今日の天声人語でアウン・サン・スー・チーさんが65歳の誕生日を迎えたことを知った。
ほぼぼくと同年齢である。
しかしぼくは、“アウン・サン・スー・チーさん”の名と顔は(写真は)知っているが、彼女の“運命”(軟禁は通算14年におよぶ)についても、“ミャンマー(ビルマ)”の現状と歴史についても、ほとんど知らない。
ぼくは“アジア”について知らない。
“知らない”ことは、“知ろうとしないことである”ことを、最近つくづく感じる。
もちろん、“多くを知っていれば”よいのではない。
ぼくたちは、ある領域や事態の“専門家”(そのことについていちばん知っているはずのひと)が、とんでもなく不可解な“認識”をしていることを、見てきた。
クイズ王が、すべてのクイズに正解しても、無意味である。
たしかに、現在、“知ることへの絶望”があるのだ。
いくら“知っても”、現実は変えられないと。
だからすべてを放置(放棄)して、笑って前向きに生きよう、と。
たしかに、“情報”は、多すぎる。
すべてを“知る”ことはできないし、ぼくたちは、日々ふりそそぐ“事件”や“情報”を、上の空で見過ごして(読み流して)いる。
ときには、<それ>について、“つぶやいたり”、ブログで“異義を表明する”にしても。
ぼくたちは、どんどん忘れてしまう。
結局、自分にとってなにが重要かを、見失っている。
★ あなたの持っている自由を、持たない人のために用いてください(アウン・サン・スー・チー)
<この写真について>
この写真は、あるひとの死に顔である。
ぼくが今日この写真を掲載するのは、この顔になにかを”象徴”させるためではない。
最近、ぼくは”このひと”についての映画について書いた。
そのとき、当時見たこの写真を思い出した。
そのあと、googleで”サルトル”画像を検索していて、この写真に再会したのである。
ぼくはこのひとが”ただしい”ひとであったか否かを、”知らない”。
ぼくは、あらゆる”政治家”や”革命家”や”宗教家”が、ただしいひとであったかを、知らない。
だから、<歴史>を、”読む”必要を感じる。
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