Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

自由

2012-01-05 16:44:49 | 日記

★ しかし、人は何にたいして、そしていかなる意味で自由なのだろうか。

★ 自由についてのあらゆる哲学の停止のなかから、自由を理解するための別の方法がくっきり浮かび上がってくるように思われる。だが、その意味も名前も、わたしたちはまだ知らないのだが。

★ カントからシェリングを経てヘーゲルへと向かう偉大な反省が、たしかにここに近づきうる。そして、おそらくさらに、この2世紀のあいだに誕生した偉大なる詩が、自由を求める傾向ないし決意の深くに到達している。ボードレールからマンデリシタームへと、そしてヘルダーリンからツェランへと。到来するものとしての自由、出来事や出現としての自由といったものが、サルトル、アドルノ、アンデルス、それにバタイユ、フーコー、そしてドゥルーズらの著作のあちらこちらにきらめいている。しかしながら、それはまだ十分ではない。運命づけられた結末へと、したがってまさしくみずからの否定へと自由を導くように思われる流れをくつがえすには、それでは十分でないのだ。

★ はたまた、ランボーが過去とのあらゆる関係を断ち切るか切らないかのころ、イザンバールに書簡を送って、むなしくも求めていたように、自由を自由にする(解放する)には、それでは十分でない。いわく、「私はひどくこだわっていた。自由な自由を崇め敬いたいと」。かかる流れ、そして定めから自由を解放し、再活性化し、自由が肯定的な力を取り戻す唯一の方法は、おそらく当初の意味へと差し戻すことだろう。自由をその起源である共同体へと、共通のひとつの根にまとめる潜勢力へと結びつける意味上の絆を再現することによって。

★ また同時に、アイデンティティや所属、剥奪の場としてではなく、逆に多様性、差異、他者性の場として共同体を理解することによって。これは、哲学的でかつ政治的な選択であり、その選択のうちに、現代の政治哲学の課題そのものを見ることができると私は思う。それは、自由主義から自由を、共同体主義から共同体をともに解放することだ。

★ 「自由の贈り主は、他者のなかでしか自由ではない」と、ルネ・シャールは記していた。さらにシャールは、こう述べていた。「共同で消費されるすべての食事のたびに、われわれは自由を招待する。自由の席は空いたままだが、料理は食卓に並べられている」と。シャールはこう言いたかったのだ。たとえその席が空いたままでも、おそらくそうだからこそとりわけ、共同の席にしか自由はないのだ、と。

★ もし共同体が、共通の主体、あるいは実体ではなく、それ以上還元できない主体や実体のあいだで共有される単独性の様態であるとすれば、自由とは、そのような還元不可能性と一致するだろう。つまり、「いつも」、「時々」、「そのつど」というかたちで、共同体を横切る間隔、境界、閾なのだ。共同体をみずからの外へとさらすもの、あらかじめ内部を中和化することなく、内部をそれとして保持しつつ、外部を内部へと投影させるもの、それが自由である。自由とは、共同体の内部にある外在性だと言えるだろう。自由は、共同体のなかで免疫化に抵抗し、みずからと同一化することなく、自己との差異へと開かれたままのものである。共同体の内部に突如として開かれる始まり、鼓動、裂け目なのだ。あらゆる実存の単独性に開かれる共同体、つまり、これこそが自由という経験なのだ。

<ロベルト・エスポジト『近代政治の脱構築』(講談社選書メチエ2009)>






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