wakuwakuな生活

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東海道珍道中<平塚~大磯>

2011-07-17 13:44:03 | 東海道珍道中
東海道珍道中<平塚~大磯> 平成23年6月25日(土) 約2ヶ月ぶりに第8回目の東海道珍道中を行った。相方がめまいを覚え、仕事も数日間も休まなければいけない状態になり、この東海道を闊歩するのも危ぶまれたが、病院で検査の結果異常なしと太鼓判を押され、無事再開することができた。健康は幸せなことと今回も再確認した。

前回平塚を回ったので、今回は、平塚の花水橋のところまでは、平塚駅を降りてそのままわき道にそれずに行く。途中いつもの腹ごしらえをした。それは「ねこのしっぽ」という細長い形をしたドーナツで、食べ歩きしやすかった。
平塚の街は有名な七夕祭りの準備が所々に施されていて、もうそんな時期なんだなーと思った。

花水橋を渡って右手の方に入ると、「高来神社」がある。これは7世紀の朝鮮半島で勢力を広めていた高句麗の王族の若光(じゃっこう)が日本に使節団として来航し、そのまま帰らずに、この地に神社を作ったとされる。埼玉の方にも高麗神社があるがこれもこの系列で、本国が白村江の戦で敗れたために、移動を命じられて移されたということである。この大磯の地にあって、高麗区と地名が表示されてあったのもうなずける。高麗山自体が一つの集落で若光たちは隠れるようにして住んでいたのかもしれない。

高麗神社を出てしばらく歩き、東海道に戻ると、ここから大磯宿に入るという目印となる「虚空蔵堂」があった。旅人たちはここで頭を下げて、平塚に別れを告げ大磯に入っていったということである。

東海道本線をくぐり、松並木が続く道幅の広い道を歩いていく。ここは「化粧坂」と呼ばれ、大磯の中心地でもあって、昔は遊女たちが多く住んで居た。この街道は今までの東海道の雰囲気とは違い、優雅で品がある感じがした。それはこの街道の両側に建っている一軒一軒の家の構えが大きく、お金をかけているナーと分かるほど立派な家が十分に土地を所有して並ぶのである。やはり大磯といえば歴代の有名な人たちの別荘地が建っているということもあって、お金持ちが多いのだろうか。松並木が続く中を歩いていると、海が近くてこんな優雅な感じなところに住んでいると気持ちも上品になってくるよね。なんて話をしながら歩く。

そしてその中ほどに「化粧井戸」があった。これは、大磯一の美女であった虎御前が毎日この井戸を使って化粧をしたとされている。この虎御前は日本三大仇討ちとして有名な曾我兄弟の兄十郎の恋人であり、仇討ちを果たして兄弟は命を落とすが、この虎御前は19歳にして、髪を下ろして出家し、兄弟を供養しながら一生を過ごしたということである。女は男によって生き方が変わり、後世まで名前が残り、使った井戸までもがこうやって残される。こんな場合があるんだなーと妙に感心した。

しばらくこの東海道の松並木の道を歩いていくと、大磯駅に着いた。江戸時代の俳諧道場で有名であり、西行もここで俳句をつくったという「鴨立庵」に向かって歩いていくと、左手に大きな門があり何やら女の人の顔がレリーフされてある。入って説明を読んでみると、岩崎弥太郎の子孫である澤田美喜さんで、エリザベスサンダースホームを作られた方である。昔テレビドラマにもなったアメリカの兵士が本国に帰ってしまった後に残った孤児たちを面倒を見たその施設エリザベスサンダースホームの入り口がトンネルのようになっていて、それが今もそのままにそこに存在していた。

大きな門の入り口に「パイプオルガン コンサート」入場無料の看板が立てかけてあって、好奇心旺盛な私たちは、「ちょっと聞いてみようか」とそこで寄り道をする。海の見える高台にあるホールでの演奏で5分位坂を登ったが、座った席から舞台の後ろに木々と海の視界が開け、パイプオルガンの重厚な音色で素敵な曲を聴くことができた。素敵過ぎて気分もよくなりまぶたも重くなった。この弾いているパイプオルガンを作った方が来ていて、パイプオルガンの魅力等を説明してくれた。何とその方は日本語ぺらぺらのフランス人であった。

そこから出て歩いていくと、この街道沿いに「新島襄終焉の地」という碑があった。再来年の大河ドラマがこの新島襄であり、綾瀬はるながその妻役で主演を演ずるそうである。坂本龍馬のときも偶然にもお竜さんが働いていた旅館や龍馬が見張りをしたという浜川砲台を見ることができて感激したが、今回も大河ドラマ関係と出会えて、何だかうれしくなった。療養でこの大磯の旅館にきていたが、病状が悪化してとうとう帰らぬ人となってしまったということである。志半ばであったが、その意思を妻が引き継いだようだ。

その後、「鴨立庵(しぎたつあん)」へいく。俳諧人が集まって最近まで句会を開いていたということである。川が海へと流れる手前の急流のところがその入り口にあり、小さな橋を渡って入っていく。古民家園のつくりで屋根はかやぶきであった。縁側に腰をかけて、少し庭を愛でていたら、もう閉館時間4時ということでせきたてられた。出際に虎御前が祭ってあるという祠を除かせてもらって虎御前の像の写真を撮ったが、ぼやけてしまって、大磯一の美女と確認できなかった。

ここから先も国道1号を歩く。見事な松並木が残っており、昼間でも両側の松が日光をさえぎり、薄暗い。明治時代健康に良いと海水浴が流行したことによって、この辺りには明治の元勲の別荘が多く残っていた。西園寺邸・吉田邸など等。でも、どの屋敷ももう人の気配は全くなく、高い塀で中を見えなくして、ばらせんで囲んでいた。伊藤博文旧宅であった「倉浪閣」はただ碑があるだけで、昔の建物はなく、最近何かに使われていたような大きな近代的な建物が奥に立っていた。その横に細い道があり、「きっと海岸にたどり着くよ」と軽い気持ちで入っていく。私たちは昼食をとり損ねて、夕飯を途中もらったパンフレットに紹介してあった新鮮な取立ての魚を食べさせてくれるという大磯港にある「めしや大磯」を目指していたのだ。だから、早く大磯港に戻りたいと考えていた。

でも、それからが長い苦行の行脚になったのだ。その細い道を歩いていくと、左側は伊藤邸、右側は西園寺邸そこを抜けると、海は見えるのだが、そこには片側2車線の国道1号線がとうせんぼをしている。高さ2メートルくらいのところを飛び降りて国道沿いを歩く。早く海辺に出て海岸沿いを歩きたいのだが・・。、あきらめかけたときに、釣竿をもって颯爽と歩いていく男の人。その人は水溜りのある高架下をくぐって行く。その人の後について行くとやっと海岸に出ることができた。大磯港まであと一息と思ったが、浜辺を歩くのは普通の道より何倍も疲れる。砂が靴を吸収して地面をけるためには力をより多く入れなければならないのだ。これは今回経験して分かったことである。歩けど歩けど大磯港は遠い。一歩一歩自分にそして千明さんにかけ声をかけながら、みんな何を釣っているのかなと考えながら、そして今地震がきたら、高台にはなかなか行けなくて津波に飲み込まれるナーと変なことも考えながら1時間くらい歩いて、やっと大磯港に到着。案外遠くまで来ていたのだ。

やっぱり新鮮な魚はおいしい。ちょっと贅沢ににぎり寿司定食、2300円。カマスの焼き魚もついていて、その焼き具合といい、身の骨離れといい、きれいに完食した。

大磯駅に戻る途中に島崎藤村が眠るという「地福寺」に寄ったが、もう遅かったせいが門は閉じていて、見ることはできなかった。

大磯駅から横浜駅に行って、そこでいつものようにお茶して、東海道の葉書を書いて、今日の行脚を振り返り、また、健康でこういうことができる幸せに感謝しながら、今日一日を締めくくる。
                                                21495歩   約13キロ

そういえば、そこで隣に座っていた若い女の子二人の会話が丁度千明さんが好きなサッカー選手の松井が出来ちゃった婚をした時期で、松井のことを猿みたいなとかごっついとか形容していて、思わず千明さんと目を合わせてしまった。

コメント (5)
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