上の為に、文中に引用されている書物を検証しながら、
課外活動として訓読されていたものです。
この書物を、先生は十数年かけて読み終えられました。
読書会が始まった頃には、
中林史朗氏もこの授業に参加していたと聞いています。
原田種成先生と中林さんとでは学力の差は雲泥です。
自分の課外授業で中林氏が自分の学生と読むのは勝手ですが、
原田先生の業績をあてにして、
教授昇格審査の場に自分の架空の業績を提出するなどと言う事があれば、
大学内規に違反するのは勿論のこと、
心情的にもとても許せるものではありません。
しかしながら、突然に一介の卒業生である私が、
貴大学の教授の業績についてこの様な事を言い出しても、
信用して頂けない事と思います。
そこで、私の言う事があながち出鱈目ではない事を理解していただくために、
ここでは先ず、
中林氏が大東文化大学中国文学科の『漢学会誌』誌上発表している
「『陔餘叢考』訓譯」を検証しながら、
私と『陔餘叢考』の関わり、及び、
中林氏の「『陔餘叢考』訓譯」がどの程度の物であるかを説明したいと思います。
尚、この平成十年三月刊行の『漢学会誌』誌上の「『陔餘叢考』訓譯(巻一之上)」のコピーは、
この手紙の末に添付いたしました。ご一読下さい。
(ここには「『陔餘叢考』訓譯(巻一之上)」は添付されていません)
先ず
「…巻三十八まで読み進めておられた。
所が原田博士は突然「おれはもう疲れたから後はお前が続けてくれ」と言われ…」
と書かれたところですが、
原田先生のご家族のお話ですと、
先生は亡くなる数日前まで本を手にしておられたと言うことですし、
その上、この文章に因れば、
何処かで『陔餘叢考』の出版のお話しをされていた、
しかも、この当時はお元気だったはずの先生が、
突然「おれはもう疲れたから後はお前が続けてくれ」と言うのは
充分変な話しです。
そもそも、私の記憶が正しければ、
原田先生は中林さんの学力を信用してはおられなかったように思います。
私は原田先生から中林氏を誉める言葉を一度も聞いた事がありませんし、
中林氏を大東に戻したのも原田先生ではありません。
また、中林氏との共著も一作品もないはずです。
ですから、原田先生が御自分の仕事を誰かにお任せになる事があったとしても、
中林氏に頼むとは思えません。
ですがそれよりも不思議な事があります。
私は、90年二月まで、
この原田先生の読書会に参加していました。
これは、三月で大学院を満期中退して教員を始めたため、
四月からは読書会に出席する事ができなくなったからです。
今、当時私が使っていた『陔餘叢考』のテキストを調べてみますと、
途中私が参加していない部分はあるものの、
四十一巻の『趙普遇合』の所まで読み進んでいます。
また、原田先生は当時日曜日、
高島平にある別宅で『四庫全書總目提要』の読書会を開いておられました。
こちらの読書会には、
私は四月以降も参加する事ができましたが、
その席上で「…陔餘叢考はいよいよ読み終えるよ。」と話しておられました。
ですから、原田先生は『陔餘叢考』を読了されていたはずです。
次に、
「数年前突然一面識もない人(東京か長野の人だったように記憶している)から電話を頂き…」の
何処の誰やら分からない
『陔餘叢考』の出版に異常に関心のある人の話しですが、
「…電話を中文の教員に転々と回したあげく…」とありますが、
この電話を中林氏の他に受けた先生がいらっしゃるのでしょうか。
そして、この様に『陔餘叢考』に興味を持っている人物とは
その後も連絡をとり続けているのでしょうか。
これほど大東文化を高く評価してくれている人物ならば匿名などにせず、
実名をあかした方が学生の励みにもなると思うのですが、
何か実名を書くことが出来ない理由でもあるのでしょうか。
…結論を言えば、その書きぶりから内容にいたるまで、
この「『陔餘叢考』訓譯」は至極いい加減で、
論文と言うよりは、空想小説に近い代物であると言わざるを得ません。
故原田種成先生の『陔餘叢考』の読書会に
最も長く出席していたのは他ならぬこの私です。
もし中林氏の頭の中に、
以前から教授昇格時に『陔餘叢考』に関する著作を使うという計画があったとすれば、
私の事は非常に邪魔であったはずです。
『陔餘叢考』は四十三巻。
教授昇格審査前の中林氏のホームページには、
四十三編の『陔餘叢考』に関する業績があり、
昇格直後にはたったの三編で、
四十編がどこかに消えてしまいました。
普通、業績というものは、
時間が経てば増えるものですが、
中林氏の業績は時間が経ったら減ってしまいました。
不思議でなりません。
…ここで再度、
平成十年三月に刊行された『漢学会誌』の
「『陔餘叢考』訓譯(巻一之上)」を見てみたいと思います。
序文の終わりの記載によって、
この文は「平成九年季秋」に「巻一之上」が書かれた事がわかります。
これは「平成十年三月」に『漢学会誌』上で発表されたものです。
『漢学会誌』は大東文化大学の中国文学科で昭和三十三年から刊行している雑誌です。
創刊当初の執筆陣は当時の日本を代表する学者ばかりです。
ここに、中林史朗のインチキ『陔餘叢考』が掲載されるなど恥ずかしいかぎりですが、
ここで問題にしたいのは、その内容ではありません。
その出版された年にあります。
つまり、平成十年は中林が教授に昇格した年であるという所です。
もし、この年、教授昇格のために教授会に提出された中林の業績一覧の中に、
「『陔餘叢考』訓譯」が一巻から四十三巻まで書かれていたとすると、
推薦した溝口教授には、
当然それが架空の業績である事が判っていたはずです。
『陔餘叢考』はの趙翼の書いた、
歴史に関する考証集とも言うべき書物で、
一巻に約二十編前後の小論文がおさめられています。
それを引用文献にあたりながら、
わずか半年で四十三巻全て読み終え、
更に出版することなど、門外漢が考えても不可能な事です。
とすれば、溝口雄三教授は必ず、
それがドラエモンのポケットから取り出された
「未来業績」とでもいうべき代物であった事を知っていたはずです。
これでは、中林教授と溝口教授の間に
何か密約があったのではないかと疑われても仕方ありません。
ところで、DB.netの2004年5月28日の項目に
「中文漢学会春期講演会開催」の記事を見つけました。
後輩の話しに因れば、中文はここ数年定員割れを起こしているそうです。
そこで「中国文学科」から「中国学科」に改名する事になったのでしょうか。
改名の記事でした。
それにしても、何でこんな古臭い名前にしたのでしょう?
これは六十年前の名前です。
1949年に設立された「日本中国学会」という学会名のパクリとしか思われません。
改名の目的は若者に分かりやすいという事のはずです。
もっと十八・九歳の若者に受ける名前にした方がよかったのではないでしょうか。
これならまだ「中国文学科」の方が現代風でしょう。ダッセー。
ところで、満江氏は大東の非常勤をしながら、
「大東の学生の学力は酷い」とか
「国士舘と大東と拓殖は植民地開拓のために作られた大学だ」とか言い歩いていました。
また、小川教授に最初にお会いしたときも
「…大東は駄目だ駄目だと言われているけれど…」と言われました。
誰と「駄目だ駄目だと」話していらっしゃるのでしょう?
また、中文の非常勤講師の芝波田好弘と話したときも
「…今、学生の学力が落ちて困っている」と言うようなことを言っていました。
どうも、大東中文の学生の学力が低いと嘆きあうのが、
この人達の流行のようになっているらしいのです。
私は以前、高校と予備校で講師をしていましたが、
自分の受け持っている生徒の学力が落ちたなどと漏らせば、
それは当然、自分の責任になりましたので、
こんな馬鹿な陰口は、とてもとても言う事ができませんでした。
それを中文では、決められた試験に通り、学費を払っている学生に対して、
その教員が無反省に陰口を言っているのです。
不思議なことだと言わざるを得ません。
教授会に提出する資料にはなあなあで架空の業績を提出し、
自分の商品とも言うべき大東中文の学生に対しては教員が声高に陰口を垂れ流している。
この様な状態が何年も続けば、
噂は直ぐに広まりますから、
子供の数が減少している昨今、
定員割れを起こすのは当然の事だと思います。
しかし、定員割れは学科の名前のせい。
学力が低いのは学生のせい。
教授はやりたい放題。
受験生受けをねらった改名は、お爺さんの考えた古臭い名前。
何のために改名するのでしょう。
ひょいっとして伝統を壊す事だけが目的とか?
老舗の蕎麦屋が手を抜いて味を落とし、
経営状態が悪くなると、
今度は「大衆食堂」と名前を変えてリニューアルオープン。
ハンバーグとラーメンも売り出して、
初めのうちは珍しさで客は増えたものの、
そのうち古くからのお馴染みさんにも愛想を尽かされ、
結局、店を閉める事になった…というような事はよくありますが、
卒業生としては、
自分の卒業した学部が無くなってしまうのではないかと非常に心配です。
大丈夫なのでしょうか?
さて、話しはそれてしまいましたが、
この手紙をしたためた主旨はこうです。
私の中林史朗氏の「『陔餘叢考』訓譯」に対する疑いは、
その後の中国文学科の対応から、既に確信にかわりつつあります。
そこで、「内部」の先生にご確認いただき、
出来るなら教授会に提出した資料を公開し、
内部から膿みを搾り出して頂きたく一筆申し上げます。
私は昨年「中国文学科」と「中国語科」の教職員公募に応募しました。
結果は見事に落選でした。
選に漏れた事は一方では残念ではありますが、
また一方では、母校の教員となるための要求の高さが頼もしくもあります。
ハードルが高いのは悪いことではありません。
これから中文全体が新規まき直しをはかるのであれば、
出来るだけ優秀な人材を求めるのは当然の事です。
しかし、優秀な人材を求めると同時に、
内部の膿みも搾り出すべきです。
四十項目以上の業績詐称をする教授に、
業績のことで落とされるのは、
私を含めて公募に応募した全員が不満に思うことでしょう。
業績詐称はするセクハラはする、
この様な人物を養護する必要はないはずです。
学部の名前まで変えるのですから、
業績詐称教授・セクハラ教授を残しておくのは変です。
大東文化は研究・教育の塲です。
大東文化を媚び・諂い・御為ごかしばかりが得意な奸佞のすみかにしていいはずはありません。
教授会・学内でのご提案宜しくお願いします。
敬具
平成十七年二月十日
要するに、私が恩師の読書会に出席し『陔餘叢考』に詳しい事が、
嫌がらせの原因です。
まあ、もともと日本人を排除したいという思いがあるのでしょうが、
業績詐称が原因で、
カルトを使って二十年以上ストーカー。
ストーカー、業績詐称、噂を流して日本人を攻撃する…というのは、
カルトの神様の教えのようです。
大東文化大学は
中林史朗を解任すべきです。
つきまとい、嫌がらせをし、業績詐称をする教授がいるのでは、
学生が危険です。
こんな教授のいる大学に、
自分の子供や孫をあげる事ができますか?
中林を辞職させることができないのであれば、
中国学科を廃止すべきです。
第一、カルトだらけでは、
ノーマルな学生が危険に晒されます。
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