wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

さすが「天下の台所」・大阪

2013-03-30 11:27:07 | 旅行記
平成25年3月26・27・28日 

三男の高校卒業で、私たちも一応の区切りを迎える。
その記念として、どこか旅行でもということで、三男はどこでもいいというので、私の希望で、大阪城、それとそこまで行くなら、以前面白く読んだ「プリンセス・トヨトミ」の舞台にもなった空堀商店街、それと戎橋にある有名なグリコの看板やかに道楽の動くかにも見てみたいということで、大阪に行くことにした。
    

探してみると、意外と安く行けるものがあって、2泊3日、往復新幹線で、梅田の繁華街のビジネスホテルに宿泊して、一人約25000円で、家としてはこれくらいなら大丈夫である。

この3日間、行きたいところは行けたし、それに、仁徳天皇陵四天王寺にも行った。
  


大阪はやはり、活気のある街で、さすが、「天下の台所」といわれているだけあって、食べ物屋が多かった。一日目の昼は、通天閣の近くにある、ふぐで有名な「づぼらや」で「ふぐかつ」を食し、夕飯はホテルの近くの串カツ屋に入る。2日目の朝は、うどんで、おそい昼は、御堂筋商店街のこれまた有名な「自由軒」の卵がのっている「カレー」にして、3日目の昼は大丸の中にあるお店の「お好み焼き」を食べた。一応、大阪で食べたほうがいいといわれているものは、食したことになる。どれも、なるほどという感じだ。
      

この心斎橋から難波に行く通りに、阪神ファンが飛び込んだという戎橋があるのだが、そこの通りの賑やかだったこと、平日とは思われないほどの混み様で、通りいっぱいに人が歩いていた。

それにいろいろなお店が軒を並べていて、間口は狭いが、奥行はあって、どのお店も、人を惹き付ける店構えで、見てるだけで、楽しくなる。また、今回はいけなかったが、ここの通りは、芭蕉終焉の地とか適塾とかもあり、また行きたい場所である。

では、順を追って、行った場所を残しておこう

まずは、仁徳陵である。
5世紀位にここに住んでいた豪族が自分の力を鼓舞するために作ったとされる。
ここは周囲約3キロあり、世界一大きいお墓である。
2000人の人が約16年かけて造ったと書いてあった。周りを歩いたが、疲れた。中には入れないように周囲を金網で囲っていた。入っていたのは、猫と白鷺?らしき野鳥だけである。
ここは百舌鳥古墳群(もずこふんぐん)といって、そこかしこに古墳があって、家屋の庭にそこは手をつてられないという感じで、囲ってあった。
        


次に、住吉大社。ちんちん電車のレールが正門の前を走っていた。大阪を代表する神社で、関西1・2を争う参拝数であるということである。
     

2日目はいよいよ大阪城である。
さすが、秀吉が作った豪華絢爛な城である。織田信長が明智光秀に討たれたあと、天下覇権を継いだ秀吉が石山本願寺跡地に築城したのが、初代大阪城である。だが、夏の陣で焼失してしまい、江戸時代になってすぐに再建はしたが、1665年には、落雷で全焼してしまったらしい。以来天守閣がない城としてあったが、ここに建っているのは、明治になって、大阪市民の寄付で再築されたものであるという。
お堀の凄さは格別で、何重にもなっていて、やはり家康がこれを埋めさせたのもうなずける。これがあると手ごわくて、なかなか攻められない。
         

信長が、石山本願寺との争いで勝って、立ち退かせた後に、秀吉がここに造った。
  

城の近くには、太閤神社があって、秀吉を祀っていた。
 

城の中に入ると、エレベーターがあり、5階までは一気に上れる。それから天守閣までは階段で、上る。その中に、秀吉の経歴冬の陣・夏の陣での攻防等が詳しく展示されていたり、大きなスクリーンには、夏の陣当時、描かれた絵巻を詳しく説明するビデオが流れていたりもした。
さすが、日本第2の都市大阪での展示物である。見応えがあり、分かりやすかった。

一つ資料を見て、驚いたのは、1584年の小牧・長久手の戦いでは、家康は織田信雄を援助して秀吉と戦う。秀吉側の池田恒興はそこで敗れ、死亡する。その子の池田輝政は、北条氏直の妻であった家康の二女の美姫(よしひめ)と氏直の死後、結婚する。池田と徳川の穏やかならぬ関係を是正しようと秀吉が再婚させたというのである。昔はこんなことが数多あったのだな~。でも、この美姫は5人位?男の子を輝政との間にもうけているのである。思ったよりいい関係を築けたのかもしれない。

写真を撮ってきたので、ここに貼り付けよう。
最初に、冬の陣での徳川方と豊臣方の各武将である。
                          


秀吉の経歴である。
                   


次に、戦国時代の年表である。
      


大阪城の天守閣から見た景色である。
  


秀頼と淀の方が、もう戦局が迫って、自害したという場所も大阪城敷地内にはあった。
  


冬の陣・夏の陣では、真田幸村が活躍した。大阪城を守るために真田丸という出城を作り、そこには、大阪城から抜け出すための抜け穴をも作ったとされる。そこも見てきた。
玉造の駅の近くの三光神社と心眼寺にそれはあった。ここは大阪城から少し離れていて、主人は足が痛いというし、子どもたちは私に付き合うのは嫌だというので、まあその前に、空堀商店街に行く時に、ずーと歩いていたので、仕方ないかと思い、私一人で行く。実際抜け穴を見たときは、感慨深かった。
      

「プリンセス・トヨトミ」の舞台になった空堀商店街は、谷町6丁目というところにあり、大阪城から歩いた。
作者の万城田学さんはここの出身だそうで、昔大阪城からの抜け穴みたいなものがあり、それを見てこの物語の構想が出来上がったみたいなことをあとがきで書いてられた気がする。
いろいろな人に聞きながらやっと着いたという感じであったが、何だか普通の商店街で、特別な意味合いは感じられなくて、ずーとその商店街の入口から出口まで、500mほど歩いた。
でも、最後に入った喫茶店で、詳しい資料を見せてもらって、やっと舞台になったお好み焼き屋が通りからちょっと入ったところになることが、分かって、なるほどと感じもう一度通りを歩いた。実際にこの商店街が撮影場所であったという。
     

大阪歴史博物館は難波宮があったところである。上から見るとよくわかった。
     

最後に、四天王寺に行く。聖徳太子が立てたお寺で、仏教の総本山的なところである。
    

雨が降ってきたので、資料館に入る。そこには、仏様の御加護ですと書かれた、傘があって、傘がない子どもたちはその加護を受けてきた。
入ってすぐに、大きな太鼓が左右に展示してあった。それは牛の皮一枚で貼られた、秀頼が再現した舞楽用の太鼓が目をひいた。

一番興味を持ったのは、後醍醐天皇の手形を見られたことである。聖徳太子が書いた本を読んでいたく感銘した天皇は、それを書き写し、手形を押している。
  

ほかにも、戦いの神である毘沙門天が展示してあって、グループでいう場合は多聞天というようなことを話していた。
また、家康は関ヶ原の4日後に「朱印禁制」を四天王寺に対して出す。禁制というのは支配者が寺社や民に対して禁止する事柄を広く知らせるために出すもので、武士たちの狼藉を禁じたものであるらしい。それも掲げてあった。
その他にも石棺や弘法大師の像等もあった
      

さすが、四天王寺は古いお寺で、五重塔もあり、荘厳さを兼ね備えた、日本人の心の拠り所と感じられる場所であった。

大好きな富士山は行きも帰りも、雲の中から頭だけを突き出していた。
  


二男にどこが一番思い出に残っているかを聞いたら、「仁徳天皇陵」だという。何でだと聞いたら、「この陵の中は独特な生態系がなされているところが、面白い」とか何とか言っていた。でも現在は猫や鳥は自由に入れたから、生態系の頂点は猫かもしれないね。不思議な子だ。
ちなみに、三男は、串カツが思い出だそうだ。やはり、食べることにはおしまず、たこ焼きやまんじゅうなどちょくちょく食べて、3キロ太ったと言っていた。それに、難波のブックオフは品数が少なかったとも言っていた。

また、三男は京都に行きたいお店があるとかで、私たちと離れて、一日目は京都駅で降りて、ひとりで行動した。今は行きたい場所に検索して行けるので、それに携帯でつながっているので、あまり心配なく手放せる。

こうやって気ままな旅行ができることは、みんなが元気で仲良しだということである。そういうことに感謝して、今回も筆を置くことにしよう。
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「鎌倉ミステリー紀行」が私のバイブルになった。

2013-03-23 11:30:34 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成25年3月20日(水)、

この斎藤 栄さんが書いた「鎌倉ミステリー紀行」(かまくら春秋社)が私の歴史好きを刺激している。

     



2月に鎌倉へ行った時、東慶寺に行ったり、源氏山に行ったり、鎌倉文学館に行ったりした。

その文学館で「ミステリー小説家」として、また、鎌倉にゆかりのある作家として、この斎藤栄さんが紹介されていた。

帰ってから早速、図書館にリクエストして、借りたのがこの「鎌倉ミステリー紀行」である。

あまり期待して読んだわけではなかったが、読み始めると、今まで歴史の断片に接してきた知識が、つながる快感を経験できてホント面白かった

是非、このブログに 載せておいて、実際に訪ねてみようと思う。

大船にある常楽寺」   

 三代目の執権北条泰時が妻の母の菩提を弔うために建立した寺。

 木曽義高の首塚もある。この義高は、木曽義仲の長男であり、頼朝の娘婿である。非情にも頼朝は、義仲を殺すと、すぐさま、家臣に命じて、婿の首を切ってしまう。冷酷である。

実は政子は、娘の大姫が恋したこの義高をふさわしいと思っていたが、頼朝は政子や大姫の気持ちを察せず、また、生かしておいては危険と感じて義高を殺す決心をする。それを察知した大姫は義高を女装させて逃がすが、家臣の藤内光澄が追って殺してしまう。これを聞いた政子は「忠義づらして私に連絡なしに討ったからよ」とこの藤内の首を切ってさらし首にしたという。何とも哀れな武士である。

 また、泰時は、かつて歩いたことのある「朝比奈切通し」を開いたとされている。私が歩いた時は、和田義盛の三男、朝比奈三郎が作ったと書かれていた。大男で稀に見る力持ちであっ たから、この切り通しを開いたのだと。だが、実際は和田合戦が終了してから27年も経ってからつくられているし、この朝比奈三郎はこの和田合戦後行方不明になっているというのだ。でも、名前だけは使われて残っている。

 なぜなのか。斎藤氏は、このことを、この朝比奈三郎の母は義盛の妾で、巴御前といい、とても大柄な女で、安房ノ国の大陸系の人が住むところで育ったとされ、そこから生まれた三郎は、日本人離れした武将で北条に恐れられていたのではないかということだ。だから追及されずに安房国に逃れられた。でも、みんなに知られていて、人気のあったから、江戸の人が付けたということだ。

 ちなみに、その朝比奈切り通しにあった「刀洗水」は、梶原景時が、上総介広常(かずさの すけひろつね)を切った時、その刀を洗ったとされる。確かにちょろちょろ流れていた湧水があった。



西御門にある来迎寺そばの太平寺

 鎌倉尼五山の一つで尼が住職をしていた禅寺。尼寺は今では東慶寺だけが残っている。

 そこの住職の青岳尼は、古河公方の血を引く、足利義明の娘として生まれた。現在の千葉市あたりに小弓城を持ち、楽しい生活をしていた。ところが父義明は、北条氏綱に敗れて戦死する。そして、娘二人は鎌倉に連れてこられて尼になる。

姉を青岳尼といい、妹を旭山尼と称して、それぞれ太平寺、東慶寺の住職となる。その時おそらく青岳尼は七・八歳であった。そして20年近い歳月が流れ、この間二人は父親の菩提を弔った生活をしていた。

この時31歳になっていた、かって青岳尼の許嫁であり、義明を支えた有力武将であった里見義弘は、何と20年も経ったのに突然、軍艦80隻をつらねて、鎌倉に侵攻して、真っ先に太平寺に突入し、青岳尼を奪い去り、安房国へ連れ去ったのである。そして、還俗させて自らの妻として、晩年まで楽しく過ごしたということである。後北条の3代氏康が、旭山尼宛に手紙を書いているので、ほんとのことなのだろう。すごいロマンスである。愛の強さである。

そして、東慶寺には、太平寺ゆかりの聖観音菩薩立像が あるという。この仏は、かつて太平寺の本尊であったものを、青岳尼は安房国へ持っていった。ところが、その翌年に、旭山尼が急逝してしまったので、妹の供養のために、この仏を東慶寺に渡したという経緯がある。

先月行った時に、こんなことを知らなかったので、この立像を確認できなかった。是非もう1回行って、見てみたい像である。

また、この里見義弘は、滝沢馬琴が書いた、「南方里見八犬伝」の主人公のお父さんでもあるという。主人が言っていた。ほんとかな~

③実相寺  工藤祐経の屋敷。平家の旗頭平重衡は一の谷の戦いで捉えられて、鎌倉に連れてこられ、この屋敷で、遊女(千手の前)を与えられて、優遇される。それはあとで、南都焼失の責任者として処刑されるための、頼朝の画策であった。

④英勝寺  扇ガ谷上杉の家宰、太田道灌が住んでいたところとされている。

⑤補陀洛寺  本堂の不動明王は平家を呪い殺すために作られた。
       頼朝自作の頼朝像がある。
       平宗盛が持っていた赤旗がある。
       文覚上人は藤原秀衡を祈祷して殺したといわれている。


あまりにも、知識が多いので、これは本を買って手元に置くことを二人で考えた。
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