Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

亡命者;つかのまの旅人

2014-08-14 12:41:44 | 日記



知識人は難破して漂着した人間に似ている。漂着者は、うちあげられた土地で暮らすのではなく、ある意味で、その土地とともに暮らす術を学ばねばならない。このような知識人は、ロビンソン・クルーソーとはちがう。なにしろクルーソーの目的は、漂着先の小さな島を植民地化することにあったのだから。そうではなくて知識人はマルコ・ポーロに似ている。マルコ・ポーロは、いつでも驚異の感覚を失うことはなく、つねに旅行者、つかのまの客人であって、たかり屋でも征服者でも略奪者でもないからである。

★ 亡命者はいろいろなものを、あとに残してきたものと、現実にいまここにあるものという、ふたつの視点からながめるため、そこに、ものごとを別箇のものとしてみない二重のパースペクティブが生まれる。新しい国の、いかなる場面、いかなる状況も、あとの残した古い国のそれとひきくらべられる。知的な問題としてみれば、これは、ある思想なり経験を、つねに、いまひとつのそれと対置することであり、そこから、両者を新たな思いもよらない角度からながめることにつながる。この対置をおこなうことで、たとえば人権問題について考える際にも、ある状況と、べつの状況とをつきあわせることで、よりよい、より普遍的な考えかたができる。

★ 知識人にとって、亡命者の視点といえるものの第二の利点は、ものごとをただあるがままにみるのではなく、それがいかにしてそうなったのかも、みえるようになるということだ。状況を、必然的なものではなく、偶然そうなったものとしてながめること。状況を、自然なもの、神からあたえられたもの、それゆえ変更不可能で、永遠で、とりかえしのつかないものとしてながめるのではなく、男女が歴史のなかでおこなった一連の選択の結果であるとながめること、人類がこしらえた社会という事象としてながめること。

★ 亡命者とは、知識人にとってのモデルである。なにしろ昨今では知識人を誘惑し、まどわし、抱き込もうと、さまざまな褒賞が用意され、さあとびこめ、さあゴマをすれ、さあ交われと、知識人は語りかけられるのだから。また、たとえほんとうに移民でなくても、故国喪失者でなくとも、自分のことを移民であり故国喪失者であると考えることはできるし、数々の障壁にもめげることなく想像をはたらかせ探求することもできる。すべてを中心化する権威的体制から離れて周辺へとおもむくこともできる。おそらく周辺では、これまで伝統的なものや心地よいものの境界を乗り越えて旅をしたことのない人間にはみえないものが、かならずやみえてくるはずである。

<エドワード・W・サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー1998)>




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