Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

近代最初の男

2014-08-12 17:39:55 | 日記

★ ところでご存じねがいたいことは、上に述べたこの郷士が、いつも暇さえあれば(もっとも一年のうちの大部分が暇な時間であったが)、たいへんな熱中振りでむさぼるごとく騎士道物語を読みふけったあまり、狩猟の楽しみも、はては畑仕事のさしずさえことごとく忘れ去ってしまった。しまいにはその道の好奇心と気違い沙汰がこうじて、読みたい騎士道物語を買うために幾アネーガという畑地を売り払ってしまった。

★ こうやって、手に入るかぎりのそういう書物をことごとく己が家に持ち込んできたのであるが、あらゆるこの種の本の中で、あの名高いフェリシヤーノ・デ・シルバの作ったものほど彼の嗜好に投じた作品は一つもなかった。なぜならその文章の明快な点と、あの独特のこんがらがった叙述が、彼にはまるで珠玉とも思われたからであって、中でもどこを開いても『わがことわりに報い給う、ことわりなきことわりにわがことわりの力も絶えて、君が美しさをなげきかこつもまたことわりなり』などと書いてある、ああいう恋の口説や決闘状を読むに及んでいっそうその感を深くしたからである。それにまた、『星辰をもて君が神性をいとも神々しく力づけ、君をしてその高貴にふさわしきふさわしさに、正にふさわしき人ともなし給ういとも高きみ空……』などというところを読んだ時にはなおさらであった。

★ こういうたいへんな叙述のおかげで、哀れにもこの騎士は正気を失って、これを理解し、その意味を底の底までつきつめようと夜の目も寝ずにつとめたのであるが、こればかりはよしんばアリストテレスがそのためばかりによみがえってきたところで、しょせん意味を引き出すことも理解することもできなかったに違いない。

★ 要するに、彼はすっかりこの種の読物にこったあげく、夜はまだ明るいうちから白々と明けはなれるまで、昼は昼でまだ暗いうちからとっぷりと暮れはてるまで、ひたすら読書三昧にふけった。こんな工合に、ろくに眠りもせず、無性に読みふけったばかりに、頭脳がすっかりひからびてしまい、はては正気を失うようなことになった。数々の妖術だとか、争闘、合戦、決闘、手負い、求愛、恋愛、煩悶だとか、その他さまざまの荒唐無稽な出来事など、すべておびただしい本の中で読んだ、ああいう一切の幻想が彼のうちに満ちあふれ、そうしてああいう彼の読んだ雲をつかむような作り事の一切のからくりはことごとく真実で、彼にとっては世の中でこれより確かな話はないと思われたほど、彼の空想の主座をしめたのだった。

★ まったくの話が、思慮分別をとうの昔に失ってしまって、これまで世の気違いの誰一人として思いつきもしなかったような、およそ奇怪至極な考えにおちいるようなことになったのであるが、それはみずから遍歴の騎士となって、甲冑に身をよそおい、馬に打ち乗り、あらゆる冒険を求めて世界じゅうを遍歴し、遍歴の騎士の慣いとして、かねがね読み覚えたあらゆることをみずから実際に行って、こうしてありとあらゆる非行を正し、かつは数々の危険と窮地に身を挺して、見事これらを克服したあかつきには、名声をとこしえに竹帛(ちくはく)に垂るることにもなるということが、己が名誉をいやますにも、国につくすのにも時宜を得た肝要なことと思われたのである。
<セルバンテス『ドン・キホーテ 前編』(ちくま文庫1987)>


★ 小説の第一部と第二部のあいだ、その二巻の間隙で、書物のみの力によってドン・キホーテはみずからの現実に到達した。言語のみからきて、まったく言語の内部にとどまっている現実に。ドン・キホーテの真実は、語と世界との関係のうちにではなく、言葉という標識がたがいのあいだに張りめぐらすこの厚みのない恒常的関係のうちにあるのだ。幻滅におわる英雄譚の作りごとは、言語の表象能力と化した。語はいま、その記号としての性質にもとづいてふたたび閉ざされるのである。

★ 『ドン・キホーテ』は近代の最初の作品である。なぜなら、そこでは同一性と相違性との残酷な理性が記号と相似とをはてしなく弄ぶのが見られるからであり、言語が物との古い近縁関係を断絶して、あの孤独な王者の地位にひきこもるからであり(これ以後言語は、文学としてしか、その峻険な存在においてこの孤独のなかから姿をあらわさない)、さらにそこで、類似が、みずからにとって非=理性と空想とのそれである、あらたな時代を迎えるからだ。
<フーコー『言葉と物』(新潮社1974)>




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