Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

女の美しさ

2013-11-03 13:34:50 | 日記

★ 女の美しさ。はじめは理解できず、困惑させられ、不安にさせられてしまう美しさ。その美しさはあまりに奇蹟的だし、だれもみなひとしく美しいので、まるで、まやかしのように思えてしまう。どうしてこんなことがあり得るのか。腹いっぱいに食べることなんかほとんどなく、現代栄養学の基本的な成分には、おおむね事欠いている民族がここにいる。肉も、牛乳も、野菜も、果物もない。ただ来る日も来る日も、今年も来年も、苦い緑色のおおばこばかり食べている。ときたま臍猪の肉をわずか、それにイグアナとおうむ。米ととうもろこし。これほど均斉がとれ、これほど強く、ねばり強い肉体が、こういう食物だけでつくりだされたのだろうか。

★ インディオの女の美しさは光り輝いている。美しさは、内面から来るのではなく、肉体のあらゆる深みからやって来る。それは、果実の肌の美しさが、果肉全体で照らされ、樹木全体のあらゆる肉で照らしだされているのと同様である。インディオの美しさは目だたないし、目だつことを求めてもいない。それは侮蔑でもなければ、挑発でもない。それはいかなる醜さにも自分を較べようとしないし、変貌することなく、理想化されることもない。インディオの美しさは、ただ、勝ち誇って、生々としてそこにある。

★ 彼女らは、自然それ自体を明示している。鳥や花や葉や昆虫のように。女たちの姿と地上の他の生命あるものの形とのあいだには、裂け目もないし、分裂もない。彼女らは、壊したり、支配するためではなく、呼吸し、食べ、飲み、胎内の生命を育て、愛し、殖やすためにそこにいる。

★ だから、美は見せ物であることをやめる。美とは活動であり、運動であり、欲望だ。美は、未知の世界を掩っている無機質の表面をたえ間なくうち砕き、そこに通路を開いて、扉と住居をつくりだす。

★ 美は奇蹟でもなければ、偶然の結果でもない。インディオの女の美しさは、自由の結果である。道徳や宗教の禁制を恐れることなく、あるがままであるという自由。自分の肉体と精神のために、労働と交合と分娩を選ぶ自由。愛さなくなった男から逃れ、気に入った男を求める自由。堕胎用の煎じ薬を飲む自由。子供が欲しくなければ、分娩の際に毒殺してしまう自由。気に入った家に住み、欲するものを所有し、憎むものを拒む自由。肉体の自由と裸身の自由。自分の顔を手入れする自由。競争相手もなく、自分自身の姿態以外には、他の何物とも競うことがないという自由。不品行の自由と分別の自由。

★ 手は活動する。扇や、笊や、籠を編むために、ナワラ織の繊維が織りなす模様を、手は心得ている。肉体の内部にあり、樹々の葉や、鹿の皮や、蛇や魚のうろこの上にも記されている模様を手は知っている。

★ 目は見、他の何ごとも行わない。目は神秘を解明することなど望んでいない。目だって、やはり果実や花々に似たものなのだ。目は外観という遮蔽物をいくつもいくつもつらぬいてきたにちがいない。なにものももはや目をだますことはない。インディオの女たちの目は、黒い入江のようだ。青銅色の顔のなかで静かにきらめきつつ、見つめている。目は、《魂》にいたる扉として見開かれることなど決してない。今や、魂は無益なものとなり、目は自分を表現するために魂など必要としていないのだ!

★ わたしたちの目の残忍さと貪欲。記録するための仮借ない機械、レンズ、コンタクトレンズ、世界を自分の箱の中に閉じ込めるために絶え間なく撮影するカメラの砲列!シャッターつきの目だ!苦悩と快楽と恐怖を探し求める目だ!しかしここには、河のほとりに立って動かない若い女の、見つめている目だけがある。<見つめている目>。

<ル・クレジオ『悪魔祓い』(岩波文庫2010)>





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