★ 副看護士というのかな、学校出たてくらいの若い女性に体を洗ってもらいました。「お湯熱くないですかあ」「頭痒くないですかあ」と優しく声をかけながら丁寧に洗ってくれました。半身は死んだみたいに、お湯の熱さもぬるさも感じられないのに、かつて味わったことのない至福というのか法悦のようなものが体の奥からわいてきて、正直、その女性を手を合わせて拝みたくなりました。
★ ややあって女性は言いました。「セーキは自分で洗いますか?」自分のグラスは自分で洗いたいですか、といった調子の、媚びるでも強いるでもふざけるでもない、ただ生真面目な問いなのでした。(……)恥辱をぼくは豪も感じませんでした。むしろ好感したのです。なぜでしょうか?たぶん、ぼくが想定するエクリチュールとしての言語表出の次元をさらりと超えていて、なおほっこりと人間的だったからでしょう。でも、同じ言葉を違う人物が異なる場面で語ってもだめなのかもしれません。ついでに言えば、彼女は日に何人もの障害者らを洗っています。恐らく、信じられないほどの安い給料で。
★ 95年に自裁したフランスの哲学者がこんなことを言いました。いや、誰が言ったっていいのですが、面白いので覚えていました。資本主義には普遍的なものが一つしかない。それは市場だ、と言うのです。すべての国家は市場が集中する場であり、その証券取引所であるにすぎず、富と貧困を産みだす途方もない工房である、と語るのですね。で、以下の説にぼくは注目します。「人類の貧困を産む作業に加担して骨の髄まで腐っていないような民主主義国家は存在しないのだ」「私たちはどうしても資本主義のお楽しみを祝福する気にはなれない」。
★ ライブドアの騒ぎのとき、「お金でジャーナリズムの魂は買えない」みたいな反発もありましたが、失笑ものでした。魂が買えないとしたら、とっくの昔に売り渡されているからであって(笑い)、市場は戦争も愛もセックスも臓器もジャーナリズムの魂とやらも、その気になりさえすれば市民運動だって合法的、民主的に売り買いするからです。
★ ただ、自殺した哲学者の理屈はここで終わるのでなく、ナチスの強制収容所についてプリーモ・レーヴィが語った言葉「人間であるがゆえの恥辱」を引いて、今日的に援用しています。強制収容所はわれわれの内面に「人間であるがゆえの恥辱」を植えつけたが、この恥辱には様々な形があって、収容所を生き延びた人々も生きるために大小の妥協をせざるをえなかったという恥辱もあった。いまは昔のようなナチスは存在しないかもしれないが、テレビのバラエティー番組を見たり、大臣の演説や楽天家のおしゃべりを聞いたりするとき、この恥辱が頭をもたげてくる、と彼は言います。ぼくもまったく同感です。
★ 資本は何でもするし、それにはうち勝ちがたいけれども、しかし「人間であるがゆえの恥辱」というものがあるじゃないか、それにもっと気づいてもいいのじゃないか、と彼、ジル・ドゥルーズですが、言っているようです。それが哲学の動機づけであるべきだと。ぼくもそう思うのです。かつてアジアの人々に到底癒しがたい恥辱を植えつけ、そうすることにより自らも深い恥辱の底に沈んだこの国はもはや、恥辱とは何かについて考える力さえ失いつつあるようです。手近の恥辱は日常生活の中間色や保護色のなかにいくらでも埋まっているようです。それを人として恥とするかどうかが、より深く考え、何かを拒むことへの出発点にはあるのかもしれません。
<辺見庸『自分自身への審問』(角川文庫2009)>
菓子職人が毎日おまんじゅうと向かい合うのと同じで何とも思わないんじゃないのかな・・・という持論から、そっけない返事しかしなかったけれど、悪かったかなぁ・・・
男の人ってソコノトコロに関しちゃ、かなりナイーブなのかなあ・・・よくわかんないけど、家計の心配は全然してないことはよくわかりました。
おもしろいコメントをいただきました。
おっしゃること、なんとなくわかります。
つまり、“ドライに生きろ!”(笑)
たしかに、“ナイーブな部分(ソコノトコロ)”というのは、男の自意識(自己愛)“の核心なのかね。
男であるぼくにわかんないのは、《女》にとってはドーなのよ?ってことかな。
ぼくから見ても、辺見庸というひとが面白いのは、彼が、(ぼくより)《男》だからかも知れません。
“恥辱(恥)”というのは、たしかに重要な感性だと思います。
つまり、それを感じられるかということについて。
さらに、それをどう“思想化”することができるかについて。
ぼくは、ロマンティックな男なので、“リアル”だけでは生きられないということについては、共感するわけです。