Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

好奇心

2012-01-04 12:48:25 | 日記


ぼくが2011年の最後に読んでいたのは、D.エリボンによるミシェル・フーコーの伝記だった。

この伝記をぼくが再読したのは、これまで何十年もフーコーに関する“入門書・解説書”を読み、翻訳でフーコーのいくつかの文章を読み、本当には“理解した”とは、とうてい思えないこのひとに(つまり謎であり続けているひと=そういうひとは他にもたくさんいる)、再接近するためだった。

この伝記の終わりは、フーコーの葬儀である。

そこで、ドゥルーズによって、フーコーの最後の著書『快楽の活用』の序文の一節が読み上げられたという、引用する;

★ 6月のその朝、きわめて早い時刻だった。そして太陽はパリのうえにまだその姿を現していなかった。だが、ピチエ=サルペトリエール病院のうしろの小さい中庭には、数百人の人々がミシェル・フーコーに最後の敬意をささげようとしてすでに集合していた。長時間、待った。大いなる沈黙。ついで、かすれて、よく通らず、悲しみゆえに変わってしまった声が突然、聞こえてくる。

★ 「私を駆りたてた動機はというと、ごく単純であった。ある人々にとっては、私はその動機だけで充分であってくれればよいと思っている。それは好奇心だ――ともかく、いくらか執拗に実行に移してみる価値はある唯一の種類の好奇心である。つまり、知るのが望ましい事柄を自分のものにしようと努める体の好奇心ではなく、自分自身からの離脱を可能にしてくれる好奇心なのだ。もしも知への執拗さというものが、もっぱら知識の獲得のみを保障すべきだとするならば、そして知る人間の迷いを、ある種のやり方で、しかも可能なかぎり容認するはずのものであってはならないとするならば、そうした執拗さにはどれほどの価値があろうか?はたして自分は、いつもの思索とは異なる仕方で思索することができるか、いつもの見方とは異なる仕方で知覚することができるか、そのことを知る問題が、熟視や思索をつづけるために不可欠である、そのような機会が人生には生じるのだ。[・・・] 哲学――哲学の活動、という意味での――が思索の思索自体への批判作業でないとすれば、今日、哲学とはいったい何であろう?自分がすでに知っていることを正当化するかわりに、別の方法で思索することが、いかに、どこまで可能であるかを知ろうとする企てに哲学が存立していないとすれば、哲学とは何であろう?」。

<ディディエ・エリボン『ミシェル・フーコー伝』(新潮社1991)>







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