スーパーラグビーの第14節でサンウルブズはブランビーズに惨敗し、遂に10敗目を喫した。ウィンドウマンス明けに行われる残り3試合も厳しい相手で最下位の可能性がより高まったと言える。しかし、悲観的な材料だけではない。少なくとも、春シーズンに最高レベルのラグビーを楽しめるのは過去にはなかったことだし、1戦1戦を大事に戦うことで日本のラグビーに足りないものを明確にしてくれる。もしもサンウルブズがなかったら、そしてその可能性はけして小さくなかったことを思うと、2015年9月19日は永遠のメモリアルデイになるだろう。
この日、英国ブライトンで起こったこと、すなわち、第8回ワールドカップでの南アフリカ戦勝利は世界から見ると「史上最高の番狂わせ」だが、日本のラグビー関係者の立場からは日本のラグビーを救ったという意味で「世紀の大勝利」に他ならない。思い起こせば大会前、日本のラグビーの実情を知る人ほど将来に対する希望が持てない状況になっていたことを考えると、その思いがより強くなる。
件のワールドカップ開催が目前に迫った某日、印象に残ることがあった。NHKラジオの夜の番組の「ワールドネットワーク」を偶然聴いていた時だった。海外在住の日本人に電話でインタビューをしてその土地の話題を語ってもらう番組で、海の向こうで受話器を握っていたのは南アフリカ在住の日本人女性。NHKのアナウンサー(男性)が「南アフリカではどんなことが話題になっていますか?」と問いかけたとき、「今は国中がラグビーのワールドカップの話題で持ちきりになっていますよ。」と。続けて「日本でも南アフリカの選手がトップリーグで活躍していますね。例えばサントリーにデュプレア選手(以下、チーム名と選手名がスラスラと出てくる)が所属していますし。」
ここで、アナウンサー氏の反応が「そうですね、南アフリカの強力な選手達の活躍は日本でも大きな話題になっています。」と答えることが出来れば100点満点だった。しかし、氏が海の向こうから電話回線を通じて届く熱い気持ちに殆ど答えられないでいるのが、ラグビーファンとしてはもどかしかった。そして、決定打がでてしまう。「ところで、南アフリカはどのくらい強いのですか。」 もうラグビーファンなら卒倒しそうな質問。中には頭に血が上って、「そんなこと(南アフリカが世界の最強国のひとつであることはラグビーに留まらず世界スポーツ界の一般常識)も知らないのか。」と抗議の電話の1本も入れたかも知れない。
しかし、アフリカ大陸の最南端にいる日本女性は賢明だった。おそらく、普段から彼の地と日本ではラグビーに対する空気がまったく違うことを肌身で感じて居たのだと思う。アナウンサー氏が抱いた素朴な疑問に丁寧答えることで、ワールドカップに日本が出ることや、緒戦の相手が南アフリカであること等を日本のリスナーに伝えてくれたのだった。今となっては笑い話だと思うし、件のアナウンサー氏も同じ機会が訪れたら、「日本に敗れた南アフリカですが、その後のチームの状態はいかがですか?」という質問が普通にできるようになっているはず。
こういった日常の一コマを見ても、ラグビーが宗教とも言われている国との間には体感以上の温度差があったことは間違いない。だから、南アフリカに勝利したことは想像を絶するくらいに大きな出来事だった。その後にサンウルブズが無事出陣できたことも「南アフリカ効果」のひとつと言って間違いないだろう。さらに言えば、日本にとって南アフリカがけして遠い国でなくなったことも大きい。
■映画『インビクタス』のこと
原作を読み終えた後、録画しておいた『インビクタス』を改めて観た。1995年に南アフリカが開催された第3回ラグビーワールドカップの決勝戦、すなわち南アフリカがひとつになった瞬間に至るまでの数年間を切り取って映画化したのがこの『インビクタス』。原作はそこに至るまでの苦難の道程をネルソン・マンデラの「戦い」を通して克明に描いているが、映画はそこにはあえて触れていない。
オープニングでは、道路を隔てて立派なグランドでラグビーの練習に励む欧州系の少年たちに対し、荒れたグランドでサッカーに興じているアフリカ系の少年たちの姿が描かれている。そこに通りかかったのが、大統領に就任したマンデラたちを乗せた車列。道路の両端でのまったく違った反応、方や熱烈な歓迎、方や「誰だ?何故騒ぐ?」の冷めた反応といった具合に、示唆に富んだ場面が続く。あえて細かい説明は避けて、観る者に「何か」を感じさせるスタンスでこの映画は作られている。
終盤の最高のクライマックスシーンもさることながら、スタジアムで熱狂する観客の姿が実際に試合を観ているかのように再現されている場面に驚かされた。試合の場面からは近接撮影ならではの肉体のぶつかり合いの迫力が伝わってくる。やはり、マンデラその人になりきっているモーガン・フリーマンが素晴らしい。そして、ピナールを演じるマット・デイモンも。最初に観たときに、ひときわ印象に残ったのは、この2人が出逢う場面。大統領が主将に託した使命を思うと、日本代表のキャプテンにここまでの重圧がかかることは今後もおそらくないだろう。それは、日本にとって幸せなことに他ならないのだが、スプリングボクスだけでなく、オールブラックスもたぶん同じなんだろうなと思った。
そして改めて感じたことは、この映画の製作にはアメリカの巨大資本と有名監督(クリント・イーストウッド)が必要だったということ。資金の問題は別にしても、南アフリカのスタッフで撮ることは困難だし、原作者の母国である英国のスタッフで撮ることも困難。人種問題を抱えるアメリカで、かつ有無を言わさずという力がある有名監督でなければ撮ることができない映画があることを実感させられた。そして、さりげないカットの中に込められたメッセージを読み取ることで、その背景にあるものに興味を抱かせる。2時間あまりという限られた時間の中で、「マンデラと南アフリカの知られざる物語」に目を向けるようにすることがこの映画の隠されたミッションでもあるのだ。
■原作『プレイイング・ザ・エネミー』のこと
映画『インビクタス』は上でも書いたように、ジョン・カーリンの “Playing The Enemy”の中のハイライトシーンを切り取って映画化したもの。原作はネルソン・マンデラが類い希なる人間的魅力と巧みな戦略により、如何にして「敵」を味方につけていったかを描いたヒューマンドキュメント(ノンフィクション)になっている。南アフリカをひとつに纏める困難な作業の最後の切り札になったのがラグビーだったわけだ。ラグビーファンはスプリングボクスが世界最強チームだと知っていても、なぜ世界のラグビーシーンから閉め出されていたかの真相を知ることになる。
アパルトヘイト時代の南アフリカでは、人種が4つに分けられていただけでなく、同一人種、例えば欧州系の人達の間でも格差があったことなどは日本では殆ど知られていなかったと思う。そんな様々な立場の人達(すべてがマンデラにとっては敵だった)を味方にしていく気の遠くなるようなプロセスを文章で追いかけていくのは正直しんどい部分がある。しかし、一刻も早くラストの歓喜の瞬間に到達したいという気持ちが前へと向かわせる。そういった意味からは、映画を先に観て感動を味わったことはプラスだったと実感している。原作を読んだあとで再び映画を観ると、新たな発見があるという具合に映画と原作は連動している。
確かに映画はアメリカでないと製作が難しい。しかし、ノンフィクションに仕上げるのはジョン・カーリンのような南アフリカ滞在経験を持ち、ラグビーやサッカーにも通じている英国人のジャーナリストでないと難しいことも実感した。マンデラの敵でなくなった多くの人達にインタビューを試みることは、並大抵のことではなかったはず。そういった意味でもクライマックスシーンを感動なくして読み終えることはできない。
■インビクタスからサンウルブズへ
時代も場所も背景も違うが、実はサンウルブズの戦い(苦闘)にインビクタスに通じる者を感じる。サンウルブズの直接の相手はスーパーラグビーの南アフリカカンファレンスに所属するチーム。何故か南アフリカという点はさておいても、間接的に見えてくるのは、日本のラグビーに立ちはだかる様々な問題や課題が相手でもあるということ。対立的要素であったり、矛盾点であったり、あるいは世界のラグビーから取り残されている部分をファンの気持ちをひとつにすることで溶かしていく潜在的能力を持つのがサンウルブズと言えないだろうか。
サンウルブズは南アフリカ、ニュージーランド、オーストラリア、トンガ、フィジー、サモア、アメリカ、アルゼンチンといった国々からやってきた選手から成る多国籍軍。中でもひときわ注目の人になっているのが南アフリカ出身の鉄人フィルヨーン選手。堅実なFBとしてチームに欠かせない存在だが、プレーに南アフリカ魂といったらいいのか人一倍の芯の強さがある。派手さはなくても、ひとつひとつの確実なプレーは活きた教科書と言えるくらい。
フィルヨーンに限らず、南アフリカの選手達には肉体の強さの中にも激しさと優しさが同居しているようなところに人間味を感じる。例えばの話、トップリーグのチームに必ず1人は必要ではないかと思ってしまうくらいの存在感を感じる。『インビクタス』を観て、そして『プレイイング・ザ・ゲーム』を読んで、南アフリカの選手達の精神面のバックグラウンドが分かったような気持ちになったし、愛着が深まったことは間違いない。
インビクタス~負けざる者たち | |
ジョン カーリン | |
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