wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

義経終焉の地  平泉

2013-08-20 09:37:40 | 旅行記
平成25年8月14.15日   JTBのツアーで
「平泉5つの世界遺産めぐりと日本三景松島・旅物語貸切クルーズ2日間」
に行ってきた。
一度は行ってみたいと思っていた平泉に格安で行けるので、申し込んだ。

一番の思い出は、以前テレビで見た「高館義経堂」(たかだちぎけいどう)に行けたことである。

義経が、頼朝の圧迫に耐え切れなくなった藤原秀衡の子の泰衡に追い込まれ、妻子とともに自刃したとされているところで、
それに、その自刃から約500年後にこの地に立ち寄った芭蕉は、藤原三代な栄華も今は田野に成りて、金鶏山のみ形が残っている。高館に上れば、北上川は昔と変わらず流れている。そんな風景を見て「国敗れて山河あり、城春にして草青みたり」と感じて、有名な句「夏草や 兵どもの 夢の跡」を詠んでいる。
また、芭蕉は、義経の家臣で勇猛果敢に戦った兼房を思って、「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」とも詠んでいる。
                     


1188年   泰衡に後白河法皇から義経追討の院宣が下る
1189年4月 義経 自害
1189年7月 頼朝 大軍を率いて進発
1189年9月 藤原氏滅亡

1689年   芭蕉が平泉に弟子の曽良と「奥の細道」の旅で寄る

パンフレットには、この場所は記載されていなかったので、行けないなと思っていたが、実際行ってみると、中尊寺から歩いて10分くらいのところにあって、自由時間のあいだに行くことができた。私としては、念願のこの場所に行けたので、十分に満足できた旅行であった。

あとは、順番に写真を貼り付けておこう。
まずは、一日目の松島である。
芭蕉が「松島や ああ松島や 松島や」と詠んだところです。

松島は津波の被害にあまり受けなかったようで、瑞巌寺(伊達家の菩提寺)にいく参道に、津波到達地点の立札があった。
瑞巌寺の宝物館では、支倉常長がローマから持ってきた「ガラス細工の蝋燭台」展示されていて、ひときは目立っていた。

松島のクルーズではかもめが餌付けされていて、かっぱえびせんを手から直接あげることができた。
突き出た島に「五大堂」が建てられていた。「五大堂」では東北遠征を祈願して、坂上田村麻呂が毘沙門天を建立して納めたという。
                 


宿は宮城蔵王温泉である。随分奥深く蔵王のスキー場まで行った。辺りも暗くなり、シーズンオフだから安く泊まれるのも仕方がないが、ここまで行かなくてもと思った。

2日目はいよいよ世界遺産の平泉である。
まず、世界遺産一つ目の毛越寺(もうつうじ)、二つ目の旧観自在王院庭園(きゅうがんじざいおういんていえん)にいく。
                  


世界遺産3つ目 無量光院跡地 ここはほんとに草ぼうぼうで、藤原3代の時は平等院の極楽を真似て造られていたそうだが、今は昔という感じである。
そこで一句 「さらし野の 栄華も今は 夢の跡」
       


世界遺産4つ目は、金鶏山である。車窓からの見学であったが、これはよく分からなかった。


最後5つ目は有名な中尊寺金色堂である。写真もある
              


中尊寺の駐車場のところには、「マルコポーロが黄金の国といったのは、この平泉のことである」と大きく石碑に刻まれていた。
確かに中尊寺の金色堂は素晴らしかった。あれだけの金を使えた財力はいかがばかりか、想像できない。頼朝はつぶしに来たが、あまりのものにすぐに保護をしたと書いてあった。
また、伊達政宗は松島にも行っているし、毛越寺や中尊寺等にも偵察にきて、寂れたところを修理や整備をしている。伊達政宗の功績大である。

1日目  9918歩
2日目 14698歩      歩く。 

今年の夏は、数多くの歴史に触れることができている。
歩いても本を読んでも。
こういうのを幸せと呼ぶのだろう。
感謝してやまない。
コメント (4)
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秀頼に子どもがいた!

2013-08-18 10:43:45 | 読書日記
鎌倉にある「東慶寺」に行ったとき、面白そうな題名の本が置いてあった。
「豊臣家最後の姫 天秀尼の数奇な運命」三池純正著
  

立ち読みしてみたら、母親は千姫ではなく、側室の子であるという。それも年子で、男児国松、女児泰姫とある。なるほど面白そうである。

帰宅後、図書館でリクエストして、今回ゆっくりと読み、堪能した。

秀頼は、秀吉と浅井長政とお市の長女として生まれた淀君との間に生まれた男子であり、秀吉の後継者である。その秀頼は家康の孫の千姫と結婚するが、まだ千姫は幼かったので、身の回りの世話を焼いていた女とのあいだに、子を儲ける。その子らが豊臣家の血を引く子らであり、世が世なら後継になっていた。

でも実際は、男児の国松は大阪の夏の陣後に、大阪城を抜け出し、傅(もり)役とはぐれ、彷徨っているうちに保護されたが、秀頼の遺児と知ると、京中を車に乗せられ引き回され、挙句に六条川原で斬首されたという。秀頼に似た、高貴な雰囲気を持った美少年であったと記述されている。その子が斬首される時に、「家康は約束を破って、父を死に追いやった」と叫んだという。運命を受け入れた賢い子だという印象を受ける。

一方、女児の方も、夏の陣後に大阪城を抜け出したが、やはり捉えられ、女というので殺されずに、尼になることで、子孫をつくることを許されずに、7歳から37歳で亡くなるまで鎌倉の東慶寺で過ごす。その子が後の天秀尼(てんしゅうに)である。そこで、こういう題名が付けられたのだろう。

千姫は、徳川秀忠と浅井長政とお市の三女として生まれたお江との間に生まれた女子である。秀頼の千姫との結婚は、秀吉の遺言で家康に託された政略結婚であった。秀頼11歳、千姫7歳の時という。

そいて、その4年後に(1607年頃)豊臣家の後継が生まれているのである。
10年間位は夫婦関係ははなかったとされる。
秀頼は浅井家の血筋を引いているようで長政に似て、体が大きくて筋骨豊かな人物であったようである。身の回りの世話をしていた女がその相手であるという。でもそのことは徳川家にも、千姫にも秘匿とされ、当時の記録には全く記されていない。

長男が国松、次の年には長女泰姫が生まれていて、どちらも淀君の妹の初に託されて、嫁ぎ先の京極家の家人が育てられていた。
   


大阪夏の陣の直前、今まで傅役や乳母に育てられていた二人が初めて大阪城へ連れてこられて、秀頼と対面。国松8歳、泰姫7歳の時であった。
半年位のほんと短いあいだの父子娘祖母との暮らしであったとされる。

千姫は大阪夏の陣の時に、布団にくるまれて、大阪城から脱出し、夫と義母の命乞いをしたが、叶わず、二人が自刃したことを知ると、しばらくは臥せっていたという。

その後、泰姫が保護されたと知ると、会いに行き、夫の遺児ということで、自分の養女にして、手厚く面倒をみることになる。東慶寺に行ってからもずーと付き合いは続いていた。

また、千姫はその後、本多忠刻と結婚し、子どもももうけるが、息子が3歳で、夫も31歳の若さで亡くなる。
その後、江戸城内で二人の菩提を弔う生活をして過ごしたという。

二人とも、辛いことを経験し、それを乗り越えて、生きてきて、通い合うものがあったのだろう

東慶寺の天秀尼から千姫(今では出家して天樹院になっている)に、二輪の美しい花が送られたという、記述が残されている。

その花を愛でながら、天樹院は
人は苦しみがないから、悩みがないから、笑顔になれるのではない。それに負けない心、打ち勝つ心をもっているからこそ、美しい笑顔を見せることができる。花も同じだ。幾重もの雨や嵐を突き抜けてきたからこそ、美しい花を咲かせる。」と悟ったという。天秀尼の懸命に自らの運命と闘っている、美しくも強き心を見て、自分も生きる励みを得たという。
         


淀殿と天秀尼の肖像画はよく似ている。目のあたりがそっくりである。

この思いを持って、もう一度東慶寺は訪れてみたいものである。

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浜名湖を歩いて感じた風の強さよ~

2013-08-17 07:26:57 | 東海道珍道中
平成25年8月10・11日 夏休みに入ったので、いつも利用している青春18切符を使って、ちょうど静岡県と愛知県の境、舞阪宿から吉田宿(豊橋)への、東海道53次のウォーキングを行った。

猛暑が続いて周りからも心配の声がかかったが、決行した。私たちはやっぱり歴史っぽいものに触れることが好きなのである。そして歩くことも?

とはいうものの、行くのには各駅電車だから、朝7時30分に電車に乗り、舞阪についたのは1時頃になっていたし、広重が描いた場所中心に行っているので、電車を利用できるところは多く利用しているので、そんなに歩いていないかな~?
もちろんあまり無理しないことを前提としている。

今回のメインは、浜名湖を歩いて渡ることと豊橋市にある二川宿にある昔のままに現存している本陣を見ることであった。
それはそれとして、楽しかったが、何よりも驚いたことは、その豊橋市二川本陣資料館では、特別展として「世界が絶賛した浮世絵師 葛飾北斎展」が開催されていたことであった。私は、このブログの一つ前に「北斎殺人事件」を読んで、いたく面白かったことを書いていたが、偶然にもその北斎が展示されているという。
この偶然を私は神様のお導きとしか考えられない。
  

では、静岡県舞阪から順番に書いていこう。

舞阪までは6時間近くかかって、電車で行った。

駅から舞阪宿まで日差しが強い中歩く。
歩きながら、この間テレビを見ていたら、芭蕉が奥の細道紀行がやっていて、そこでの紹介されていた句「草臥れて 宿かるころや 藤の花」を少し変えて、
「草臥(くたび)れて ひかげ求めて 虞美人草」と詠んだのを思い出して、千ちゃんに披露した。

東海道舞阪宿は江戸から30番目の宿場にあたり、東西交通を結ぶ(浜名湖を渡る)今切り渡しの渡船場だった。ここには、脇本陣が唯一、遺構として復元されていた。

説明おばさんがいて、「おる」「おらん」という言葉はここから西の言葉であると教えてくれた。また、この辺には山がなく、広重が描いた浮世絵は構図上、この方がいいから山を描いたんではと言っていた。なるほど、今切りの渡しのところに行ったが、山はなかった。そういえは、蒲原宿の浮世絵は大雪の絵だが、そのおばさんは70年間この静岡に住んでいるがあんな大雪にあったことがないとも言っていた。実際行って話を聞いてみないと分からないこともあるんだなと感心した。
                     


次に、いよいよ浜名湖を渡る弁天橋という橋が架かっていて、そこを渡って弁天橋駅から電車に乗って、新居駅に行くことにする。
とにかく風が強くて、ゴーゴーという音が始終聞こえていて、帽子を抑えながら、身を前屈(まえかが)みにしながら、ゆっくり歩いた。下を見たら、海が渦を巻いていて橋桁に絡みついているようであった。
渡ったら、正岡子規が上京するときに電車からこの弁天橋を見て詠んだという句碑があった。
     


荒井宿(新居宿)では、昔はここの船着場で降りて、すぐ関所で取り調べされたという。特に「入鉄砲と出女」は厳しい目を光らせていたという。三河の吉田藩の管理下に置かれていた。
                


本来は二川まで行きたかったが、ここで一日目終了。
宿は豊橋に千ちゃんがとってくれたので、電車で豊橋まで行く。豊橋は古くから「穂の国」と呼ばれていて、稲作が盛んだそうで、その多くは東京方面に出荷されている。

豊橋は思いのほか大きい町で、驚いたし、この予約してくれたホテルのサービスにも驚いた。何と、ドリンク(ビールも含まれる)とカレーがロビーの脇に置いてあり、自由にどうぞとある。今までいろいろなホテルを利用したが、こんなサービスは初めてで、疲れた暑い身体にビールの美味しかったこと、感動した。カレーもいただき、夕飯はコンビニで軽く買ってきて、世界陸上を見ながら食べようとなった。
でも、疲れた体は正直で、女子のマラソンを見ながら、こっくり、こっくりと船をこいでいた。

2日目。今日も晴天、猛暑である。
まず、豊橋にある、吉田城に行ってから、二川にある本陣に行く。

吉田城は、元は今川氏の東三河最大の拠点の城であったが、家康が攻略して、自分の家臣を置き、その後池田輝政が入城して、城地の拡張と城下町の整備を行ったとされる。その後輝政は、関ヶ原合戦後に、姫路城に所替えになった。

吉田城は平城で天守閣はない。復元模型を見ると、四方に櫓(やぐら)が建っていた。その櫓が再建されていて、中が資料館になっていた。

広重の浮世絵に、吉田城から豊川(豊川大橋)を望む絵があるが、まさにその構図を見ることができた。説明の方が、市役所の展望台からもいい眺めが見えると教えてくれたので、行った。
             


次にいよいよ本命の二川宿本陣に行く。
資料本では、その作者がいたく感激していて「生まれて初めて見た本陣に、私の心は感動に震え、目は瞳孔が開きっぱなしであった。」とあり、私たちはどんなものが見られるのかほんとワクワクした。
まあ、確かに、昔ながらの建物で、大名や公家の方々がお泊りになる格式高いところだなと感じることができた。

奥の間でお抹茶をいただき、ひと時江戸の気分を味わった。そこに掲げてあった掛け軸には「この道より 我を生かす道なし この道を歩く」と武者小路実篤の書が書かれてあった。
           


また、中を見ていると、浮世絵の体験コーナーがあったり、伝馬朱印状に印を押すことができたり、東海道の宿場がのっている看板もありりバラエティにとんでいた。街道が、二つに分かれていたのを見て、京都まで行くのに、関ヶ原や岐阜の方で行きたいねという話になった。
      


もちろん北斎展も行ってきた。
本で書いてあった隠密云々は全く触れていなかったが、北斎は役者絵や美人画・妖怪絵なども描いていた。私としては富嶽三十六景を代表とする風景画の方がいいなと思った。また、東海道五十三次の絵も描いていて、広重より写実的(現実通り)に描いているらしい。「赤富士」のキーホルダーを買ってきた。
   

最後に、電車から見た、弁天橋を載せておく。


今回も幸せな気分を味わえた。いつものように、こうやって歩けることに十分感謝して、筆をおきたいと思う。
   一日目   12035歩(約6.7キロ)
   二日目   11297歩(約7キロ)
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北斎は隠密だった!

2013-08-08 21:19:26 | 読書日記
面白い本を読んだ。北斎殺人事件」高橋克彦著である。
北斎だけでなく、間宮林蔵も隠密だという。何とも隠密オンパレードである。

シーボルト北斎の浮世絵をたくさん買って故郷に持ち帰っているし、間宮林蔵の恩師である伊能忠敬の日本地図や間宮林蔵の間宮海峡を発見した時の航海日誌も持ち出そうとしていて、船が難破したことで発覚したと書いてあった。

北斎は外国船が来るたびに、その地に必ず北斎が足を運んでいるという調べもついているし、90歳近くにして、開国論者を見張るために、長野県の小布施まで足を運んでいる。   恐るべし!

          
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