wakuwakuな生活

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鎌倉街道下道 国府台(こうのだい)

2014-11-15 11:39:44 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成26年11月8日(土) 11月に入り、だいぶ寒さが感じられるようになったこの日、京成国府台から京成小岩までの正味、9.5キロのウォーキングを行った。

鎌倉街道は鎌倉幕府が交通網の整備のため、また、「いざ、鎌倉」の時に御家人が馳せ参じる道として作られた道です。
鎌倉街道はひとつの道ではなく、主要幹線の「上道」「中道」「下道」と呼ばれている3本の道が存在していることが分かっています。
武蔵武士団のうち、江戸、豊島、葛西、千葉、佐竹氏が鎌倉に向かう時に利用したのがこの下道で、後に、三浦氏が会津を所領したことで、会津と鎌倉を結ぶ道でもありました。
と、ガイドブックに書いてありました。

この地図にあるように、東京湾を沿って、北に延びているのが「下道」です。

まず、国府台駅に集合。
この地名は普通だと「こくふだい」と読むが、実は「こうのだい」と読みます。

国府神社(こくふじんじゃ)にこんな言い伝えが書いてありました。
「日本武尊(やまとたけるのかみ)が東征の折、下総の賊を平定してこの台地に陣を張り、武蔵の国に向かおうとした時に、下総と武蔵の台地の間には、たくさんの河川がデルタを形成していたので舟を使わず浅瀬を渡ることはできないものかと考えていたところ、一羽のコウノトリが現れて「私が浅瀬を教えましょう」と尊に進言した。それによって、難なく武蔵の国の台地に着くことができた。コウノトリの功績をほめて、下総のこの辺の台地をコウノトリに授けた。このことから、この台地が「鴻之台(こうのだい)」と呼ばれるようになり、ここには下総国府が置かれた台地でもある。」から、こういうふうに呼ばれているそうです。


ここには「国府台城」があった。1479年扇谷上杉の家臣太田道灌がここに城を築いたのが始まりと伝えられている。そして、この地では、1538年と1564年に国府台合戦として、上杉氏に代わって関東の一大勢力になった北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将が戦ったところである。
奇遇にも、以前ブログにも書いた、鎌倉の東慶寺の観音様に纏(まつ)わる話に出てくる「里見義弘と青岳尼の一大ロマン」の舞台でもあったので驚いた。第一回の戦いで、父の足利義明が北条氏綱に負けて、青岳尼は鎌倉に連れられる。許嫁であった里見義弘は20年後に軍船を率いて鎌倉の青岳尼のいた太平寺を攻め、そこにいた青岳尼を安房国へ連れ去ったのである。もっと房総半島の南の方に位置するかと思ったら、何と北寄りの東京都に近い場所だったので、それも足利義明の屋敷も房総半島北寄りの小弓城であるので、大驚きである。
    

 
この日は、22585歩、約13、5キロ歩いたことになる。
いつもながら、新しい歴史的事項に出会え、こうやって歩くことができることに感謝してやまない。



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