前編でサッカーファンとラグビーファンの近親憎悪的な感情について書いた。でも、よくよく考えてみれば、コメントを頂いたWaratasさんの弁を待つまでもなく、ラグビーファンの自意識過剰という現実に辿り着く。それも、過去(Jリーグが始まる10年以上も前に遡る)にラグビーファンがサッカーファンに比べて元気があった時代の名残。ワールドカップなんて夢の夢、プロ化なんてとんでもないといったような風潮があり、その頃には全盛期を迎えた関西の某老舗大学チームの勝ち負けに一喜一憂していたことを思い出す。
そんな旧タイプのラグビーファンの血が流れつつも、今はサッカーも平等に愛している。そして、ラグビーは関東大学ラグビーのリーグ戦グループを中立的な立場で楽しむことになった者として思うことは、サッカーファンはラグビーファンになってくれる可能性が一番高いスポーツファンだと言うこと。数的優位、タックル、オフサイドといった用語を知っているだけでも大きい。何とかうまくサッカーファンにラグビーの魅力を(押しつけではなく)アピールする方法はないものだろうか。例えば、サッカーの試合会場で2019年には日本でラグビーのワールドカップが開催されることをアナウンスするだけでも違ってくるような気がする。
話が本題から逸れてしまった。例えば、演奏会を迎えるまでの日々のことを考えてみる。クラシックの場合はほぼ100%プログラムが決まっている。だから、コンサートに出かける前に某かの予習をすることになる。当日演奏される曲がどんな内容なのかを深く知ることで、想定内の出来事かも知れないが、ステージで何が起こるかを楽しみにコンサート会場に向かうことになる。逆にジャズでは当日何が演奏されるかが事前には分からないことが多い。だから、何が起こるかを楽しみにライブハウスに出かける。
ラグビーとサッカーにも同じことが言えそうだ。ラグビーの場合は、チーム力、メンバー、コンディションを知ることで勝敗から試合展開まで予想することが可能。日本とオールブラックスが対戦するとしたら、勝ち負けは(残念ながら)興味の対象外とならざるを得ない。でも、サッカーなら「もしかしたらブラジルに勝つかも知れない。」という期待を持ってスタジアムに足を運ぶことができる。勝つ確率もじわじわと上がってきているような気がする。
サッカーとジャズで共通性を感じることはまだある。それは発展の歴史と世界への拡がり。1950年代に全盛期を迎えたモダンジャズ期までのジャズは、スーパースターが引っ張る時代だった。代表選手はマイルス・デイヴィスでありジョン・コルトレーンであったりする。サッカーならペレやベッケンバウアーといった名前が思い浮かぶ。また、ソリスト(ストライカー)が王様の時代だったことも同じ。ジャズのピアノトリオでベーシストやドラマーが前に出てくることは「例外的」とされる。
しかし、サッカーはスターの存在だけでは勝てなくなってきている。全員攻撃、全員防御のトータルフットボール、そして役割分担や決まり事に支配された高度に組織化されたスタイルに変貌を遂げている。同じことはジャズでも起こっていて、ピアノトリオであっても3人が対等の立場で丁々発止と渡り合う演奏スタイルが主流になっている。ジャズもある意味では全員攻撃全員守備の状態になっているのが面白い。
サッカーが世界的な人気を博している大きな理由は、いろいろなスタイルで世界一になれる可能性があることだと思う。チーム作りひとつにしても、選手達の身体能力だけでなく、国民性も色濃く反映された形になる。そう考えると、ジャズもいろいろな戦い方が可能なことに気付く。リズムは4ビートである必然性はなく、世界中の様々なスウィングするリズムが使える。コードもスケールにも地域性を反映させることができるし、ブルージーな感覚はアフロアメリカンだけが専有している訳ではない。それに比べたら、クラシック音楽の戦術は限られたものにならざるを得ない。限られたフォームの中で、演奏者の特色が顔を出すというスタイルになる。こんなところにも限られたトップチームが覇を競うラグビーとの共通したテイストを感じる。
とりとめのない話になってしまったが、確信を持って言えることは、耳に飛び込んできた音楽が感動を呼ぶのはそれがクラシックであるとかジャズであるとかは関係ないということ。心に響くか響かないかが先のはずだ。振り返ってみれば、偶然から奇跡までの様々な音との出逢いがあり、そのことが地球上の時空を越えた様々な音楽へのアプローチに繋がった。ラグビー観戦の合間を縫って、少しずつそのような素晴らしき音楽との出逢いについて書いていきたいと思う。
そんな旧タイプのラグビーファンの血が流れつつも、今はサッカーも平等に愛している。そして、ラグビーは関東大学ラグビーのリーグ戦グループを中立的な立場で楽しむことになった者として思うことは、サッカーファンはラグビーファンになってくれる可能性が一番高いスポーツファンだと言うこと。数的優位、タックル、オフサイドといった用語を知っているだけでも大きい。何とかうまくサッカーファンにラグビーの魅力を(押しつけではなく)アピールする方法はないものだろうか。例えば、サッカーの試合会場で2019年には日本でラグビーのワールドカップが開催されることをアナウンスするだけでも違ってくるような気がする。
話が本題から逸れてしまった。例えば、演奏会を迎えるまでの日々のことを考えてみる。クラシックの場合はほぼ100%プログラムが決まっている。だから、コンサートに出かける前に某かの予習をすることになる。当日演奏される曲がどんな内容なのかを深く知ることで、想定内の出来事かも知れないが、ステージで何が起こるかを楽しみにコンサート会場に向かうことになる。逆にジャズでは当日何が演奏されるかが事前には分からないことが多い。だから、何が起こるかを楽しみにライブハウスに出かける。
ラグビーとサッカーにも同じことが言えそうだ。ラグビーの場合は、チーム力、メンバー、コンディションを知ることで勝敗から試合展開まで予想することが可能。日本とオールブラックスが対戦するとしたら、勝ち負けは(残念ながら)興味の対象外とならざるを得ない。でも、サッカーなら「もしかしたらブラジルに勝つかも知れない。」という期待を持ってスタジアムに足を運ぶことができる。勝つ確率もじわじわと上がってきているような気がする。
サッカーとジャズで共通性を感じることはまだある。それは発展の歴史と世界への拡がり。1950年代に全盛期を迎えたモダンジャズ期までのジャズは、スーパースターが引っ張る時代だった。代表選手はマイルス・デイヴィスでありジョン・コルトレーンであったりする。サッカーならペレやベッケンバウアーといった名前が思い浮かぶ。また、ソリスト(ストライカー)が王様の時代だったことも同じ。ジャズのピアノトリオでベーシストやドラマーが前に出てくることは「例外的」とされる。
しかし、サッカーはスターの存在だけでは勝てなくなってきている。全員攻撃、全員防御のトータルフットボール、そして役割分担や決まり事に支配された高度に組織化されたスタイルに変貌を遂げている。同じことはジャズでも起こっていて、ピアノトリオであっても3人が対等の立場で丁々発止と渡り合う演奏スタイルが主流になっている。ジャズもある意味では全員攻撃全員守備の状態になっているのが面白い。
サッカーが世界的な人気を博している大きな理由は、いろいろなスタイルで世界一になれる可能性があることだと思う。チーム作りひとつにしても、選手達の身体能力だけでなく、国民性も色濃く反映された形になる。そう考えると、ジャズもいろいろな戦い方が可能なことに気付く。リズムは4ビートである必然性はなく、世界中の様々なスウィングするリズムが使える。コードもスケールにも地域性を反映させることができるし、ブルージーな感覚はアフロアメリカンだけが専有している訳ではない。それに比べたら、クラシック音楽の戦術は限られたものにならざるを得ない。限られたフォームの中で、演奏者の特色が顔を出すというスタイルになる。こんなところにも限られたトップチームが覇を競うラグビーとの共通したテイストを感じる。
とりとめのない話になってしまったが、確信を持って言えることは、耳に飛び込んできた音楽が感動を呼ぶのはそれがクラシックであるとかジャズであるとかは関係ないということ。心に響くか響かないかが先のはずだ。振り返ってみれば、偶然から奇跡までの様々な音との出逢いがあり、そのことが地球上の時空を越えた様々な音楽へのアプローチに繋がった。ラグビー観戦の合間を縫って、少しずつそのような素晴らしき音楽との出逢いについて書いていきたいと思う。