Don't Let Me Down

日々の雑感、引用。
言葉とイメージと音から喚起されるもの。

存在の自由;“色気”について

2012-03-02 00:32:23 | 日記


いまさらこのブログを、“主観的でない”と思っているひとは少ないだろうから、とりわけ主観的に(このブログは)書きたい。

ぼくは、これまでもたびたび書いてきたよーに、本を大量に読んだり、“良書”を普遍的にカヴァーして読んできたのではない。

けれども、生きてきた時間が長いので、“ジャンルを問わず”かなり色んな人の本を読んできた(“偏見”により、まったく読まない人も当然いるが)

若いときには、色んな人を読み、“新しい人”を発見する楽しみもたしかにあって、あらゆる領域(の人)に手を出したくもあった。
(実は、最近でもその傾向はまだある)
それにしても、残された時間が無限にあるわけではなく(これは“若い頃”も実はおなじなのだが)、読む本(人)をある程度絞ることを近年はずっと考えてきた。

結局ぼくにとって、“読みたい本~読むべき本”とは何か?

“ジャンルを問わず”、その基準になるのは(あくまで自分にとってだが)、“色気”があるか否かではないかと最近思ったのだ。

いちおう“注釈(説明)”すると、この“色気”というのは、“セクシー”とか“エロティック”ということでは、ない。
“セクシー”だったり、“エロティック”だったりしてもかまわないが、そういう“感じ”じゃない。

たとえば、柄谷行人というひとは、80年代から90年代に“色気”があったが、“近年”色気がなくなった、というような感じである。<注>

もちろん、中上健次やデュラスやベンヤミンやジュネや宮沢賢治には、色気がある。
フーコーやドゥルーズやデリダやラカンに色気があるか否かは、(ぼくには)、まだ不明である(笑)

さて、立岩真也のようなひとには、(たぶん)色気がないと思うひとが多いのではないかと危惧する。

しかし、ぼくは以下のような文章に色気を感じた;

★ ただ言えるのは、生産に応じた取得という所有の規則が一定の条件の下ではやむなく必要とされることである。手短に記すなら、人が、褒美がなければ仕事をしようとしない、労少なくして多くを得たい人である限り、このような人のあり方を前提とした機構によって生産と分配とを行うしかなく、結局、貢献に応じた分配という機構が作られてしまい、この条件が継続している間はなくそうと思ってもなくせず、無理やりなくすと機能不全に陥る。だから、ある程度――どの程度かはあらかじめ定まっていない――は必要となる。あることの結果によってそのことの是非を判断するのを帰結主義と呼ぶなら、これは帰結主義による正当化ということになる。

★ この道しかない。これが唯一残り、これを軽視することはできないなら、結局、これをいくらかは受け入れることになる。

★ しかし、このことの確認はこの規則の相対化を意味する。そもそも正しいものとされるのではなく、生産を(ひいては分配を)維持するための手段としての位置だけを与えられる。私的所有の機構を使う必要性は、またどの程度使うのがよいのか、使わざるをえないかは、人にどんな性向があるかによる。また達成されるべき生産の水準もあらかじめ決定されてはいない。

★ だから、この規則が、手段以上のもの、「真理」「正義」とされ、教えられてはならない。私の仕事の成果は私のものであり、私の価値を示すものだと思うことが生産にとって効果的であることはありうるが、他方では、希少な財、能力を有する人が「正当に」その対価を釣り上げることを求めることにもなり、分配を維持しつつ生産を一定の水準に保つことを要件とすれば反機能的である。

★ これらの効果、影響をどう評定するかという問題もあるが、それ以前に、それは正義だと言いうる根拠を欠いている。まず単純に虚偽を教えてはならないということだ。より積極的には、それは存在と存在の自由を毀損することがあるから否定される。信じさせることがときに効果的であるとしても、それを正義の場に祀り上げるべきではない。しかじかの条件のもとで必要のためにこれを使うと、手のうちを明かすべきである。

<立岩真也『自由の平等 簡単で別な姿の世界』(岩波書店2004)>





<注;蛇足>

”柄谷行人”というひとになじみがないひとのために、もっとポピュラーな例を出せば、
”村上春樹”は、『ねじまき鳥クロニクル』の途中までは(笑)色気があった!







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