「熱闘」のあとでひといき

「闘い」に明け暮れているような毎日ですが、面白いスポーツや楽しい音楽の話題でひといき入れてみませんか?

柳川貴司 彫刻展のご案内(2014.9.8~9.20)

2014-08-31 07:11:12 | いろいろ何でも雑記帳




トップリーグがスタートし、関東大学ラグビーのリーグ戦グループの開幕のカウントダウンも始まりました。また、9月の声を聞くと(残暑は厳しくても)芸術の秋もシーズンイン。ということで、柳川貴司さんの彫刻展のご案内をさせていただきます。

【期間】 2014年9月8日(月) ~ 9月20日(土) AM11:00~PM7:00(日曜日休み、最終日は5:00まで)

【場所】 ギャルリー志門(東京都中央区銀座6-13-7 新保ビル3F) TEL:03-3541-2511

柳川さんは東海大で講師を務める彫刻家で、ユニークな木彫りの立体アートを手がけておられます。

私にとって、柳川さんはアート鑑賞の師であるだけでなく、東海大がお正月の国立競技場でたたかうときには一緒に応援に熱を上げるラグ友(ラグビー観戦友達)でもあります。

実際にその場で展示物を観てみないと本当のおもしろさが分からないのが3次元の立体アート。これは生観戦で選手の大きさと激しいぶつかり合いを観た方がより面白さの増すラグビーと同じだと思います。

写真では大きさがわかりませんが、まずは展示物の想像を超えたスケールの大きさに圧倒される。そして観る角度によって様々な形でイメージが膨らんでいくという希有の体験ができるのが柳川アートの醍醐味だと思います。

丹念に刻み込まれ、そして磨き上げられた、木のぬくもりからから醸し出されるヒューマンな味わいは柳川さん独自の世界と言っていいかもしれません。

【2008年 彫刻展から】





【2010年 彫刻展から】



【2012年 彫刻展から】









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FENで知ったラテンジャズの最先端/ポンチョ・サンチェスを運んだ西海岸の風

2014-08-27 23:33:33 | 地球おんがく一期一会


今でこそ南米音楽のリズムとエッセンスでスウィングする「サウス・アメリカン・ジャズ」に夢中になっている私。「ラテンジャズ」の枠で一括りにされている感のあるジャズではあるが、1940年代頃にアメリカで生まれたアフロ・キューバン・ジャズとはかなり毛色が違っている。しかし、そんなことが言えるのも今だからこそ。ラテンジャズの世界は実に奥が深いということを知ることができたのも、ほぼリアルタイムで追いかけ続けることになるポンチョ・サンチェスの音楽にFENのジャズ番組で出逢ったからに他ならない。

今はAFN(American Forces Network)と名を変えているFEN(Far East Network)は、アメリカ合衆国の成り立ちを反映するかのような多様な音楽を流し、日本の音楽ファンにも貴重な情報を提供してくれた放送局だった。アメリカンロックやカントリー&ウェスタンが流れる傍らで、ヒスパニック系の人々を対象とした『VIVA』という番組があった。もちろんスウィングジャズやイージーリスニングを流している時間帯もあったし、ソウルやディスコで盛り上がる時間帯ももちろんあった。

とくにスペイン語と英語のちゃんぽんでプログラムが組まれていた『VIVA』はいわばラテン音楽てんこ盛り、いやごった煮番組の面白さがあった。プエルトリコ系のサルサからコロンビアのクンビア、メキシコのマリアッチにドミニカのメレンゲとバラエティに富んでいる。「ヒスパニック」と一括りにされている人達でさえ、多種多様なバックグラウンドがあり、そんな人達が合衆国で生活している。時間帯ははっきりしなかったが、ラテン音楽にもいろいろあるんだなぁと感心しながら耳を傾けていた記憶がある。



しかし、FENの中で一番熱心に耳を傾け、そして深く印象に残っている番組は、夜の9時半から30分間ジャズを流している『ジャズ・ビート』。ローラ・リーという名前の女性がDJを務めていた、その名もズバリ!ジャズを聴かせてくれる番組だった。トークはどちらかというと倫理的なもので音楽の話は殆どなかったが、コンテンポラリージャズを含むセレクションが素晴らしくてカセットテープに録音して楽しんだりしていた。

中でも強く心を惹かれたのがマンボやボレーロ(これは絶品!)などのラテンリズムに乗ったポンチョ・サンチェスの演奏するジャズだった。当時(1980年代前半)のアメリカで話題になっていたのかどうかは不明だが、ポンチョはおそらくDJ女史のお気に入りでもあったのだと思う。イヴァン・リンスやジャヴァンといったブラジルMPBのファンにはつとにお馴染みのトランペット奏者、マルシオ・モントロヨスの音楽とともに何度もオンエアされていたから。

ポンチョ・サンチェスの音楽をじっくり聴きたいという思いは募る一方となり、そんなときに池袋のレコードショップ(たぶんHMV)で見つけたのが『ビエン・サブローソ』(日本語訳:「とっても美味しい!」)だった。ポンチョ・サンチェスがコンコード・ピカンテ・レーベルからリリースした2作目(1984年発売)にあたり、グラミー賞のラテンジャズ部門にもノミネートされた作品(であったことは後で知る)。レコードに針を下ろした瞬間、ホーンアンサンブル(トランペット、トロンボーン、サックスの3管)による哀愁感の漂うサウンドに意表を突かれるとともに強く引きつけられた。

ポンチョ・サンチェスは名前からラテン系であることは察しがついていたが、LA近郊で生まれたメキシコ系アメリカ人だとは知らなかった。道理で(緊迫感のあるNYではなく)カリフォルニアの青い空を感じさせるようなサウンドが飛び出してきたわけだ。FENで流れていたのはこのLPに収められた曲であり、そのレコードが日本にも入ってきていたことに感謝したい気持ちになった。このレコードには何度も何度も針を下ろし、そして、そのときからポンチョ・サンチェスはずっとアイドルであり続けて現在に至っている。



2枚目に手に入れたポンチョのアルバムは実質的なデビュー作に当たる『ソナンド』。この作品はポンチョが偉大な師として仰いだカル・ジェイダーの突然の死を乗り越えて作り上げた感動作でもある。「チュニジアの夜」に始まり、ダンソンの名曲「ソナンド」や「アルメンドラ」からボサノバタッチで演奏されるミシェル・ルグランの「夏の想い出」まで。ただし、編成はコンガ、ボンゴ、ティンバレスの3人の打楽器奏者、ピアノ、ベースにトランペット、バルブ・トロンボーン、サックス2本という9人編成でドラムを含まないアフロ・キューバン・スタイル。「本格派」の枠組みの中にウェストコースト風味が乗っかった(アフロ・キューバン・ジャズとは少し違った)ユニークなサウンドがポンチョ・サンチェスの魅力だと言うことを知る。(その後、ディスカバリーから出た本当のデビュー作も手に入れた。)

ヴァイブラフォン奏者で1950年代からずっと西海岸でラテンジャズを演奏してきたカル・ジェイダー。ポンチョ・サンチェスのプロミュージシャン(コンガ奏者)としてのキャリアは、1975年にカル・ジェイダー・バンドのコンガの椅子に空きができたことに始まる。一説によれば、ステージ上でコンガ奏者が突然いなくなり、途方にくれていたカル・ジェイダーのもとに志願して現れたポンチョが「救世主」になったのだという。この話はちょっとできすぎのような気もするが、アメリカらしいサクセスストーリーといえる。

ただ、ポンチョはカル・ジェイダーのバックで演奏する傍ら、ラテンジャズから徐々に離れていく師とは裏腹に、正当派のアフロ・キューバン・ジャズを追求する構想を練っていたように思われる。1982年のカル・ジェイダーの突然の死(公演先のフィリピンで客死)でその構想の実現が早まったような気がしてならない。まずはNYで活躍する重鎮たちに認められることがポンチョの目標だったに違いない。2作目の『ビエン・サブローソ』ではサックスが1本になり、8人編成の盤石のポンチョバンドが完成した。



ポンチョ・サンチェスの3枚目は1985年にリリースされた『エル・コンジェーロ』(コンガ奏者)。トランペットがスティーブ・ハフステッター(穐吉敏子=ルー・タバキン・ビッグバンドのメンバーで知られる)から名手サル・クラッチオロ、トロンボーンがマーク・レヴァイン(ラテンジャズのピアニストでもある)からアート・ヴェラスコに代わり、バンドが一気に強化された。もし、このメンバーで『ビエン・サブローソ』が録音されていたら間違いなくグラミー賞(ラテンジャズ部門)に輝いていただろう。私感ながらサウンドの魅力は前作に譲るが、ホーンセクションの実力は明らかにこちらが上。ちょっと残念な気もするが仕方ない。

ポンチョ・サンチェスは、その後音楽監督に秀逸なピアニストでもあるダビッド・トーレスを迎え入れてさらにバンドの強化を図る。念願のティト・プエンテやモンゴ・サンタマリアとの共演も果たし、ティト・プエンテ亡き後はラテンジャズの王位を継承。さらに近年はR&Bやソウルのスーパースター達と共演して「グレイト・アメリカン・ミュージック・ヒーロー」の地位を確実なものにしている。

しかし、正直に告白すると、私自身がもっとも愛するポンチョ・サンチェスはチャーリー・オトウェルがピアノを弾いていた初期のシンプルな演奏スタイルの時代。アルバムで言えば、ここで紹介した『ソナンド』から『エル・コンジェーロ』までのあたりになる。NYの本格派も一目置く超正当派のスタイルでありながら、ウェストコーストの空気感に充ちた切々と流れる哀愁感漂うサウンドに惹かれることがその理由だと思う。だからこそローラ・リー女史にも愛されただろうし、新しい音楽を求めていた音楽ファンをレコード店に走らせたのだと思う。
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「気まぐれ飛行船」に乗ってひときわ高く舞い上がった夜/第二夜「オール・ブルースは永遠に」

2014-08-24 23:03:55 | 地球おんがく一期一会


素晴らしいジャズに出逢うのは深夜と決まっている。かどうかは人それぞれだが、私の場合は深夜にジャズを流してくれるラジオ番組がなかったら、その魅力を知るのにもっと時間がかかったに違いない。

以前のブログにも書いたとおり、深夜放送(近畿放送-KBS京都-の「ミュージック・オン・ステージ」)から流れてきたMJQ(モダン・ジャズ・カルテット)の演奏が、真綿が水を吸い込むように自然に心の中に染みこんでいったことでジャズの素晴らしさがわかったからそう言いたくなる。ジャズの面白さをたっぷり教えてくれた油井正一さんの『アスペクト・イン・ジャズ』も毎週火曜日の深夜1時からの放送だった。

でも、なぜ深夜なのだろうか? ラジオのスイッチを付けたままでベッドに入り、明かりを消すと部屋の中には空気と音しか存在しないような状態になる。夜の静寂の中、音に集中できる環境ができあがったところに、幸運にも耳に中に飛び込んでくる音が琴線に触れるものだったら最高だ。聴き手に過度な緊張感を強いることのないリラクセーションミュージックでもあるジャズだからこそ深夜がよいのかも知れないと思ったりもする。

さて、「気まぐれ飛行船」から流れてきた音楽でも、ひときわ強く印象に残っているのはマイルス・デイヴィスの「オール・ブルース」。ジャズの不朽の名盤のひとつに数えられる『カインド・オブ・ブルー』のB面最初(CDでは4つ目)に収められた曲だ。ビル・エヴァンス(ピアノ)とジミー・コブ(ドラム)が刻むゆったりした6/8のリズムをバックに、シンプルなテーマの提示のあとマイルス(トランペット)、キャノンボール・アダレイ(アルト・サックス)、ジョン・コルトレーン(テナー・サックス)、エヴァンスの順でアドリブが展開される11分30秒のブルース。

片岡義男さんに「今夜はまずマイルス・デイヴィスのオール・ブルースをかけます。」と言われても、それがマイルスの代表的な名盤の中の1曲だとは知らないからピンとこない。しかし、曲が始まり、マイルス、キャノンボール、コルトレーンとソリストが変わって行くにつれて、不思議な感情が沸き起こってきた。「このまま飛行船にずっと乗っていたい(どうか演奏が終わらないで欲しい)。」といった祈りにも似た願望。それくらい気持ちがよくて神経が昂ぶり、結局眠れない夜になってしまった。この夜に聴いた「オール・ブルース」は、今でも鮮明にそのときのことを思い出すことができるくらいに特別の存在だったのだ。「気まぐれ飛行船」に乗ってもっとも高く舞い上がったのは、この夜をおいて他にない。



♪『ビッグファン』で初めて知ったマイルス

マイルス・デイヴィスが亡くなって四半世紀が経とうとしている。過去(の大きな栄光といくばくかの挫折)を振り返ることなく、ジャズの枠組みをも超えた自己の音楽を追究してきたマイルス。そんな偉大なイノベーターが残した多くの作品の中で、音楽ファンが最初に耳にするのはおそらく1950年代後半のオリジナル・クインテットの作品群になるのではないだろうか。中でもモダンジャズ黄金期に金字塔を打ち立てた「マラソンセッション」として名高い4部作(『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』)は外せないと思う。

ここで、マイルスとコルトレーンの魅力を知り、あとはさらに遡ってパーカーと共演し『クールの誕生』などのセッションが行われた1940年代後半頃までをディグする。あるいは、逆に『マイルストーンズ』から『カインド・オブ・ブルー』へと進み、ハービー・ハンコック(ピアノ)やウェイン・ショーター(テナー・サックス)らが加わった第2期黄金クインテットを聴いて抽象派的な魅力を満喫するのもよい。いきなり、『カインド・オブ・ブルー』でもいいわけだが、そのお膳立ての部分をある程度知っていた方が「不朽の名盤」の価値がより鮮明になると思う。

しかし、1970年代前半にジャズに開眼した私の場合は、ちょっと事情が違っていた。最初に耳にしたマイルスの音楽は当時発売された『ビッグ・ファン』と名付けられた2枚組アルバムからの1曲。ソースは民放FMで夜の11時から放送されていたケン田島さんがDJを務めた「ミュージック・スコープ」という番組。オープニングにはデイブ・ブルーベックの7拍子の曲「ミュージック・スクエア」が使われていて、CBSソニー(コロンビアレーベル)の新譜を紹介する番組だった。看板スターのマイルス・デイヴィスの久々のレコードということで、「グレイト・エクスペクテイションズ」がセレクトされてオンエアされたのだ。

『ビッグ・ファン』は『イン・ア・サイレント・ウェイ』を皮切りにジャズファンを震撼させた『ビッチズ・ブリュー』でエレクトリック・ジャズ路線を邁進していたマイルスの待望のアルバムだったことが注目を集めた大きな理由だったと思う。LPの4面に1曲ずつという長尺の作品が収められたレコードだったが、なぜか他の番組でも紹介されたのは「グレイト・エクスペクテイションズ」ばかりだったように思う。

油井正一さんが唯一評価されていた「ロンリー・ファイア」は放送するにはちょっと捉え所がない感じだし、マクラフリンのギターと中間部でのマイルスのバラード演奏が魅力的な「ゴー・アヘッド・ジョン」や躍動的な「イフェ」にしても長すぎて放送では流し辛い。この作品の実体は、『ビッチズ・ブリュー』や『オン・ザ・コーナー』から選に漏れたセッションの寄せ集めだったという点はさておいても、電波に乗せる上での苦渋の選択が変わり映えのした「グレイト・エクスペクテイションズ」になってしまったであろうことは想像に難くない。

でも、何故かこの曲は初めて聴いた時から強く印象に残るものとなった。小泉文夫さんの『世界の民俗音楽』でラヴィ・シャンカールの音楽に興味を抱いた当時の私にとって、インド音楽の楽器(シタール、タブラ、タンブーラ)を使ったサウンドが耳を惹いたのだと思う。しかし、『ビッグ・ファン』を含め、当時のマイルスの作品はダブル・アルバム(2枚組)で4000円なので常に予算オーバー。『ビッチズ・ブリュー』を横目に結果的に手にしたのは『イン・ア・サイレント・ウェイ』だったのだが、この作品には針を下ろした瞬間に鳥肌が立つという希有の体験のオマケが付いた。



以上が、私のマイルス初体験。だから、残り物を寄せ集めた駄作と酷評されてはいても『ビッグ・ファン』は忘れ得ぬ作品と言うことになる。それはさておき、『イン・ア・サイレント・ウェイ』に付いていた解説の紙の裏にCBSソニーから発売されているマイルスのレコードがリストアップされていた。そこで目を留まった『ルグラン・ジャズ、マイルス・ミーツ・コルトレーン』という作品。ちなみに、コルトレーンはサンタナ&マクラフリンの『魂の兄弟達』経由で知っていて、『至上の愛』のLPも持っていた。

「へぇ-、マイルスってコルトレーンと一緒にやっていたのか。」と呟いたのだが、場所が自宅の中で本当によかった。もしレコード店のジャズのコーナーでこんなことを言おうものなら、中に居た人の全員の視線は一瞬にしてその声の主の方向に向かっただろうし、何人かは卒倒したかも。そして、もうそのレコード店には恥ずかしくて行きづらくなったはず。でも、1970年代の始め頃にジャズを聴き始めた少年にとっては、インド音楽も混じっている電化されたマイルスと『至上の愛』のサックス奏者がかつて一緒に演奏してなんて想像の範囲を超えていた。

だからこそ、予備知識ゼロの不意打ちのような状態で出逢った「オール・ブルース」の世界に素直に入り込めたのだと思う。もともとラヴェルのボレロが大好きだったこともあり、どこかその音楽に通じる世界(同じパターンの繰り返しの中に器楽演奏の変化が色を添える)があることに惹かれたのかも知れない。気まぐれ飛行船での初体験のあと、タイミングよく『アスペクト・イン・ジャズ』で何夜かに渡ってマイルス・デイヴィスの特集が組まれた。そこで聴いた『マイルス・アヘッド』も強く心を捉えた作品。ということで、『イン・ア・サイレント・ウェイ』と『カインド・オブ・ブルー』に『マイルス・アヘッド』を加えた3作品が私的マイルスのベストスリーでずっとあり続けている。



♪改めて『カインド・オブ・ブルー』の魅力について

モード・ジャズを語る上で必ず引き合いに出されるのが、この『カインド・オブ・ブルー』とジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』で、録音されたのも同じ1959年。そんな歴史的な背景は抜きにしても、私的ジャズベスト10アルバムには必ずこの2つが入る。後者の魅力についてはすでに過去のブログに書いたとおりで、オープニングからエンジン全開となって駆け抜けるようなコルトレーンのソロがすべてといった作品に仕上がっている。

それに比べると『カインド・オブ・ブルー』は至って穏やかな雰囲気で全編が貫かれていて対照的だ。そして、「ソー・ホワット」の演奏が始まった瞬間からラストの「フラメンコ・スケッチ」が終わるまで、異常とも言える緊張感に包まれた完成度の極めて高い作品に仕上がっている。「無駄な音は一つもない」という表現でもまだ物足りない。「一音たりとも削れる音がない」と言いきってしまいたいくらい。さらなる驚きは、レコードのA面3曲はすべて「テイク1」がそのままマスターとなり、B面の2曲も2回しか録音が行われていないという。

しかし、『ジャイアント・ステップス』はタイトル曲にしても(ダメテイクに近いものも含めて)ボツテイクが3つあり、決定打が出るまでにかなりの時間を要している。同じ頃に生まれた不朽の名盤2枚がまったく違ったプロセスでレコードになったことはとても興味深い。マイルスだったら「ジャイアント・ステップス」は一発で決めたかも知れないと思いつつも、そもそもマイルスはこんなに忙しい素材は選ばないだろうとも思う。また、「オール・ブルース」は本来は4拍子だったが、マイルスはスタジオに入ったときに「閃き」で6/8に変えたそうだ。それがほぼ1発で曲に仕上がってしまうのがマイルスだし、素材自体がシンプルだからこそ可能とも言える。

だからマイルスはコルトレーンよりエライとは単純に言えないところがジャズの面白い所だとおもう。なぜなら、出てきた結果はどちらも等しく感動的な仕上がりになっているから。『カインド・オブ・ブルー』でマイルスの(共演者の能力を最大限に引き出す)天賦の才能を知り、『ジャイアント・ステップス』で努力の人だったコルトレーンがたっぷり汗をかいたことを知る。

さて、『カインド・オブ・ブルー』でのマイルスを除くMVPはピアニストのビル・エヴァンスをおいていない。とくに顕著なのは「オール・ブルース」で、3人のソロイストのバックでニュアンスに富んだ味付けを試みているプレーは聴けば聴くほど味わい深くなっていく。最後のソロが控えめに感じられるのも、3人のバッキングにエネルギーを集中させることで言いたいことは言い尽くし、あとはどう収めるかと言うことになったのではなかったのだろうか。

このセッションが行われたとき、既にエヴァンスはマイルスのバンドを退団し、ピアニストはウィントン・ケリーに替わっていた。でも、ミュージシャンシップで素晴らしい作品が出来上がってしまうところに面白さを感じる。エリック・ドルフィーは「音楽は終わると消えてしまい、二度と取り戻すことはできない。」と言ったけど、40年くらい前にラジオで聴いた音が今も確かに頭の中に残っている。同じはずの音に対して、変わらないもの、新たに気がついたことといろいろと想いをめぐらすことは音楽を聴く大きな楽しみのひとつだ。
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「気まぐれ飛行船」に乗ってひときわ高く舞い上がった夜/第一夜「ホットなサルサとの出逢い」

2014-08-22 00:57:53 | 地球おんがく一期一会


ティーンエージャーだった昔々、素晴らしい音楽と出逢う場所は「音楽専門番組」とは限らなかった。作家の片岡義男さんがDJを務めていた「気まぐれ飛行船」も忘れ得ぬ音楽との出逢いを提供してくれた番組のひとつ。民放FMで月曜日の深夜1時から放送していた番組で、夜遅い時間帯だったが高校2年生から3年間、毎週楽しみに聴いていた。その頃片岡さんのお相手を務めていたのはジャズ歌手の安田南さん。「大人のお話」にどぎまぎしたりしながら耳を傾けていたことも今となっては懐かしい。ちなみに、火曜日の同じ時間から放送していたのが油井正一さんの『アスペクト・イン・ジャズ』だった。

「気まぐれ飛行船」はジャンルにとらわれずに、さまざまな音楽を紹介してくれたことも大きな魅力だった。なかでも2夜、絶体に忘れることができない特別のフライトを経験することができた。ひとつは当時(70年代半ば)米国のNYを中心に熱く燃え上がっていたサルサ。そして、もうひとつは、その10数年前に同じNYで生まれたマイルス・デイヴィスの不朽の名盤に収められたクールなジャズだ。

♪サルサとのちょっと複雑な出逢い

ジャズよりもずっと前に親しんでいたのがラテン音楽。両親の述懐によれば、父がマンボ系のレコードをかけたとき、物心ついた頃の坊やはゴキゲンであったとか。小学校の高学年の頃にはNHK-FMで放送されていた「ラテンタイム」を毎週のお楽しみで、ピアソラのタンゴに出逢ったのもその頃。ラジオで「ラテン」という名の付いた番組は殆ど聴いていたから、ラテン音楽のことはよく知っているはずだった。

しかし、ある日、それは大きな勘違いであったことを思い知らされる。番組は同じ「ラテンタイム」でDJを務めていたのは谷川越二さんだった。谷川さんの番組はご本人のキャラクターそのままに、「これぞラテン音楽!」のイメージを外すことのない楽しくロマンティックなものが多かったと記憶している。しかし70年代前半のある日の放送はちょっと様子が違った。ファニア・オールスターズが残した名盤で、サルサの歴史を語る上で絶体に外すことのできない『ライブ・アット・チーター』に収録された音楽が約2時間にわたって取り上げられたのだ。

当時のラテン音楽の番組で聴くことができたのは、ブラジルならサンバやボサノヴァであり、アルゼンチンならタンゴであり、アンデス地方(+アルゼンチンやチリ)ならフォルクローレであり、メキシコならマリアッチであり、米国産ならマンボやルンバであり、アルパなら(ベネズエラではなく)パラグアイと決まっていた。ラテン音楽に興味を持っていた音楽少年は、それがラテン音楽のすべてであると信じて疑わない状態だった。サルサはおろか、ブラジルには北東部(ノルデスチ)の音楽があり、コロンビアにはクンビアがあり、ペルーにはクリオーヤ音楽があり、そしてベネズエラにはメレンゲやホローポあるなんてことは知るよしもなかった。

それが、いきなりNYラテンのしかもサルサなのである。ソフトな語り口が持ち味の谷川さんが、当時の米国でもっとも熱い音楽だったサルサを取り上げる。そのギャップに戸惑うと同時に、何だか裏切られたような気持ちになった。こんなエキサイティングなラテン音楽を隠していたなんて!と。もちろん谷川さんが悪いのではなく、問題にすべきは当時の日本でのラテン音楽の紹介のされ方だった。先に書いたような音楽がラテン音楽だと思っている人達にサルサが生まれた背景を説明するのには(ちょっと大仰だが)膨大なエネルギーと時間を要する。ラテンジャズにしても、マチートとパーカーやガレスピーの出逢い(結論は結局「パーカーはエライ!」で終わる)からなかなか先に進まない状況が続いていたから。



♪オスカル・デ・レオンのサルサが頭の中に鳴り響いた夜

そして、次にやって来たのが、「気まぐれ飛行船」に乗った特別の夜だった。片岡さんの「今日はサルサをかけます。」のアナウンスの後に流れてきたオスカル・デ・レオンの歌声と演奏。「サルサ」ということでイメージされた元気いっぱいのファニア・オールスターズの演奏とはちょっと違った塩っぽいサウンドだ。とくに憂いを含んだようなトランペットとトロンボーン(各2本ずつ)のアンサンブルが強く心を捉える。そうか、この(陽気さだけではない)陰の部分がサルサの魅力なのかと、夜の静寂の中で聴いた音に魅了されたのだった。

この出逢いは「決定打」となったものの、そのままサルサへの「直行便」に乗ったわけではなかった。今にして思えば70年代は駆け出しの少年音楽ファンにとって、百花繚乱の「何でもあり」だった時代。追っかけたくなる魅力的な音が溢れていた。中でも熱中したのは旬だったクロスオーバー/フュージョン。本格的にサルサを追いかけるようになったのは、フュージョンがほぼ煮詰まってしまった80年代前半まで待たねばならなかった。

そんな俄かファンにとって最高の指南役を務めてくれたのが1983年に刊行された河村要助著の『サルサ天国』だった。サルサという音楽の本質を伝えてくれるという意味でこれ以上の本はないと言っていいだろう。オスカル・デ・レオンは(サルサでは主流の)プエルトリコでも(クンビアの本場の)コロンビアでもなく実はベネズエラの出身。レコード店で見つけた ”El Oscar de la Salsa” のオープニングを飾る曲が10年近く前に深夜のFMラジオから流れてきた曲だと分かったときはアドレナリンの上昇を抑えることができなかった。

結局、最終的に追っかけたのは高度なアレンジで緻密なサウンドを聴かせてくれたルイス・ペリーコ・オルティスになってしまったが、それも「気まぐれ飛行船」に乗ってオスカル・デ・レオンに出逢ったお陰。ホーンのサウンドが強烈な太陽を感じさせるストレートなものだったらスルーだったかも知れない。本当に不思議な一夜ではあった。でも、やっぱり夜の静寂にフィットする音楽はクールなジャズだと思う。(続く)
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セント・ギガで知った「ハウスミュージック」/Mr.フィンガーズ(ラリー・ハード)の魅力

2014-08-11 00:16:29 | 地球おんがく一期一会


「セント・ギガ」といっても、ピンと来る人は殆どいないだろう。世界初の衛星放送によるデジタルラジオ放送局で、1991年3月の本放送開始から2003年に事実上消滅してしまうまで、空から地上に音を送り続けていた。当時WOWOW(BS5ch)と契約していた人は、副音声で音が流されていることに気付いていたかも知れないが、放送当時から陰のような存在の放送局だったと言っていいと思う。

では、そうして痕跡すらも残っていないような放送局のことを話題にしようと思い立ったのか。実はこのセントギガこそ、様々な未知の音楽との出逢いを与えてくれた、忘れ得ぬ想い出がいっぱい詰まった放送局だったから。自分自身の音楽人生を語る上で外すことのできないキーワードのひとつが「セント・ギガ」なのだ。

♪WOWOWのおまけだった「セント・ギガ」

今を遡ること30年前、結婚を機に実家からアパートに移り住みBS放送が受信できるTVを購入した。当時のNHKのBSは3ch(3系統)あり、ニュース、スポーツ中心、映画や音楽などのエンターテイメントにコンテンツが満載で、世界の最新情報を居ながらにして楽しめる番組編成。WOWOWも既に放送を行っていたが、有料放送ということでスクランブルがかかっており、画像は見えてもないも同然だった。

画面をわざわざギザギザにして見せることにしたのは、何を放送しているかをおぼろげながらわかるようにして契約者を増やすための策略だったときく。当時はイタリアサッカーのセリエAが重要コンテンツのひとつになっていて、人影が動く画面を見る都度に「スクランブル何とかならんかなぁ」と思ったものだ。結局は、放送局の策略にまんまと填まり、契約に至ってしまう。ただ、サッカーや映画を観ている分にはセントギガの存在に気付くこともないはず。毎月送られてくる番組表の片隅にあった「セントギガ」のことは少し気になっていたのだが。

「セント・ギガ」も有料放送なのでスクランブルがかかっている。しかし、時々ノンスクランブルの時間帯があり、試しに聴いてみるとジャズやボサノヴァがよくかかっていた。しかも、音質はCD並と言う謳い文句のとおりでFMラジオよりもいい。それでこちらも契約してみるかということになってしまった。

♪さまざまな出逢いを提供してくれたセントギガ

いざスクランブルが外れてみると、セントギガは「音の潮流」と称して一日中「波の音」を流しているような不思議な放送局だった。ニュースどころかトーク番組もなく、ある時間帯にまとまって音楽を流すというシステム。既往のプログラムから曲名まで秒刻みでタイムテーブル化されているラジオ局とはまるで違うコンセプトに面食らった。これでは契約者数が伸びないのは仕方ないなぁと思いつつも、音を流しっぱなしにしておくのがけっこう心地よかったりしたりする。当時はFMラジオでもDJが喋っている時間の方が長いような状態で、肝心の音は何処に?という感じだったから新鮮に聴くことができたのかも知れない。

でも、放送する側もあまりにも捉え所のない番組構成は不味いと悟ったのか、音楽に関しては少しずつ普通のラジオ番組のようなスタイルに変えていったように思う。たとえば、毎週日曜日の10時からは『オール・ザット・ジャズ』と題された90分間のジャズ番組がレギュラー化された。モダンジャズを中心としながらフュージョンも含むメインストリームジャズを独自の構成で紹介する番組で、先に4~5曲流してからまとめて演奏者と曲名のアナウンスがある。ブラインドフォールドテストみたいな形なので、リスナーは予備知識(偏見)なしに曲を聴くことができる。「喰わず嫌いはいけませんよ。」と諭されているような感じで新たな発見がいろいろとあった。とにかく、セレクションが面白く、ミンガスの「直立猿人」を平気でかけるのもこの番組くらいのも。

ちなみに、「オール・ザット・ジャズ」は1996年~1998年頃に放送された番組を殆どカセットテープにエアチェックしてある。一度は壊れて廃棄に至ったカセットデッキだったが、120本以上溜まったテープを処分するのがもったいなく思われ、結局新しいデッキを買い直した。オンキヨーのトレーが前に出てくるタイプのもので、CDプレーヤーの発想が活かされている。テープに収録されている1000曲以上の宝物を棄てなくて本当によかったと思った。それ以外の番組でも、「真のオルガンの女王」ローダ・スコットを知ったことが大きな収穫のひとつ。



♪Mr.フィンガーズとの幸運な出逢い

セントギガの音楽番組で本当に困ったのは、「オール・ザット・ジャズ」のような例外を除き、曲目のアナウンスがまったくないことだった。トークを入れることで音の潮流に棹をさしてしまうことを畏れたわけでもないが、どんなアーティストが演奏しているのかくらいは知りたかった。もちろん曲名を知ることは不可能ではなかった。放送された時間をメモって電話で直接問い合わせると教えてもらえる。でも、時間をチェックするのも電話をするのも面倒な時がある。今ほどネットが手軽に使える時代ではなかったとは言え、J-WAVEのように、曲目リストをホームページにアップしてくれていたら問題ないのにと何度思ったことか。

そのことを一番感じたのは、セントギガがもっとも力を入れていたと思われるハウス/ヒップホップ系の音楽だった。リズムは打込みでシンセを多用したコンピューターミュージック(当時はハウス音楽という言葉すら知らなかった)なのだが、FMラジオでは耳にすることのなかった未知の音楽。70年代のプログレやフュージョンで頻繁に耳にした電化サウンドとは一線を画した洗練されたサウンドに心惹かれることも多く、どんなアーティスト達が演奏しているのか手がかりがまったく掴めないことがもどかしかったのだ。

そんな紆余曲折を経て知ることができたひとりのアーティストがMr.フィンガーズことラリー・ハードだった。電話での問い合わせで教えてもらった「ミスター・フィンガーズ」というアーティスト名を頼りにCDショップへ。ちょうどタイミング良く、セントギガで聴いた曲も収録された『イントロダクション』が見つかった。デジタル技術で産み出されたサウンドにラリー・ハード自身のボーカルがミックスされたソフトな感覚のソウルフルなサウンドが心地よい。とくにリズムが打ち込みとは思えないグルーブ感を感じさせることが驚きだったが、ラリー・ハード自身が元々ドラマーだったことを知り納得だった。



♪『イントロダクション』から『バック・トゥ・ラブ』へ

Mr.フィンガーズ名義の『イントロダクション』は1992年の作品。ラリー・ハードが付け加えた女声コーラスを除き楽器演奏(コンピュータープログラミングとキーボード)と自身で詩を付けたボーカルを手がける。ラリー・ハードの音楽の特徴はデジタル音楽からは想像できないようなシンプルな構成にある。キーボードで弾くブロックコードだけでベーシックなライン(これがとっても魅力的!)を創り、そこに自身の歌と軽めのシンセを乗せているだけなのだが、肌触りがクールであるにも関わらず、豊かなサウンドになっている。

『イントロダクション』にすっかり魅了されたので、続いて1994年にリリースされた『バック・トゥ・ラブ』も手にする。しかし、この作品はちょっと期待外れな内容だった。前作に比べて、より聴きやすいサウンドになっているものの、例えば “on my way” や “closer” や “what about this love?” と言った曲で聴かれた(ソフトな中にも)骨っぽく感じられるような部分が薄くなっているように感じられたから。どちらの作品もハウスミュージックとしては例外的にメジャーレーベルからのリリースなのだが、2作目は多少とも売ることを意識したことで尖った部分が希薄になったのかも知れない。



♪『キャン・ユー・フィール・イット』で「原点」を知る

『バック・トゥ・ラブ』のあとも、ラリー・ハード/Mr.フィンガーズのチェックは続いた。2枚組の『ダンス2000』、そしてディープ・ハウス(と言うのだそうだ)「の世界で古典的な名曲とされる『キャン・ユー・フィール・イット』を手にする。どちらも、『イントロダクション』のようなトータルコンセプトアルバムではなく、1980年代に作られた実験的な作品を含むベスト盤。ただ、1990年代以降の作品の原点のような曲が含まれていて、魅力的なトラックもある。「原点」を知ることで、ラリー・ハードのミュージシャンとしての成長を知ることができるわけだ。



♪至福の作品『ラブズ・アライバル』

現在保有しているラリー・ハード(Mr.フィンガーズ)のCDでもっとも最近の作品は2001年リリースの “Love’s Arrival”。かなり前に手に入れたアルバムだが、どうもあまり真剣に聴いていなかったようだ。購入していたことすら忘れていた。ということで初めて聴く気分でCDトレイに載せたわけだが、1曲目を聴いて(もちろん私が持っている作品の中でということになるが)ラリー・ハードの持ち味が最高に発揮され、かつ円熟味も加わった作品であると実感した。

『イントロダクション』で聴かれたようなある種の「気負い」のようなものは消え、かと言って『バック・トゥ・ラブ』にあったかもしれない「妥協」もない。ソフト路線は一貫して変わらないものの、オープニングからフィナーレまでナチュラルにゆったりとサウンドが流れている。おそらく、メジャーレーベルを離れて自分自身が完全に納得できるサウンドを創り上げることに成功したのではないだろうか。妥協のないことが心地よさの源泉になっているように感じる。

1970年代にジャズに電化楽器が導入されたとき、「エレキには血が通っていないからダメだ。」という声が多くのジャズファンから聞かれた。でもその人達は、ラリー・ハードの作品を聴いても同じことが言えるだろうか。たとえアコースティックの楽器の演奏でも、目の前でどんなに驚異的なテクニックを披露されても聴き手の心を揺り動かさないことはままある。

コンピューターで音楽を創っているミュージシャンは、器楽のミュージシャンとは違った意味で厳しい世界に身を置いているとは言える。演奏技術の巧拙が問われない代わりに、ミュージシャン本人の感性を丸裸にしてしまうような恐ろしさがデジタルミュージックにはある。ラリー・ハードの音楽を聴いていてふとそんなことを思った。

前にも少し書いたように、セントギガのおかげでいろんな音楽に出逢えうことができた。そんな中でまず最初にラリー・ハードを取り上げたのは、セントギガのことを知らなければ、永久に出逢うこともなかった音楽がそこにあったから。一度は行方知らずとなった「ハヤブサ」のように、宇宙の彼方に散ってしまったセントギガの電波が再び地球に戻って来て欲しい。もう一度聴いてみたい音楽がたくさんあるから、そんな永久に充たされることのない馬鹿な願望を抱いてしまったりする。
コメント (4)
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