wakuwakuな生活

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小早川秀秋は家康と密約していた

2016-06-26 14:24:19 | その他
平成28年6月26日(日)、梅雨の晴れ間の蒸し暑い中、
「小早川秀秋 裏切りの真相」という歴史講演会が、古民家園で行われるというので、行ってきた。

徳川家康の確認から豊臣秀吉との関係、小早川秀秋の確認、関ヶ原での東軍西軍の配置等、細かく説明して下さり、その度々に、それに纏わるうんちくを散りばめていて、1時間半がとても短く感じられた講演会でした。

        

まずは、資料を載せておく。

簡単にいうと、小早川秀秋は石田三成を裏切ったと私は思っていたけれど、そうではなく、さんざん秀吉には辛酸を舐められていて、豊臣家憎しと思っていた。秀吉の死後、五大老である家康には旧領・筑前30万石を拝領され、恩義も感じていた。そんな中で、家康と密約し、表向きは西軍でも心の中では、東軍側に汲みすると分かっていた。それに、吉川家も毛利家を動かさないと分かっていたから、家康は関ヶ原の真ん中まで出てこられたんだと納得いった。実際、関ヶ原に行ってみると、何でこの布陣(東軍を挟み撃ちできる)で、西軍が負けるのか不思議に思っていたから。

この小早川秀秋は、政所の兄の子供であり、幼少の頃から、継承者として重宝されたけど、秀頼が生まれてからは、小早川に養子縁組させられたり、朝鮮出兵で、大将になったが、三成に疎まれ、三成の言によって減封させられたり、散々な目にあう。秀吉・三成憎しと思っていた一人である。

また、まだこの関が原の時は、家康は、5大老の筆頭で、一番家督を多く持っていたけれど、豊臣家の家臣であった。その立場で、上杉征伐をしている途中で、石田三成の反乱を知って、取って返す。

この時、淀君は「石田三成を退治してください」と、家康に手紙を書いたと言われている。だから、あくまでも、この戦いは豊臣家の家来同士の戦いなのである。

小牧長久手の戦いで、家康は勝っていながら、実際は上洛して、秀吉に臣下の礼をとって、苦渋の選択を強いられている。早めに、家督を秀忠に譲って、駿河に隠居しつつ、豊臣家が台頭してこないように、目を光らせて、徳川家の磐石を狙っていて、大阪の陣につながるのである。

徳川260年の流れの中で、小早川秀秋が裏切り者とレッテルを貼られた。歴史は勝者の都合の良い方に作られるのである。
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2 コメント

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関ヶ原の戦いは続いているね (nikoniko)
2016-07-11 10:11:33
興味は尽きない・・・わかちゃんの「関が原の戦い」は続いているねえ。歴史は勝者によって塗り替えられるという考え納得です。所詮、小早川秀秋はそこまでの人だったんだね。真田丸を見ていると、甥っ子の三人が秀吉の権力に怯え苦しむ様子がよく分かる。真田丸の秀秋が、今後
ドラマの中でどう描かれるのか注目していきたい
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Unknown (みなちゃn)
2016-07-23 23:55:50
真田丸の小日向文世演じる秀吉、好評ですね~。秀吉に命を奪われた人、翻弄された人たくさんいるんでしょうね。真田丸では、追い込まれていく秀次の心理が丁寧に演じられていた気がしました。小早川秀秋の生涯も・・・。秀秋は秀吉を恨んでいたのか、家康に恩義を感じていたのか・・・?大変な生涯だったんですね。
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