「熱闘」のあとでひといき

「闘い」に明け暮れているような毎日ですが、面白いスポーツや楽しい音楽の話題でひといき入れてみませんか?

相撲取りとラグビー選手/アスリート考

2013-08-27 23:59:59 | 関東大学ラグビー・リーグ戦
勤務先が(国技館のある)両国のため、浴衣姿の力士達とは日常的に遭遇する。駅の周りにはちゃんこ料理店も多く、細い路地だが「横綱横町」があったりして、ここは相撲の町そのもの。

しかし、そんな場所に週5回は通っているのに、力士が浴衣を脱いだ姿を生で見たことはない。なんてことはない、そもそも国技館で相撲を観たことがないのだ。

しかし、つい先日、ひょんなことから力士の肉体の素晴らしさを知ることになった。場所は国技館ではなく、国技館のすぐ近くにある土俵のあるお店。京都の学会に出席するために来日した先生をもてなすためにセレクトしたお店。土俵上では相撲に因んだ様々なパフォーマンスが行われていたなかで、「力士」も「物まね」などで活躍していたのだった。

件の力士だが、身体は小さく(といってもプロップ体型だが)どのレベルまで上がった人かは不明。でも、身のこなしを観ていると、どこかの部屋に入門していたことは間違いない。引き締まった肉体の美しさもさることながら、身体(とくに膝などの下半身)の柔らかさが際立っていた。なるほど、淀みなく相撲の型を決めるためには、柔軟な肉体を持っていなければならないわけだ。そうでなければ、座った状態で満足に歩くことも出来ないだろう。

ここで、ふと思った。相撲選手も鍛え抜かれた肉体を持つアスリートだということ。だいいち、150キロを超えるような身体でありながら、激しくぶつかりあい、動き回ることが出来ること自体、常人には想像も及ばない世界なので。

本題に入る。ほんのちょっとした力士(経験者かもしれない)の身のこなしを見るに付け、ラグビー選手は果たしてアスリートなのだろうか?という疑問が沸いてきた。確かに、試合になれば80分間走り回るスタミナが必要だし、タックルやブレイクダウンなどの局面では当然身体も張る。世間一般的には間違いなく運動選手だろう。

しかし、100mを10秒台で走るとか、とびきりアスリートがラグビー界には何人居るだろうか。パワーはもとより、身体の柔軟性だって、力士には適わないのではないだろうか。見た目だが、総じてラグビー選手の身体は硬いような印象を受ける。それだけが原因ではないにしても、故障者が多かったり、タックルの姿勢が高かったりするのを見ているとそう思ってしまう。

日本でもアスリートの宝庫となっている野球にしても、イチローのようにウォーミングアップを見ただけでも柔軟な身体を持っていることははっきり分かる。ラグビーは何度も見ているはずなのに、「身体が柔らかそう」とか「身のこなしが軽そう」という選手を殆ど見かけないのが寂しい。もちろん、わざわざそれを見せる必要もない訳だが、ちょっとしたところから垣間見ることもできるのが選手の身体能力。

では、なぜアスリートなのか。日本のラグビーの人気を高めるためには、「この選手のプレーを観たい」というファンを増やすことが重要であり、その答えがアスリートによる魅力的なプレーではないかと考えているから。

五輪競技となったセブンズは、トップアスリート達の眼をラグビーに向けさせるために格好の武器になるはずだった。しかしながら、アスリートをラグビーに呼び込む作戦は殆ど成功していない(ようにみえてしまう)現実を考えると、なかなか道は険しそうだ。
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シェイプとポッド(続き)/脳トレ継続中

2013-08-12 00:25:07 | 関東大学ラグビー・リーグ戦
ちょうどお盆休みに入ったこともあり、しばしの間仕事のことは考えないことにしよう。そう思ったら、急に「シェイプ」と「ポッド」という言葉が楕円球や選手達の動きとともに頭の中を駆け巡る状態から脱出できなくなってしまった。

トライの得点が3点から4点(5点になったのはもう少し後)に変わる頃にラグビーに出逢った。その後もサッカーに夢中になったりして競技場から足が遠のいた空白期間はあったものの、ラグビーファンをやめたことはない。だから、かなりの年数ラグビーを観てきたことになる。その間にトライの得点だけでなく、ルールもどんどん変わっていった。しかし、日本で行われるラグビーのプレー内容はどのくらい変わっただろうか?と思うここ2、3日なのである。

もちろん、本質的に変わらない(変えられない)部分はある。しかし、加速度的ともいえる変貌を続けている世界のラグビーシーンの中で、日本は半ば鎖国状態にあったのでは?という想いを禁じ得ない。トップリーグができて世界の強豪国からバリバリの現役選手が多数来日してプレーするような恵まれた状況になっても、こと大学ラグビーに関しては、(勢力地図は変わってきているが)さほど大きな変化は起きていないように感じる。

「シェイプ」と「ポッド」という2つのキーワードを手がかりとして、ラグビーを構造的に見つめ直してみて、ふとそのことに気付いた。ファンがラグビーを語るときに、「組織的に整備された」とか「ひたむきなプレーぶり」とか「FWとBKが一体化した攻撃」とか「献身的なディフェンス」といったような概念的、いや抽象的な表現が(他のスポーツに比べて)支配的になっていないだろうか?

◆ラグビーを構造的に見直すことの意義

世界的には体格面で劣る日本でも、チームによる体格差は存在する。そんな中で、大きな選手を揃えたチームを軽量小型のチームがスピードや運動量、そして戦術の工夫で打ち破るというのがひとつの「美学」とされてきたように思う。それは、ジャパンが世界と戦うときの戦術ともオーバーラップすると考えられてきた。

しかし、プロ化が進んだ強豪国の選手達は、大きな身体でありながら日本人選手以上に運動量があり、しかも低い姿勢で戦いに挑んでいるのが現実。正直、キャッチアップは難しくなっていく一方という状態になっている。スピードと運動量を維持して身体を大きくしていくのか、大型化よりもスピードと運動量を上げていくのかといった課題に対して答えが出せないうちにも、どんどん世界が進化している。

その世界にしても、スピードや運動量の競争を続けるには限界がある。そこで浮かび上がってきたのが、できるだけ相手を消耗させ、かつ自チームはスタミナを温存できるような戦術を確立すること。単なるパワー勝負、スタミナ勝負に終わらないラグビーをするためには、いかにして攻撃権を保持し続けて相手を自分たち以上に動かし疲れさせる。そのために15人がどのように動くべきかを明確にする必要性から「シェイプ」や「ポッド」といった考え方が生まれたのではないだろうか。

ラグビーは攻撃権を持つチームがその優位性を活かして得点を挙げて勝利を目指すスポーツ。防御側は守っている時間帯が長くなるほど消耗度が大きくなる。相手ボールを奪い取るためにはディフェンスで数的優位を保つために人数をかけなければならないから。アタックの局面でチームを3つのユニットに分け、また攻撃のエリアを3つに分けることでチーム戦術を共有しやすくするとともに、無駄走りによる体力消耗を防ぐ。重要な局面で集中的に力が発揮できるように、いい意味での「省エネ」を目指すのが「シェイプ」であり「ポッド」ではないだろうか。相手を組織的に混乱に陥れ、無駄走りをさせればさせるほど優位に試合を進めることが出来るわけだ。

◆関東リーグ戦グループ所属校を「組織」の面から見直してみると

本格的な観戦を始めた1997シーズン以降をメインとして、各チームを「組織」の面から見直してみた。まず、関東リーグ戦Gで「組織的な戦い方」を確立したチームは関東学院だった。それは大学日本一を目指す過程で苦労を重ねながら身につけていったものだと思う。局面局面で選手個々が判断し、チーム全体で戦うイメージを共有できるようにすることを、天然芝のグラウンドで何度も何度も実戦形式の練習を積み重ねていくことで習得していったのではないだろうか。

1997シーズンから1部に昇格した流経大は、緻密なサインプレーに基づく組織化されたラグビーでリーグ戦Gに新風を吹き込んだ。それに続いたのが1部復帰を果たした東海大であり、その東海大でコーチを務めた加藤氏が監督に就任した日大だった。もちろん、各チームで「組織」に対する考え方は違っているはずだが、ひとつ共通していた部分がある。それは、選手個々が「組織的であること」を意識するあまり、のびのびと戦えなくなっていたように見えたこと。そのことは決定力不足というかたちでBKアタックに顕著に表れていたように思う。

大東大もラトゥー監督が就任したときに組織化を目指したチームだったはずだ。2次、3次攻撃まで選手の動き方を決めた豪州スタイルが目標だったと記憶している。しかし「うまくいかなかった」という理由であっさり組織化は見送られた。法政や中央は個性重視というか、組織化という考え方自体が薄かったように感じられる。攻守とともにフェイズを重ねるごとに陣形が乱れていく(人数が減っていく)ところを、卓越した個人能力を持っているか、あるいは優れたスキッパーが居たかで明暗が分かれていた印象。拓大も2部時代は組織的な戦いができていたチームだったと記憶しているが、個人能力の高い選手が突出することで(結果はそれなりに出たが)組織の考え方が崩れていった感が強い。

時は流れ、拓大は「シェイプ」を導入(あくまでも推測だが)することでチームの再構築に成功した。逆に先駆的な流経、東海だけでなく、日大も含めて他のチームはまだ自分たちに適した「組織的な戦い方」に対する答えを見いだせていないように感じられる。今シーズンとくに注目したいのは大東大で、目指すスタイルから観て、ボールを動かす「ポッド」がはまりそうな予感がする。

◆「シェイプ」や「ポッド」は大学ラグビーを変えるか?

「組織化」と書くと、どうしても窮屈なラグビーというイメージを抱いてしまう。しかし、「シェイプ」や「ポッド」にはもちろん約束事はあるものの、選手達を縛って雁字搦めにするというようなイメージはない。まだまだ理解が浅いので正しいかどうかはわからないが、選手達がしっかりと戦術を身につけたらアタックの自由度(選択肢)は確実に増えていくような気がする。最低限の約束事は決めた上でそれをどう活用するかはチームの判断にゆだねられ、また試合では選手達の臨機応変な判断力(とその共有)が尊重されるシステムになっているのではないだろうか。

使いこなすのは大変かもしれないが、何よりもいいと思うのは、選手達に頭を使うこととコミュニケーションをしっかり取ることを要求していること。また、各チームが同じ考え方をベースにしてチーム作りをしたら、代表チームのようなコンバインド形式でも時間をかけずにチーム作りが出来るようになるかも知れない。ジャパンにしても、選手個々の所属チームの考え方の違いを調整するのが大変なようだから、バックグラウンドだけでも統一する価値はありそうだ。

ということで、今シーズンは2つのキーワードを意識しながら各チームの闘いぶりを観ていきたいと思う。緒戦を観た段階で、各のチームの考え方がはっきり分かるだろう。そんなの関係ないというチームもあると思う。「伝統」に裏付けられたコーチングが支配的なチームほど新しいことを導入するのは難しい。でも、たとえ1つでも「シェイプ」や「ポッド」を使いこなしてチーム力向上に成功する大学がでてきたら、他のチームも追随せざるをえなくなる。アタックはいいとしても、ディフェンスでは相手がどんな意図を持ってどういう形で攻めてくるかが理解できていないと、自分たちのラグビーすら出来なくなるから。だから研究を始めた段階で同時に(意図するしないにかかわらず)導入が始まるわけだ。

果たして、今年はどんなシーズンになるのだろうか?
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シェイプとポッド/シーズン開幕に備えて脳トレ中!

2013-08-11 01:42:12 | 関東大学ラグビー・リーグ戦
夏合宿が佳境に入っている中で、1ヶ月後には秋シーズンが開幕する。各チームの仕上がりは緒戦を観てのお楽しみということになるが、観戦に備えてイメージトレーニングに励んでいる。自分でプレーをするわけではないので、せめて脳みその中だけでも汗をかいておこうと思って。

そんなわたしにぴったりの教材は、ラグビーの分析やコーチングについて詳しく書かれている井上正幸さんのブログ。ラグビーは囲碁や将棋の世界にも通じるところがある理詰めのスポーツでもあるはずなのだが、なかなか「理論」に接するチャンスが少ないと感じていた。それだけに、とても貴重な情報源として活用させていただいている。理解が一朝一夕にとはいかないが、フレッシュな感覚でラグビーを見直すことはできているので、頭の中ではいい汗をかくことが出来ているような気がする。

なかでも、もっとも関心を持っているのがシェイプとポッド。組織的なアタックの形で、前者は選手がユニットを組んでボールをリサイクルしながら相手のディフェンスを崩していく形、後者はボールを動かして相手のディフェンスが薄いところを攻めて崩していく形。と言葉にはしてみたものの、前者は何となく分かってきたかど、後者はまだよくわからないというレベル。

どちらも、そもそも今年初めて知った言葉だし、まだ、日本のラグビーチームで戦術的に使いこなせているチームはトップリーグも含めて殆どないようだというところに安心感を求めている部分はある。でも、理解は出来ていなくても知っているだけでも、何となくラグビー観が変わってきたような気がするから不思議。FWとBKの役割を明確に分けるのではなく、アタックもディフェンスも両者がバランスよく入り交じった組織を作って対応するという部分に新鮮さを感じる。

スポーツの特集番組を観ていて残念なのは、ラグビーが殆ど話題にならないこと。もちろん、試合の放送自体が少ないのだから仕方ないが、バレーボールやサッカーなどのように、「体格面やパワーの面で劣勢を強いられる日本が如何にして世界に立ち向かっているか」というテーマでラグビーが題材になることが殆どないのではないかと思う。ラグビーは科学的なトレーニングや分析よりも、精神論や観念論が支配的なスポーツという誤解を招きかねない状況になっているような気がする。

ラグビーファンとしては、「スクラムは力学的にこうやって組むのがいい」とか「モールのドライブはこうやって止める」とか「タックルのヒットするタイミングや角度はこうあるべき」といったようなことを科学的に分析し、オールブラックスやスプリングボクスに勝つ方法を探るといったようなテーマの番組を観てみたいと切に願う。いや、そんなテーマの番組を作った方が、スポーツファンのラグビーへの関心を高めるのに役立つのではないかと思うのだ。

話しが逸れてしまった。少しだけわかりかけているシェイプ。今にして思えばだが、それを有効に活用してチームのステップアップに成功したチームがあったことに気付いた。そのチームの名は拓大。元来はオープン展開志向の強いチームが、アタックではFW主体の(我慢の)ラグビーをやり通して結果を出した。BKに展開する前に、意図的にFWでユニットを組んでボールをリサイクルしながら前進を図っていたスタイルがシェイプのイメージとダブってくる。今シーズンはさらなるステップアップとしてBKに展開する形が期待しているだけに、拓大にとってはポッドが重要な戦術のひとつになるのかも知れないと思ったりもする。

大学ラグビーをずっと観てきて残念に思うことは、ピッチに立つ15人が明確な意図を持って組織的に動くことができているチームがなかなか増えていかないこと。結局は個々のパワーやスピード頼みになってしまっていたり、プレーの選択も成り行き任せになっているように見える部分がまだまだ多いと感じる。そこから脱却して、体力だけでなく頭脳も満遍なく使い、状況判断を15人で共有できるようなチームが増えていって欲しいところ。また、そんな努力をしているチームが結果を出すことで、日本のラグビーの改革に繋がるような大きな流れができることを期待したい。
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Richie Zellon “The Nazca Lines”/リッチー・セーロンの自画像

2013-08-10 19:36:55 | サウス・アメリカン・ジャズ


『カフェ・コン・レチェ』で(ひっそりとではあるが)高らかに「アフロ・ペルー・ジャズ宣言」を行い、ジャズワールドへと羽ばたいたリッチー・セーロン。どこか(アフロ・ペルー・ジャズの存在を世界にアピールするといったような)使命感も漂う少し肩に力が入った実質的なデビュー作(*)に比べると、第2作はセーロン自身がやりたいことを鏤めた自画像のような作品といえる。

(*)リッチー・セーロンは1982年に処女作となるアフロ・ペルー・ジャズのLP ”Portraits In Black & White” をリリースしている。同作品は、2007年に “Landologia” (Songosaurus 724786) として復刻された。

さて、リッチー・セーロンは永らく年齢不詳の人だった。女性アーティストの場合は、生年(月日)を明らかにしないことはお約束ごとみたいなものだが、男性アーティストの場合は珍しい。とくに深い理由はあったのだろうか。手がかりは母親がピアノ好きのブラジル人であり、幼少時代に子守歌代わりにジョビンの音楽を聴いていること、ジミ・ヘンドリックスやサンタナのギターサウンドに魅せられたこと、80年代前半にチャブーカ・グランダに逢っていることなどを総合すると、50年代前半の生まれではないかと推測していた。ちなみに父親はユダヤ系のアメリカ人で音楽的な素養は持ち合わせていなかったようだ。

しかし、ひょんなことからリッチー・セーロンの生年月日が判明した。ネット上で見つかったバイオグラフィーに1954年12月生まれと記載されていたのだ。だから、この作品は42歳になる前にリリースされたことになる。10年遡ってリリースされた処女作がフュージョンカラーが強い作品であることを考えると、その後10年を経たジャズのスタイルの変貌を “Café Con Leche” を通じて考察することも面白いと思う。そのことについては追って触れてみることにしたい。

♪ジミ・ヘンドリックスとアフロ・キューバン・ジャズの幸福な結婚

ギターが「ナスカの地上絵」になった素敵なジャケットが目を引くこの作品。リッチー・セーロンはギターフリークだったが、米国で音楽と同時にウェブ・デザインを学んだアーティストでもある。そんなセーロンの最大のアイドルはジミ・ヘンドリックスだった。おそらく20世紀の音楽シーンで10本の指に入る偉大な音楽のひとり。リッチー・セーロンは、そのジミの音楽をいつの日かラテンジャズスタイルでやってみたいという強い願望を持っていた。

しかし、この「構想」に対して異を唱える人はいても賛同する人は皆無だったようだ。「そんなのうまくいくわけない。」と言った周囲の反対を押し切って「結婚」に踏み切ったのだが、結果はこのアルバムのハイライトをなす2つの作品として収録されることになった。オープニングを飾る「ファイアー」はチャチャチャで、そして、4曲目の「パープル・ヘイズ」はソン・モントゥーノとして見事にアフロ・キューバン系のラテンジャズ作品として鳴り響く。ギタリストの「どうだ!」という誇らしげな顔が目に浮かぶようだ。

思い起こせば、サンタナはジミヘンに憧れてブルース・バンドを結成し、ラテンロックの金字塔を打ち立てた。サンタナの例を挙げるまでもなく、ラテンビートでもチャチャなどのアフロ・キューバン系の4つで刻まれるリズムはロックビートとの相性は悪くない。世間一般的にはかけ離れた存在だったジミヘンのロックギターとラテン・ジャズは、セーロンの頭の中ではけして異質なものではなく、一体化されていたことになる。もちろん、サンタナに勇気づけられた部分もあったことだろう。

♪ラテン・ジャズの地平線をさらに南へと拡げる様々な試み

衝撃的な「ジミヘン」に隠れがちだが、この作品は「アフロ・ペルー」に留まらない様々な試みが満載の野心作となっている。2曲目の「メレンバップ」はドミニカ共和国のメレンゲのリズムに乗って、ビバップでお馴染みのフレーズが繰り出される(ジャズファンなら)むふふの作品。9曲目の「サンバ・トレーン」はサンバとコルトレーンの合体で、リッチー・セーロンの盟友ジョージ・ガゾーンが印象的なソロを聴かせてくれる。もちろん、リッチー自身ももう一つの母国ブラジルへの熱い想いを込めてアコースティック・ギターソロを披露する。

10曲目のエリントン・ナンバー「イン・ア・センチメンタル・ムード」ではタンゴで郷愁を誘い、11曲目にはアコーディオンが大活躍するコロンビアのヴァジェナートを登場させる。さらに12曲目の「ミッション・マリネラ」は「スパイ大作戦」のテーマをもじったような5拍子のマリネラ。そういえば、TVドラマ「ミッション・インポッシブル」の音楽を担当したラロ・シフリンも南米アルゼンチンの出身だった。ここでは海岸の音楽マリネラの特徴のひとつとなっているブラスバンドを入れることも忘れていない。

♪魅力溢れる共演者達

録音場所やメンバーが異なる3つのセッションが混在した『カフェ・コン・レチェ』に比べると、「固定メンバー」で演奏されている『ナスカ・ラインズ』は、バラエティに富んだ内容にもかかわらず落ち着いて愉しめる作品に仕上がっている。『チルカーノ』のリーダー、ホセ・ルイス・マデュエニョがキーボードを担当し、ベースもリーダーと同郷のオスカル・スタニャロ。ただし、ドラマーにはアレックス・アクーニャ(ここではパーカッションを担当)ではなく、キューバ出身の達人イグナシオ・ベローアを起用したのはジミヘン作品を録音することを念頭に置いたからだろう。

第1作目で「アフロ・ペルー・ジャズ宣言」を行い、第2作目で自身のルーツと目指す音楽を思う存分披露したリッチー・セーロンは、第3作目でいよいよ自らが思い描く「サウス・アメリカン・ジャズ」のスタイルを完成へと導くことになる。


RICHIE ZELLON “THE NAZCA LINES” (Songosaurus 724773) -1996-

1) Fire (Jimi Hendrix) – cha-cha/Cuba -
2) Merenbop (Richie Zellon) -merengue/Dominican Repubric-
3) The Wind Cries Jimi (Richie Zellon)
4) Purple Haze (Jimi Hendrix) –son-montuno/Cuba
5) The Wind Keeps Crying Jimi (Richie Zellon)
6) The Nazca Lines (Richie Zellon) -festejo/Peru-
7) Bromeliad Prelude (Richie Zellon)
8) Dance of The Bromeliad (Richie Zellon) –lando/Peru-
9) Sambatrane (Richie Zellon) –bossa-samba/Brazil
10) In A Sentimental Mood (Duke Ellington) -tango/Argentina-
11) The Moon Over Medellin (Richie Zellon) –vallenato/Colombia-
12) Mission Marinera (Richie Zellon) –marinera/Peru-
13) Johnny Chango (Richie Zellon) –festejo/Peru-
14) Dance of The Bromeliad (short version)

Richie Zellon : Guitars (Peru)
George Garzone : Tenor & Soprano Sax (USA)
Jose Luis Madueno : Piano (Peru)
Oscar Stagnaro : Bass (Peru)
Ignacio Berroa : Drums & Timbales (Cuba)
Alex Acuna : Congas, Bongos, Timbales, Cajon & Shekere (Peru)
Eddie Marshall : Flute, Bass Clarinet & Baritone Sax (USA)
Paul Butcher : Trumpet (USA)
Dan Jordan : Tenor Sax (USA)
Hamilton Sanchez : Baritone Sax (USA?)
John Allred : Tuba (USA)

Recorded at “The Studio”, Orland, Florida, January 1996
Produced by Richie Zellon
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