wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

6年かかった、三条大橋

2016-08-12 10:33:59 | 東海道珍道中
平成28年8月10日(水)、平成22年9月から始めた、私たちの「東海道珍道中」がこの日、終点を迎えた。

何気なしに、始めたこの「東海道珍道中」。日本橋に立った、6年前の一回目の時は、まさか、終点の三条大橋まで行くとは、思いもよらなかった。
それが、今日という日を迎えられて、まさに、感無量である。

地球の反対側のブラジルでは、4年に一度のオリンピックが開かれ、毎日それぞれのドラマが繰り広げられている。私たちもまた、自分たちの中でのドラマの一つの区切りであった。

実を言うと、最初のうちは、宿場ごと、きちんと歩いていた私たちも、静岡の富士川を過ぎた辺りから、有名な史跡が減ってきたのを理由にして、「電車でGO」的になってしまい、行きたいところまでを行って、その周辺の東海道を歩いていくというパターンに変わっていった。

でも、きちんと歩かないから続けられた、興味のあるところだったから歩けた、という気もする。

数えてみたら、20もの「東海道珍道中」のブログがある。1回目から4回目位はまだ、ブログをしていなかったので、全部で、東海道を歩いたのは、24回で達成したという勘定になる。6年間で、24回多いのか少ないのか分からないが、自分たちに「ご苦労さま」と言いたい。

今回は、お互い忙しく、1泊2日という行程しか取れないので、1日目は大津から三条大橋までを歩き、2日目は、真田丸絡みで、大阪城に行くという計画を立てた。

まさに、歩いていて思ったのは、京都は山の多いところである。大津から京都に入る道はほとんど山道で、切通し状態である。今は、国道1号線として、きちんとした道になっているが、道の両側は木がうっそうとしている小高い山である。ほんと何もないところなので、昔は怖かったんじゃないかなと思った。

大津宿の本陣跡から今回の旅はスタートである。
   

歩いていると、うらぶれた感じのする、蝉丸下神社があった。百人一首の「これやこの 行くも帰るも別れつつ 知るも知らぬも 逢坂の関」で有名な蝉丸が祀ってある。醍醐天皇の第4皇子に生まれたが、目が見えないので、この地に僧として捨てられ、盲目の琵琶法師と名だたる人となっていく。
        

逢坂の関がある。
    

その近くに、「かねよ」という日本一のうなぎを食べさせてくれるという謳い文句のあるうなぎ屋さんがある。テレビでも何回も紹介されているらしく、写真やサインが並んでいた。一番安いもので、「きんし丼」2400円。旅の終点間際なので、いっちょ奮発と、食す。うなぎは2切れ、素(す)の味を大切にしただし巻き卵がその上にドーンと乗って、あまじょっぱいタレがかかっている。
ここは龍馬も通ったはずなのか、龍馬役をやった役者の写真も掲げられていた。
   

山科追分があって、右に行くと京都、左に行くと伏見大阪へと向かう。もちろん私たちは右である。
   

途中、「徳林庵」。六角堂があり、小野篁(おののたかむら)が作った仏像が納められているという。
  

後は、ずーと、1号線に沿って歩く。

日の岡峠を通る時に、「天智天皇陵」があった。
   


道沿いを歩いていたが、あまりにも暑いので、コンビニで小休止。そこでアイスコーヒーを飲みながら少し涼んでいたら、店員のおばちゃんが、話しかけてきた。「大津から三条大橋まで歩いているんです」と言ったら、「着いたら何かあるんですか?」と聞いてきた。多分何もない。それは分かっている。でも・・・。

いよいよ「三条大橋」へ。ここまでずーとなだらかな山道で、やっと京都に入る。

三条大橋の手前には、明智光秀の首塚があるというので、探して、やっと見つける。
近くには、京都らしい風情がある景色があった。
   

夕方6時に、到着。「三条大橋」だ。
      

まあ、自己満足の結晶である。
17083歩(約10キロ歩いたことになる。)

2日目の朝、丁度、内村の個人総合の決勝戦をやっていて、最後の鉄棒で大逆転の試合を見る。素人目には、なんで逆転するのかはわからなかったが、専門家が見ると、難度の高い演技が連発していて、着地も一歩も動かない完璧な演技であったから、守りに入って、無難な演技をしてまとめてしまった2位の選手を超えた得点が出たということがわかった。スポーツの世界はやった人でないと、言えないところがあるんだなと感じた一幕であった。

直接、大阪城へ。4年位前に家族で行ったことがあったが、何度見ても、新たな発見があって、面白い。12時40分の電車に乗らなければならないので(今回も青春18切符できた)、あまりにゆっくり見すぎて、後半は足早で見た感じ。
         

大坂夏の陣の屏風2枚を、細かに説明してくれるビデオがあって、それだけでもよく分かる。
真田信繁は、家康を追い込み、自害しそうなほどの打撃を与えている。
本多忠朝は、冬の陣の時、守るところの変更をお願いをしたところ、家康に、父に似ぬ不肖の息子と罵倒され、夏の陣では、先陣を切って暴れ、亡くなったという。
また、真田大助は、父信繁と一緒に戦っている最中、父に秀頼の出陣を促しの命令を受け、秀頼の所に行くが、若干13歳位の若輩では、人を動かすことはできなかった。
大野治房は、秀頼の遺児国松を連れて、大坂城を脱出するが、捉えられた。国松は、三条河原で、さらし首になったのではなかったか?
井伊直孝は、冬の陣ではたくさんの家来をなくしたので、夏の陣は出陣しなくても良しと免除されたのに、出陣を願い出て、大坂城内に隠れている淀殿と秀頼を見つけ、自害するように促した。
歴史に「たら」「れば」はないが、もし信繁が家康を討ち取っていたら、もし秀頼が出陣していたら、もし井伊直孝が淀殿たちを見つけなかったら、もし国松たちが逃げられていたら、と考えると・・・。

大阪城から脱出した人たち(仕えていた男女)は、敵にやられたり、追い剥ぎに衣服を取られたり、必死に、京の山城を目指して、いくつもの川を渡って逃げていた様子も屏風には描かれている。

それぞれの武将は、その時々を一生懸命に生きていたんだな。武将じゃなくても、巷の人々も、世の中や歴史に翻弄されながらも、その都度その都度、自分の中でベストの選択をしてきて、生きている。歴史がなっている。結果はどうあれ。
       

まずは、今回も炎天下の中、無事終えたことに感謝したい。


    鳥も賑わう 賀茂川に

        首晒す 場があった 三条大橋

      大河流れる 昔も今も  
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伊賀上野、彦根、佐和山、東海道(草津宿~大津宿)

2015-08-12 09:25:41 | 東海道珍道中
平成27年8月9・10・11日(日、月、火)、このうだる様な暑さの中、夏休み恒例の東海道珍道中の旅を行った。

今回は、東海道からちょっと外れた、忍者で有名な伊賀上野、日本の国宝の城の一つである「彦根城」、それと東海道の草津宿から大津宿を歩こうと、計画を立てていざ出発をした。
 

やっぱり実際に行ってみると、得るものが多い。
行った先に、それ以外の史跡が近くにあって行くことができたり、前回に接した史跡との繋がりを感じ、驚いたりもした。

項目順に、書いてみよう。

一つは、伊賀上野で松尾芭蕉の生家があって、大津の義仲寺では、墓があった。
それは、行く前は、二つとも知らずに行ったのだが、調べているうちに偶然にも繋がった。
松尾芭蕉生家。ちなみに、「芭蕉」は植物で、バナナの幹に似ている。実は食べられなく、当時は、葉も活用していないかったので、芭蕉は自分の身と重ね合わせて名づけたという。
         

義仲寺 ここには、木曽義仲の墓もある。この辺りの粟津が原で戦って亡くなったという。芭蕉は遺言により義仲寺に埋葬された。
        


二つ目は、彦根城の近くに佐和山城があった。いずれ行きたいとは思っていたが、こんなに近くにあるとは思わなかった。井伊直弼は十四男で、まさか自分が城主になるとは思わないで、「埋れ木舎」を建ててもらって、そこで、青春時代を過ごした。「一期一会」の言葉は、この人の言葉であるという。
彦根城
                      

佐和山城
   

その隣に、井伊家の菩提寺である「清凉寺
      


三つ目は、「藤堂高虎」である。以前京都の「南禅寺」に行った時に、荘厳な山門はこの藤堂高虎が、夏の陣で亡くなった武将たちを弔うために造ったと書いてあった。その藤堂高虎が、伊賀上野城を建てたとあり、高虎の資料がこの城にはたくさん展示してあった。城作りの名手であるという。高堀が有名で、30~40メートルはあった。
藤堂高虎といえば、関ヶ原の時には、大谷吉継と対している。吉継は自分の首を家来の五助に介錯させて、相手に渡すなと言及して亡くなる。その首を埋めてる所で出会ったしまった藤堂高虎の甥は、家来の主への忠誠心に感動して、その場所を一生公言しなかったということが関ヶ原の吉継の墓の隣に碑があり、そこに書いてあった。
伊賀上野城
                  
 

四つ目は、同じように、以前行った京都で、明智光秀は、織田信長を討って、安土城に行く際、瀬田の唐橋のところで、橋を壊されて妨害された。主君を討ったことで、やはりいいふうには見られなかったのであろう。この話を聞いていたので、その「瀬田の唐橋」も見ることができた。この場所は、いろいろな歴史的な事件が起きていて、東や西を結ぶ重要な地である。
       


五つ目は、南草津の駅に降りたら、紫式部の看板が、「何かな?」と思い、観光案内所に、千ちゃんが聞きに行くと、何と近くの「石山寺」で、源氏物語を執筆したという。それで、急遽、そこからバスに乗って、行くことができた。
             


いろいろ繋がるな~。と感じる旅でもあったが、如何せんこの暑さである。
実は、草津から大津の歩きは、電車やバスを大いに利用した。無理は禁物である。

街道筋には、「露皇帝襲撃事件」の碑があった。その露皇帝を助けた人力車の人夫は年金や勲章をもらったと、大津歴史博物館で書いてあった。
  


草津宿には、有名な本陣があったのだが、月曜日ということで、拝観できず。

歩いていると、「常善寺」がある。そこでは、徳川家康が、関ヶ原に勝ったあとに、宿陣したところである。また、街道には、「急がば回れ」の語源になったところもあった。琵琶湖を通って、船で行くと近いけど、波が高くて出航しないこともあって遠くなるということである。
         


一日目の泊まったホテルにはこんな写真が。幕末の有名人の列挙である。
 


3日目には、大津京跡、膳所城跡、三井寺義仲寺と、電車を使って有名どころに行ってきた。

膳所城跡。名手藤堂高虎の築城である。
        


大津京跡(近江京)
       

三井寺(園城寺)。天智・天武・持統の三天皇が産湯を使ったということからこういう名前になったという。
    


でも、まだ観るところはありそうなので、次回は、大津を見てから、いよいよ京都三条大橋まで歩こうということで、今回の旅が終了した。

一日目   5302歩(約6キロ)
二日目  24139歩(約14キロ)
三日目  11456歩(約6.8キロ)

いつも思うことだが、歴史の繋がりを甚く感じた旅でもあった。

また、こうやって歩けることに幸せを感じ、家族や周りのことに感謝して、やまない。
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石田三成の出生地・石田と大谷吉継がいた?・小谷(おおたに)

2015-03-29 17:46:17 | 東海道珍道中
平成27年3月27日・28日  長い休みの時に行く、恒例の青春18切符を使っての歴史の旅へ行く。

でも、今回の旅では、この青春18切符を失くすという大失態をおかしてしまった。行きは気持ちよく改札をくぐり、バックのポケットの中にちゃんと入れたと思ったが、次の日の朝、どこを探してもそれが見当たらない。バックをひっくり返して中身を全部出して確認してもない。財布を出したときにでも一緒に出して、落としても気づかなかったのか。
仕方ないので、また買って帰ってきた。それでも通常で帰るより安いのである。

では、本題に戻ろう。

今回は、以前行った滋賀県の長浜の石田三成の出生地である石田へ、前回は、バスから石田というバス停を見ただけだったので、もう少し詳しく、ゆっくりと見て来ようと、

そして、そこまで行ったら、余呉湖近くにある、大谷吉継が住んでいたとされている滋賀県小谷町、これは小谷と書いて「おおたに」と読む。一説には、関ヶ原の戦いで、西軍に味方した大谷吉継の痕跡を隠すために、地名を小谷に変え、読み方はそのままにしたと言われている。

その他にも、長浜の北国街道やそれに続く、吉継が住んでいたという八幡神社までの道も北国街道であった。その途中には、姉川の合戦で、柴田勝家の身代わりになって亡くなった毛受(めんじょう)兄弟の墓があったり、面白かった。

では、順を追って書いていこう。

朝6時25分の電車に乗り、14時半頃、長浜に着く。駅前には三成が出世の糸口を掴んだとされる「三椀の茶」の像が建っていた。
  

そのお茶を出した「観音寺」には、次の日に行くのだが、出生地「石田」と観音寺が思いの外近いのを「石田」に行った時には、分からなかったので、次の日にもう一回同じバスに乗ることになる。

バスに乗り、石田三成の出生地「石田」に行く。
関ヶ原で負けたので、石田家のものは、壊されたり、埋められたりしたらしい。
でも、近年、発掘して、お墓を作って、供養したり、石田会館では、三成の資料が展示してあった。一年に一回、全国の三成ファンが集まるという。
三成の頭蓋骨を発掘し、複製した写真は驚いた。
秀吉に命じられて、全国各地に赴き、検地をしている。そういう能力は高い。
                         

関ヶ原の戦いで、敗走して佐和山城近くの洞穴に隠れていたが、「もうこれまで」と思い、捕まる。打ち首される時に、喉が渇いたので、「白湯を欲しい」と言ったが、水がなかったので、「この柿を食べろ」と出され、「柿は体に悪い」と言って食べなかったとか。武士は死ぬ間際まで命を粗末にしないという信念の賜物か。

また、石田三成は、お茶会の席で、病気が移るのではと、誰もが懸念する、大谷吉継のお茶を、平気で口をつけて飲んだという。その気概は見事なものだ。だから、三成が挙兵するときに、負けると思っていても、最後には味方になって戦ったのかもしれない。

一族郎等、亡くなったのかと思えば、子孫がいて、次男は津軽へ、三男は岡山県の笠岡へ逃げ延びたらしい。三成の娘が寧々の養女となり、津軽藩に嫁いでいる関係からか。

一日目は、そこだけ見て、歩いて、長浜へ、前回も泊まったビジネスホテルに予約を千ちゃんがとってくれたので行く。30分くらいかかった。
前回も食べた、近江牛肉が入っている「のっぺいうどん」を食す。それがとても美味しい。とろみのある汁で、だしがよく効いていた。有名な人がよく食べに来るそうで、安倍首相の写真もあった。

次の日は、朝、長浜の商店街沿いにある、北国街道を歩く。
外れというか、入口には、常夜灯が建っていた。
ここを通って、大谷吉継は敦賀城へ行ったり来たりしたんだな~。それに、信長や秀吉も通っているかもしれない。
       

その近くに、太閤神社があった。徳川の時代は、太閤秀吉はあまり目立ってはいけない存在で、もともとは長浜城主であったのに、蔑ろにされていた時期もあったそうだ。
秀吉が、小さい頃から可愛がっていた加藤清正に、与えた大きな石があった。
     

そして、いよいよ余呉湖に行く。駅からは賤ヶ岳が見えた。賤ヶ岳合戦はこの駅の周辺でも行われたと駅に立っていた人が教えてくれえた。
 

大谷吉継の生家ではないかと言われている「八幡神社」を目指して、行く。余呉駅からバスが出ていると、インターネットでは書いてあったが、実際行ってみると、2時間に一本くらいなので、あてにならない。それで、天気が良いので、サイクリングで行くことにする。これも北国街道を北に、30分くらいの道のりを、せっせっと漕いで、行く。

途中、偶然にも、さっき書いた、「姉川の合戦」での舞台になったところを通った。
    

大谷吉継の生家があったのではないかと言われている「八幡神社」に、いろいろな人に聞きながらやっと到着。何度も火事にあい、資料は全く残ってないということらしい。たまたま清掃日で、そこを掃除していた村の人に聞いた。それに、石垣が立派で、腕のある人が作ったのでは言われているという。
     

吉継の家は、もともとは浅井の家来で、姉川の合戦で、父や一族を亡くし、家来に連れられて、秀吉に志願したらしい。その仲介役が石田三成だということで、そこで、知り合ったということだ。

もっとゆっくり見たかったが、電車がまた、1時間に1本という少なさなので、12時10分の電車に間に合わせるために、頑張って駅に戻る。
長浜に戻って、石田三成が秀吉と出会った、「観音寺」へ。
そこには、水を汲んだ井戸があったり、秀吉が姉川の合戦で見張りをしたという「横山城」へのハイキングコースがあったりした。大河ドラマ「お江」でも関係があったとか。
         

そこからバスで、「近江長岡」の駅に行き、15:10発の電車に乗り、22:33上溝駅に着。
スマホで検索して、電車の時刻が瞬時に分かり、帰る時間も計算でき、ほんとすごいものを持って、旅ができる。
   一日目 14169歩
   二日目 11706歩

いつもながら、切符をなくしたことは残念だが、こうやって無事に帰って来られ、元気に旅ができることに感謝である。
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桶狭間古戦場跡は二つあった。

2014-12-29 14:34:38 | 東海道珍道中
平成26年12月26・27日、いつも使う「青春18切符」で、桶狭間に行ってきた。
というのも、東海道53次の有名どころを歩いていて、愛知県名古屋市の中央競馬場駅の近くに桶狭間古戦場があることを知って、是非とも、信長が戦いの天才と言われる所以にもなったと言われ、また、群雄割拠の魁でもあるといわれている「桶狭間の戦い」の場を直接見てみたいという気持ちから、今回の旅となった。

桶狭間だけではここまで来た甲斐がない。
8月には、東海道唯一の海路である、熱田港から桑名までの「七里の渡し」のツアーに参加しているので、桑名までは行ったことになる。
次の日は、桑名の西にある、亀山宿から関宿までを歩くことにした。

では、1日目から

朝、上溝駅で待ち合わせ、6時25分の電車に乗り、たくさん乗り継いで、桶狭間近くの「有松駅」に着いたのが、13時30分頃。7時間かけて目的の場所に行ったことになる。でも交通費は2370円である。それも乗り降り自由で。安いよね~
そこからバスで、桶狭間公園に行く。

実は、桶狭間古戦場は2ヶ所あり、東海道に近い方と少し離れた方と。
私たちはそんなこととは知らずに、スマホで探した「桶狭間古戦場」へ、何の疑いもなく、東海道から少し離れた方へ来たことになった。
なんでそんなことが分かったかというと、その公園で、大きな説明板があり、それを見ながら二人で話していたら、通りがかった地域のガイドをされている方が、わざわざ車を止めて気にかけて声をかけてくださり、戦いの様子を説明してくださった。こちらの公園のほうは、地元の研究家たちが「信長公記」を読み砕いて作ったということや公園自体がジオラマになっていて、歩きながら信長や義元の動きが分かるとも教えてくれた。最後に、東海道沿いにも「桶狭間古戦場跡」があることを教えてくれた。行き易い場所を史跡としたようだ。まあ、私たちにしてみればどちらでもいいかな~。この辺だという感じは体感できたし。

その中で、一番心に残ったことは、桶狭間の戦いの行われた日は、1560年5月19日であるが、その日は旧暦で、今に直すと、6月22日ということを教えてくれた。5月といえば、五月晴れというように、晴天が多い感じである。雨が勝利を導いてくれたと考えると、疑問を感じていたが、6月なら梅雨真っ盛りだということで、納得がいった。

信長は「善照寺砦」で相手の動きを見て、敵は2万5千の兵の内、2万を戦いに出しているので、本体を守っている兵は手薄になっていると見込み、また、そこに、義元の本陣は「おけはざま山」で謡いを開いているという進言もあり、少ない2千の兵で突入した。その時にわかに、豪雨が降り、義元の陣は雨宿りのために散り散りになってしまった。天が味方したとでも言うのか、運が良かったのか、それとも信長の兵は強者どもが集まっていたからか、敵の対象の首をとって勝利することができた。
長福寺という寺には、そこの和尚さんが義元の首実検をしたと書いてあった。誰も大将がどんな顔なのか知らなかったんだよな~

おけはざま山は、昔は何もなかった小高い丘だったろうけど、現在は住宅が立ち並ぶ閑静な住宅街である。義元の本陣もその中にあった。

                 


桶狭間からは名古屋駅に近い栄駅まで高速を使う直通のバスがあり、なんと220円と安い。名古屋人の気風の良さがうかがえた。

桑名駅の目の前にあるビジネスホテルに宿をとってくれ、そこで泊まる。朝が早かったせいか、ふたりとも疲れて、早めに寝る。

2日目。亀山宿から関宿までの正味6キロ歩く。本来の目的に沿った行程だ。

亀山駅から歩く。
「亀山城跡」が東海道沿いにあるので寄る。安藤広重が、亀山城の京口門からから描いた浮世絵があったが、その京口門に佇んだが、今はもう面影もない。
   

亀山宿は、宿場町としての雰囲気を残そうと、自治体が努力している感じがあって、古い家屋の前には屋号の看板が各家々に掲げられていた。


途中立派な「野村一里塚」があり、樹齢300年の椋(むく)がそびえ立っていた。
  


関宿まで歩いていると、「大岡寺畷(だいこうじなわて)」という、鈴鹿川沿いに東海道が続いている。畷というのは真っ直ぐに続いた道のことで、東海道に時々出てくる。川崎宿から鶴見宿の間にもあって、芭蕉が句を詠んでいる。
千ちゃんと時々、ちょっとしたことから昔の記憶の断片を思い出して、それがなかなかはっきりした記憶になるまで時間がかかってしまい、二人して苦笑している。


関宿到着。
ガイドブックには「関宿は一見の価値がある」と謳われていた。「この旅を続けてきてよかった、と思える光景がこの先に続いていた。いや、歩き終わった現在から思ってみても、関宿は、東海道中で一番の場所であった」とも。
入ってしばらく行くと、東の追分なるところが、ここには、伊勢神宮に通じる分かれ道となっていて、鳥居もあった。
    


そこから先、何百メートルも宿場街道が続いていて、やはりガイドブックの作者が感動するのもわかるな~と思った。広重が描いている本陣にも行ったが、跡の碑があるだけだった。また、「ご馳走場」というのは、食べるものがあるのではなく、身支度を整えて、お城に参内するところだとわかった。
    


関駅から名古屋で途中下車して、名古屋は一つ一つのビルが大きくて、すごい大きな街だということを改めて感じ、昼食を食べ、宝くじを買って、ゆっくり帰ってきた。
  


1日目 13043歩(6.5キロ)
2日目 13523歩(6.7キロ)

今回も、こうやって歩けることを、甚く感謝し、幸せに思う。
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東海道唯一の海路 熱田湊から桑名

2014-09-13 21:12:25 | 東海道珍道中
平成26年8月27日・28日 かねてから興味があった東海道唯一の海路を体験できるツアーがあったので、迷わず申し込んだ。

名古屋の熱田湊から三重県の桑名まで、当時は「七里の渡し」といって、28kmの海路を帆掛け舟で約4時間かけて渡ったそうだ。

でも現在は埋め立てが進み、だいぶ海の外側を陸地を見ながら、エンジンのある船で、3時間で渡ってきた。伊勢湾は穏やかな入り江で、あまり波も激しくなく、周りの景色の説明を聞きながら、風に吹かれてきた。

桑名では名物のハマグリの蒸し焼きを食してきた。
              

ガイドさんが言っていたことだが、熱田湊では客の取り合いで喧嘩が耐えなかったと文献に書いてあったという。伊勢参りに行くには、桑名に行くよりもその次の宿場、四日市に行ったほうが楽なので、こういう事になったという。そっちに行く航路もあったというから、そりゃそうだ。

そのツアーには、秋葉山本宮に行くのも付いてあって、日頃から東海道を歩いていると、至る処に「秋葉山詣」とういう看板が目に付いていたので、その本宮に行けることで、楽しみにしていた。
               


江戸時代、お伊勢参りと並び称される位に、秋葉山参りも人気であったそうだ。
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