平成24年4月29日(日)30日(月)
ゴールデンウイークの真っただ中、久しぶりに東海道珍道中を行なった。
前回は確か10月の終わり頃であったので、半年ぶりの再開である。
その間いろいろなことがあったが、こうしてまた歩けることを幸せに感じている。
今回は、三島から沼津を歩くのがメインで、箱根から三島まではバスで通る計画を立てた。
以前書評で「北条氏が一族の存亡をかけて豊臣軍と戦った山中城」という見出しを見つけた。
この辺(八王子から相模原・座間一帯)を領主としていた北条氏照(しかも北条氏照は娘にお化粧料として上溝や下溝を与えた)が建立したという。かねてからこの辺を治めていた氏照に興味をもっていたので、その人が建てた山中城なので、是非とも見てみたいという願望はあった。しかもそれが東海道の箱根口に建てられ、また東海道を跨ぐ形で建立してあるというので、好都合である。
だから山中城を見て、三島に泊まり、次の日に三島から沼津へのウオーキングを行うことを大まかな計画をたて実行した。
果たして、大正解で、この山中城の堀の凄さを感嘆するとともに、天守閣などの派手さはないが、自然の地形を利用しての構築は素晴らしい。また、それ以外にも歩いていると、そこかしこに、歴史的なエピソードが、散りばめられ、二人とも大いに盛り上がり、過去の史実とのつながりを確認する旅となった。
中でも韮山に行ったときに流れていた狩野川が沼津でも流れていて驚いた。どうも伊豆の天城山から韮山を通り沼津に抜けているらしい。韮山では、頼朝の元妻であった八重姫が頼朝との別れを悲観して身を投げた川であり、沼津では、市内をゆったりと流れ、沼津城本丸跡のところにも流れていた。
また、後醍醐天皇の皇子である護良親王の名前が出てきたときには、その護良親王の首を洗ったという井戸を保土ヶ谷で見ていたので、私たちの中で憶測が飛び交い盛り上がった。それが、見出しにも書いてある「白馬伝説」が関係してくるのである。
そしてまた、頼朝や義経・政子と歴代の有名人が関係している場所が出てくる。はたまた、歴史はつながっているなーといたく感心した私たちであった。
では、前置きが長くなったが、順を追って今回の旅を詳しく残しておこう。
まず、9時町田で待ち合わせ。小田急線で小田原へそして、箱根湯本へ。そこからはバスで芦ノ湖の元箱根へ。箱根湯本からのバスで元箱根までの行き方は何通りかあって、親切に声をかけてくれたバスに乗ったが、本来そのルートではない方に乗って行きたかったが、それによって、千ちゃんがこの道を歩いてみたいという希望が出て、箱根神社の宝物展にも前回遅くなって行けなかったこともあり、次回はこの道を歩いて見ようという話になった。何が功を奏するか分からないもんだ。
芦ノ湖の湖畔の元箱根から三島行きのバスに乗る。箱根峠を通り、途中で山中バス停で下車。
いよいよ山中城に入る。
看板に「山中城は戦国時代末期に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城した。その後、秀吉と不仲になった氏政は、秀吉の小田原攻めに備えて整備増築を行うが、未完成のまま1590年、4万の豊臣軍の総攻撃にあい、北条軍4千で戦うもわずか半日で落城したと伝えられる。400年前の遺構がそのまま復元されている山城は全国的にも非常に珍しく、堀や土塁がよく残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然を巧みに取り入れた山城の作り方など、目を見張るものがある。」と、あった。
なるほど、下調べの段階でも、この堀や土塁は有名で、果たしてどんな具合なのかわくわくしながら中に入った。入ってすぐに、堀の深さや土塁の高さそして、きれいに整地され、丁寧に計算して作られている感はあった。
中でも、今は植物が生えているが、当時は関東ローム層が剥き出しだったので、一旦堀に落ちてしまったら、その土塁を登ってくることはできないとあり、驚いた。
また、障子掘りや畝堀り等、ほんときれいに整備してあり、見ていると芸術品のようだ。素晴らしいと何ども感嘆してしまった。
また、そこで戦ってなくなった武将たちの墓が、三の丸の宗閑寺にあった。
城主松田康長、副将間宮康俊、それに豊臣家の武将一柳直末のもあった。死んだら敵も味方もないんだなーと思った。
そこで、バスの時間までだいぶあるので、遅い昼食をとる。冷やし山菜そばだったかな。非常に美味しかったのを覚えている。
次に、三嶋大社に行く。三嶋大社は伊豆の国の一の宮で、何事もこの大社を中心に行われてきた。本殿の前には、樹齢1200年といわれる「キンモクセイ」があった。なるほど巨木で古木である。
頼朝は源家再興を祈願して、100日もの間、毎日蛭が小島から三島に日参をしたといわれている。境内には頼朝と政子が座ったという石があった。
また、ここは頼朝が旗揚げをした地でもある。山木兼隆(政子の父親、北条時政が家の安定のために政子に無理やり嫁がせようとした男)を三嶋大社の祭礼の次の日に討ってから石橋の合戦に臨んでいる。
二人とも疲れたのか、資料館でビデオを見たが、知らぬ間に休息をとっていた。(#^.^#)
結婚式を上げている中、本殿で手を合わせてから、三嶋大社を出る。
鳥居をでると、そこが東海道である。
三島は、富士山から流れ出た溶岩の隙間から富士山の雪解け水が噴き出し、この水が町のそこかしこに流れている、富士の湧き水の町である。公園には湧き出しているところが分かるように、綺麗な池が整備されていた。
湧き水を飲ませてくれるとこらがあり、その水を飲んだら、まったりした飲みごたえであった。
ここで、一日目は終了となる。
千ちゃんが予約してくれたホテルに行き、荷物を置いて、夕飯を食べに行く。三島はうなぎが名物だと千ちゃんが調べてきてくれたからそれを食べようと物色したが、高い。結局、三島駅前の安価な食事処で「おち定食」を食す。それにはそばがついていて、昼に続きそばを食べる。私はやっぱりそばが好きだ。
今日は日曜日、「平清盛」は見ようということで、早めに切り上げ、ホテルへ。
一緒に見たが、二人とも疲れていたのかだんだん目の皮がくっついてくる。
年には勝てない。
二日目。十分に睡眠をとったせいか、食欲がわく。それにバイキングの朝食が、料理が豊富で美味しい。お皿に少しづつ料理を取り、ほとんど全種類を食べてしまった。
このビジネスホテル、値段も安く(一泊5100円)部屋もきれいで、駅からも近い。
いいホテルを予約してくれました。ありがとう。
では、今日はいよいよ三島から沼津まで歩く。
まず、三島駅近くの寿楽園へ。ここは、明治維新で活躍した小松宮彰仁親王親王が別邸として造営されたもの。富士山からの湧き水が出ている池や郷土資料館があり、動物園もありと市民の憩いの場となっているのだろう。
資料館では三島宿の当時の様子が分かりやすく書かれたものが掲げられていたので、「写真を撮ってもいいか」と尋ねたら、親切にもカラーコピーして渡してくれた。また、当時の東海道や三島宿の様子がよくわかる冊子が300円(安い!)で売っていたので、買ってきた。中を見て、驚いたのは、「旅行者が見た三島宿」という項目があり、1691年ケンベルというオランダ人?が長崎から江戸を往復しているし、有名なシーボルトも1826年長崎から江戸に行ってその途中三嶋大社等を見ている。なかなか面白い本を買えた。
楽寿園を出て、しばらく歩いていると、千貫樋(せんかんとい)なるコンクリートの樋が川の上を通っていた。これは今川・武田・北条の和睦が成立し、北条氏康の娘を今川氏真へ嫁がせるときに、氏康が引き出物として、小浜池(寿楽園内)から長堤を築いて、その水を駿河の方へ疎通させるために造ったという。その用水がたくさんの田畑を潤わせたことでしょう。
しばらく歩くと、一里塚があった。道路を隔てて別々の一里塚があった。江戸から29番目、約116㌔にあたる。
また、しばらく歩くと、八幡神社がある。ここが、頼朝と義経が対面したという「対面石」がある場所である。
桜並木が連なる参道を歩いて本堂へ至ると、その左手裏に石が二つ向かい合って並んでいる。
富士川の合戦のためにこの八幡神社に本営を造営した頼朝に、挙兵支援のために、はるばる奥州よりかけつけた義経との対面の場所だという。面白いことに頼朝が座ったという石の脇に、柿の木が生えている。対面時に食べた柿が渋かったから頼朝が横に捨てたのが成長したとある。それに、よく見ると幹が、よじれてねじれている。
これからの二人の関係を暗示しているようで面白かった。
次に行ったのが、黄瀬川脇にある智方神社である。
資料には護良親王が幽閉されていた鎌倉で、北条時行が挙兵したので、逃げる尊氏が弟の直義に護良親王の首を討つように命令し、それを受けて淵辺義博(淵野辺の武士である)が首を討つ。がなかなか刀が抜けずに茂みに捨ててしまう。それを待女が都までその首を持って帰ろうとするのだが、結局黄瀬川手前のこの地で、首を葬り祠を建てたというのである。護良親王の名前が出てきたことで色めき立ったが、ちょっとどうなのかなーと眉唾物を感じながら、奥の方へ行ってみた。
なるほどお墓もきちんとあるし、その時に植えたクスノキもある。
まあこんなものかなーと出ようとしたが、千ちゃんがどうも気になるようでもう一度看板を読み直している。そこで二人でもう一度看板をそれこそ30分近くその看板を読み砕いていただろうか。
そこで、やっと分かった結論は、その首を持ってきた待女は護良親王が葬られていることをカムフラージュ(隠す・当時は源氏の世)するために、足利=源氏方=白旗=白馬という流れをこの神社の名目にした。白馬伝説としてここは源氏方の神社だとし、600年近くそれを隠し通したということである。ホントか嘘か看板にはそう書いてあった。
鎌倉で討たれた護良親王の首を奪回した家来たちは(保土ヶ谷の首洗い塚ではこう書いてあった)、追っ手をくらますために、待女には険しい足柄峠を首を持って越えさせ、家来たちは馬で東海道(当時はまだこんな整備はされていなかったと思われる)を来たのかもしれない。
そんなことを二人で考え、歴史の面白さを感じながらこの智方神社を出る。
黄瀬川の橋を渡ってしばらく行くと、潮音寺なる寺があった。境内には亀鶴姫の石碑がある。この亀鶴姫は曾我兄弟の十郎と付き合っていた虎御前と並び称されるほどの美人で、兄弟が工藤祐経の仇討ちに入ったとき(頼朝が催した富士の鷹狩りである)、祐経に招かれていた白拍子(しらびょうし)だという。でも、説明看板には頑なに断って、黄瀬川で身を投げたとある。どちらが本当か。
以前読んだ「曾我兄弟の密命」にそんな描写があったような、なかったような。
でもこんなところにも何かしらの繋がりがあり、驚いた。
いよいよ沼津宿に到着である。
沼津には沼津城跡がある。
東海道からそれて、沼津港へ行く。
こんなに観光地化されているとは知らなかった。
展望台ができて、そこからの眺めは素晴らしく、駿河湾や千本松原も見渡せた。
雲がかかって富士山は見られなかったが、それでもこの眺めは一見の価値がある。
展望台近くの沼津魚市場食堂に入り、「さしみ定食」を食す。生しらす・生小エビの美味しいこと。さすが本場もんは違うと実感した。あまりの美味しさに、思わずご飯と味噌汁はおかわり自由というので、一杯ずつしてしまった。食べ過ぎてお腹が重くなった。
そういえば、この食堂の入口にここにきて食事したという、たくさんの有名人の写真が貼ってあった。その一人に野田首相がいた。
私は野田首相と同じものを食したのかもしれない。
お土産に開運ステッカーをわざわざ沼津観光センターを探して買ってくる(そこしか売ってないというので)。でもそこでのおじいさんがすごく親切で、東海道が載っている沼津の地図を探して渡してくれた。ありがたい。
沼津港から沼津駅までは意外と道のりはある。本陣跡を見ながら歩く。
沼津駅から東海道線に乗って帰ってきたが、意外と時間がかかる。茅ヶ崎から相模線で帰ろうとしたが、やはり小田急線のほうが早いと気がつき、藤沢から小田急線に乗りかえようとホームに下りたら、幸運にもロマンスカーが来て、ゆったり座って、帰ってきた。
今回もいろいろな歴史的な史実に出会うことができ、幸せな時間を過ごすことができたことに感謝して、終わりにする。
1日目 自宅から三島 18020歩(約9㌔)
2日目 三島から沼津 24992歩(約12,4㌔)
ゴールデンウイークの真っただ中、久しぶりに東海道珍道中を行なった。
前回は確か10月の終わり頃であったので、半年ぶりの再開である。
その間いろいろなことがあったが、こうしてまた歩けることを幸せに感じている。
今回は、三島から沼津を歩くのがメインで、箱根から三島まではバスで通る計画を立てた。
以前書評で「北条氏が一族の存亡をかけて豊臣軍と戦った山中城」という見出しを見つけた。
この辺(八王子から相模原・座間一帯)を領主としていた北条氏照(しかも北条氏照は娘にお化粧料として上溝や下溝を与えた)が建立したという。かねてからこの辺を治めていた氏照に興味をもっていたので、その人が建てた山中城なので、是非とも見てみたいという願望はあった。しかもそれが東海道の箱根口に建てられ、また東海道を跨ぐ形で建立してあるというので、好都合である。
だから山中城を見て、三島に泊まり、次の日に三島から沼津へのウオーキングを行うことを大まかな計画をたて実行した。
果たして、大正解で、この山中城の堀の凄さを感嘆するとともに、天守閣などの派手さはないが、自然の地形を利用しての構築は素晴らしい。また、それ以外にも歩いていると、そこかしこに、歴史的なエピソードが、散りばめられ、二人とも大いに盛り上がり、過去の史実とのつながりを確認する旅となった。
中でも韮山に行ったときに流れていた狩野川が沼津でも流れていて驚いた。どうも伊豆の天城山から韮山を通り沼津に抜けているらしい。韮山では、頼朝の元妻であった八重姫が頼朝との別れを悲観して身を投げた川であり、沼津では、市内をゆったりと流れ、沼津城本丸跡のところにも流れていた。
また、後醍醐天皇の皇子である護良親王の名前が出てきたときには、その護良親王の首を洗ったという井戸を保土ヶ谷で見ていたので、私たちの中で憶測が飛び交い盛り上がった。それが、見出しにも書いてある「白馬伝説」が関係してくるのである。
そしてまた、頼朝や義経・政子と歴代の有名人が関係している場所が出てくる。はたまた、歴史はつながっているなーといたく感心した私たちであった。
では、前置きが長くなったが、順を追って今回の旅を詳しく残しておこう。
まず、9時町田で待ち合わせ。小田急線で小田原へそして、箱根湯本へ。そこからはバスで芦ノ湖の元箱根へ。箱根湯本からのバスで元箱根までの行き方は何通りかあって、親切に声をかけてくれたバスに乗ったが、本来そのルートではない方に乗って行きたかったが、それによって、千ちゃんがこの道を歩いてみたいという希望が出て、箱根神社の宝物展にも前回遅くなって行けなかったこともあり、次回はこの道を歩いて見ようという話になった。何が功を奏するか分からないもんだ。
芦ノ湖の湖畔の元箱根から三島行きのバスに乗る。箱根峠を通り、途中で山中バス停で下車。
いよいよ山中城に入る。
看板に「山中城は戦国時代末期に、小田原に本城をおいた後北条氏が築城した。その後、秀吉と不仲になった氏政は、秀吉の小田原攻めに備えて整備増築を行うが、未完成のまま1590年、4万の豊臣軍の総攻撃にあい、北条軍4千で戦うもわずか半日で落城したと伝えられる。400年前の遺構がそのまま復元されている山城は全国的にも非常に珍しく、堀や土塁がよく残っており、尾根を区切る曲輪の造成法、架橋や土橋の配置など箱根山の自然を巧みに取り入れた山城の作り方など、目を見張るものがある。」と、あった。
なるほど、下調べの段階でも、この堀や土塁は有名で、果たしてどんな具合なのかわくわくしながら中に入った。入ってすぐに、堀の深さや土塁の高さそして、きれいに整地され、丁寧に計算して作られている感はあった。
中でも、今は植物が生えているが、当時は関東ローム層が剥き出しだったので、一旦堀に落ちてしまったら、その土塁を登ってくることはできないとあり、驚いた。
また、障子掘りや畝堀り等、ほんときれいに整備してあり、見ていると芸術品のようだ。素晴らしいと何ども感嘆してしまった。
また、そこで戦ってなくなった武将たちの墓が、三の丸の宗閑寺にあった。
城主松田康長、副将間宮康俊、それに豊臣家の武将一柳直末のもあった。死んだら敵も味方もないんだなーと思った。
そこで、バスの時間までだいぶあるので、遅い昼食をとる。冷やし山菜そばだったかな。非常に美味しかったのを覚えている。
次に、三嶋大社に行く。三嶋大社は伊豆の国の一の宮で、何事もこの大社を中心に行われてきた。本殿の前には、樹齢1200年といわれる「キンモクセイ」があった。なるほど巨木で古木である。
頼朝は源家再興を祈願して、100日もの間、毎日蛭が小島から三島に日参をしたといわれている。境内には頼朝と政子が座ったという石があった。
また、ここは頼朝が旗揚げをした地でもある。山木兼隆(政子の父親、北条時政が家の安定のために政子に無理やり嫁がせようとした男)を三嶋大社の祭礼の次の日に討ってから石橋の合戦に臨んでいる。
二人とも疲れたのか、資料館でビデオを見たが、知らぬ間に休息をとっていた。(#^.^#)
結婚式を上げている中、本殿で手を合わせてから、三嶋大社を出る。
鳥居をでると、そこが東海道である。
三島は、富士山から流れ出た溶岩の隙間から富士山の雪解け水が噴き出し、この水が町のそこかしこに流れている、富士の湧き水の町である。公園には湧き出しているところが分かるように、綺麗な池が整備されていた。
湧き水を飲ませてくれるとこらがあり、その水を飲んだら、まったりした飲みごたえであった。
ここで、一日目は終了となる。
千ちゃんが予約してくれたホテルに行き、荷物を置いて、夕飯を食べに行く。三島はうなぎが名物だと千ちゃんが調べてきてくれたからそれを食べようと物色したが、高い。結局、三島駅前の安価な食事処で「おち定食」を食す。それにはそばがついていて、昼に続きそばを食べる。私はやっぱりそばが好きだ。
今日は日曜日、「平清盛」は見ようということで、早めに切り上げ、ホテルへ。
一緒に見たが、二人とも疲れていたのかだんだん目の皮がくっついてくる。
年には勝てない。
二日目。十分に睡眠をとったせいか、食欲がわく。それにバイキングの朝食が、料理が豊富で美味しい。お皿に少しづつ料理を取り、ほとんど全種類を食べてしまった。
このビジネスホテル、値段も安く(一泊5100円)部屋もきれいで、駅からも近い。
いいホテルを予約してくれました。ありがとう。
では、今日はいよいよ三島から沼津まで歩く。
まず、三島駅近くの寿楽園へ。ここは、明治維新で活躍した小松宮彰仁親王親王が別邸として造営されたもの。富士山からの湧き水が出ている池や郷土資料館があり、動物園もありと市民の憩いの場となっているのだろう。
資料館では三島宿の当時の様子が分かりやすく書かれたものが掲げられていたので、「写真を撮ってもいいか」と尋ねたら、親切にもカラーコピーして渡してくれた。また、当時の東海道や三島宿の様子がよくわかる冊子が300円(安い!)で売っていたので、買ってきた。中を見て、驚いたのは、「旅行者が見た三島宿」という項目があり、1691年ケンベルというオランダ人?が長崎から江戸を往復しているし、有名なシーボルトも1826年長崎から江戸に行ってその途中三嶋大社等を見ている。なかなか面白い本を買えた。
楽寿園を出て、しばらく歩いていると、千貫樋(せんかんとい)なるコンクリートの樋が川の上を通っていた。これは今川・武田・北条の和睦が成立し、北条氏康の娘を今川氏真へ嫁がせるときに、氏康が引き出物として、小浜池(寿楽園内)から長堤を築いて、その水を駿河の方へ疎通させるために造ったという。その用水がたくさんの田畑を潤わせたことでしょう。
しばらく歩くと、一里塚があった。道路を隔てて別々の一里塚があった。江戸から29番目、約116㌔にあたる。
また、しばらく歩くと、八幡神社がある。ここが、頼朝と義経が対面したという「対面石」がある場所である。
桜並木が連なる参道を歩いて本堂へ至ると、その左手裏に石が二つ向かい合って並んでいる。
富士川の合戦のためにこの八幡神社に本営を造営した頼朝に、挙兵支援のために、はるばる奥州よりかけつけた義経との対面の場所だという。面白いことに頼朝が座ったという石の脇に、柿の木が生えている。対面時に食べた柿が渋かったから頼朝が横に捨てたのが成長したとある。それに、よく見ると幹が、よじれてねじれている。
これからの二人の関係を暗示しているようで面白かった。
次に行ったのが、黄瀬川脇にある智方神社である。
資料には護良親王が幽閉されていた鎌倉で、北条時行が挙兵したので、逃げる尊氏が弟の直義に護良親王の首を討つように命令し、それを受けて淵辺義博(淵野辺の武士である)が首を討つ。がなかなか刀が抜けずに茂みに捨ててしまう。それを待女が都までその首を持って帰ろうとするのだが、結局黄瀬川手前のこの地で、首を葬り祠を建てたというのである。護良親王の名前が出てきたことで色めき立ったが、ちょっとどうなのかなーと眉唾物を感じながら、奥の方へ行ってみた。
なるほどお墓もきちんとあるし、その時に植えたクスノキもある。
まあこんなものかなーと出ようとしたが、千ちゃんがどうも気になるようでもう一度看板を読み直している。そこで二人でもう一度看板をそれこそ30分近くその看板を読み砕いていただろうか。
そこで、やっと分かった結論は、その首を持ってきた待女は護良親王が葬られていることをカムフラージュ(隠す・当時は源氏の世)するために、足利=源氏方=白旗=白馬という流れをこの神社の名目にした。白馬伝説としてここは源氏方の神社だとし、600年近くそれを隠し通したということである。ホントか嘘か看板にはそう書いてあった。
鎌倉で討たれた護良親王の首を奪回した家来たちは(保土ヶ谷の首洗い塚ではこう書いてあった)、追っ手をくらますために、待女には険しい足柄峠を首を持って越えさせ、家来たちは馬で東海道(当時はまだこんな整備はされていなかったと思われる)を来たのかもしれない。
そんなことを二人で考え、歴史の面白さを感じながらこの智方神社を出る。
黄瀬川の橋を渡ってしばらく行くと、潮音寺なる寺があった。境内には亀鶴姫の石碑がある。この亀鶴姫は曾我兄弟の十郎と付き合っていた虎御前と並び称されるほどの美人で、兄弟が工藤祐経の仇討ちに入ったとき(頼朝が催した富士の鷹狩りである)、祐経に招かれていた白拍子(しらびょうし)だという。でも、説明看板には頑なに断って、黄瀬川で身を投げたとある。どちらが本当か。
以前読んだ「曾我兄弟の密命」にそんな描写があったような、なかったような。
でもこんなところにも何かしらの繋がりがあり、驚いた。
いよいよ沼津宿に到着である。
沼津には沼津城跡がある。
東海道からそれて、沼津港へ行く。
こんなに観光地化されているとは知らなかった。
展望台ができて、そこからの眺めは素晴らしく、駿河湾や千本松原も見渡せた。
雲がかかって富士山は見られなかったが、それでもこの眺めは一見の価値がある。
展望台近くの沼津魚市場食堂に入り、「さしみ定食」を食す。生しらす・生小エビの美味しいこと。さすが本場もんは違うと実感した。あまりの美味しさに、思わずご飯と味噌汁はおかわり自由というので、一杯ずつしてしまった。食べ過ぎてお腹が重くなった。
そういえば、この食堂の入口にここにきて食事したという、たくさんの有名人の写真が貼ってあった。その一人に野田首相がいた。
私は野田首相と同じものを食したのかもしれない。
お土産に開運ステッカーをわざわざ沼津観光センターを探して買ってくる(そこしか売ってないというので)。でもそこでのおじいさんがすごく親切で、東海道が載っている沼津の地図を探して渡してくれた。ありがたい。
沼津港から沼津駅までは意外と道のりはある。本陣跡を見ながら歩く。
沼津駅から東海道線に乗って帰ってきたが、意外と時間がかかる。茅ヶ崎から相模線で帰ろうとしたが、やはり小田急線のほうが早いと気がつき、藤沢から小田急線に乗りかえようとホームに下りたら、幸運にもロマンスカーが来て、ゆったり座って、帰ってきた。
今回もいろいろな歴史的な史実に出会うことができ、幸せな時間を過ごすことができたことに感謝して、終わりにする。
1日目 自宅から三島 18020歩(約9㌔)
2日目 三島から沼津 24992歩(約12,4㌔)