wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

荻野山中陣屋跡と厚木七沢要害

2016-01-11 16:21:14 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成28年1月11日(月)成人の日でお休みで、「1」が3つ並ぶ、めでたい?日に、今年に入って、3回目の史跡巡りをした。
子どもが独り立ちすると、親は暇になるな~

近くにこんな城跡があるなんて、驚いた。

一番驚いたのは、一週間前に行った、「鉢形城」の城主、山内上杉氏が、太田道灌が亡くなった2年後に、扇谷上杉と戦うために、この七沢要害まで、1千の兵を引き連れて、攻めにきたということだ。ブログに書いてあった。
鉢形城(埼玉県本庄市)と七沢城(神奈川県厚木市)と遠いのに、ここまで引き連れて、来たんだと思うと、戦いの大変さが伝わって、感慨ひとしおである。

七沢病院の正面に碑がある。小高い丘の上にその病院があり、なるほど、昔はここに城を構えて、下から上りくる兵を防御したりして、攻防上で重要な所だったのだろう。
      


荻野新宿にも行った。ここには、荻野山中城があり、江戸時代、小田原藩の大久保某がここを治めていたらしい。前に聞いた話によると、ここに陣をおいたのは、徳川家康の鷹狩りの為だとか。
もう昔の面影は、ほとんどないが、昔はきっと民家もなく、木々がうっそうとしていて、鷹がいてもおかしくないかもしれない。
また、この近くの日吉神社(ひよしじんじゃ)では、松尾芭蕉が句を残していて、碑があった。確かに、大山街道が通っているので、芭蕉が訪れてもおかしくない。
「ほととぎす まねくか麦の むら尾花」
「旅人と 我名よはれん 初時雨」
ネットで調べたら、芭蕉はこの地に何回も来ていて、たくさんの句を残している。
碑に書いてあったのが、下の「旅人と ~」の方である。

                


その後、テレビで「海老名サービスエリア」で、美味しいソフトクリームがあるとやっていたので、近くまで来たので、食べに行く。でも、そのソフトクリームは、「下り」にあって、「上り」に行った私たちは食べられなかった。
高速に乗らなくても、入れる行き方を発見したので、次回は行ける。
とにかく混んでいて、座るのがやっとなくらい。

最後に、磯部の方へ行ったので、「勝坂遺跡」に寄ってきた。広い敷地が、ただあるだけで、歴史的価値はあるのかもしれないが、もったいないな~と感じてしまった。
湧水が豊富にあり、集落を形成するのに、よい立地条件だったという。
     

今年のお正月は、天気がいいので、お出かけ日和である。 
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埼玉の五十子陣(いかごのじん)と鉢形城跡へ

2016-01-05 12:08:38 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成28年1月4日(月)、暖冬といわれる今年の冬。
沖縄の方では、20度を越す夏日となり、東北の方は、雪が降らずに雨となっているという、そんなお正月。
 
 私は、今年も好きな歴史探索をするぞーとばかり、また、この天気も相まって、埼玉の方へ繰り出した。

 圏央道が開通し、私の家から、ほんの15分足らずで、「相模原愛川インター」へ行ける。スマホで検索したら、埼玉県の本庄市(五十子陣がある)に、1時間33分で行けるとある。埼玉がこんな近くになったんだな~と感じながら、ぜひ、昨年話を聞いた「戦国さがみ いろいろ城物語」で、興味を持った、五十子陣や鉢形城跡に行ってみたくなって、主人を拝み倒して、車で連れて行ってもらう。

 果たして、「五十子陣跡」は全く確認できなかった。偶然にも、車をとめた、閉店したお店のところに、「桑茂る 五十子合戦 古戦場」という地元の人たちが作ったとされる「ほんじょう かるた」があって、かろうじて、この辺がそうなんだな~確認できた。この辺りは、桑畑が広がっていたんだ~。蚕でも飼っていたのかしら?平地が広がっていた。

この地で、利根川を挟んで、古河公方と山内上杉氏が対立して、戦場になったのだ。
何しろ、だだっ広い平地だ。ここなら合戦ができるだろうなと感じながら、車を走らせて、「岡部道の駅」で昼食を食べる。
 
そこは、中山道の「本庄宿」で、皇女和宮が、泊まった本陣宿があると、看板が出ていた。
      


車で走らせること30分の所に、鉢形城跡(寄居町という所)があるという。
長尾景春が築城し、北条氏康の四男氏邦が整えた。壮大である。ド肝を抜かした。
氏邦は、秀吉の小田原攻めの際、この鉢形城で籠城し、負けた。だが、前田利家の嘆願により一命は許され、加賀金沢(今の七尾)で、一千石の知行を得たという。へえ~。人望があったのだろう。
建物はなく、曲輪が残っている。
外曲輪、三曲輪、二曲輪、本曲輪と、神社も備わっていて、家臣が諏訪神社から分拝したらしい。この神社を氏邦も参拝したかと思うと、感慨ひとしおである。
本曲輪のところには、何やら老人施設の建物があって、ブログのような、本丸跡は確認できなかった。
また、休憩所のところに、家紋が掲示してあって、姫路城で見た池田氏と同じ蝶の家紋が、大道寺氏の家紋と掲示されていたのに驚いた。池田氏の中でも家紋はいろいろあるらしい。
                
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磯部城 ン! どこにあるの?

2016-01-04 08:49:22 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成28年1月3日、今年初の歴史探索は、地元にしました。

以前行った「戦国さがみいろいろ城物語」の講演で、旧相模原には、歴史的に認められている城は、この「磯部城」だけだと、いう話を聞いて、是非行ってみたくなり、

今年は、息子の都合で、年末31日に、年越しと年始を一緒に済ませている(親戚一同何と総勢18名が集まりました)ので、

時間的に余裕ができ、行くことができました。

磯部城のブログに沿って、「御嶽神社」「能徳寺」「上磯部の土塁」と行ってみましたが、あまり確認できなかったのが、現実です。
確かに、古い集落だなという感じがありますが、もうだいぶ開発され、古いものはだいぶ失くなって、新しいものに変わっていました。
相模川のすぐ脇に土塁があると書いてあったので、行ってみましたが、はっきりと確認できなかった。
でも、少し歩いてみると、この磯部城は、神社からお寺、そして、土塁まで、だいぶあったので、かなり広い敷地を持つ「平城」だなと感じました。
       
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