wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

かび臭い甘酒茶屋資料館と宝物展が充実している箱根神社

2012-06-30 09:51:18 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成24年6月23日(土)天気予報では暑くなると言っていたが、いま一つはっきりしない天気の中、箱根に行ってきた。

実は箱根はこの東海道珍道中では今回を入れて三回目である。一回目は甘酒茶屋から芦ノ湖までと、二回目は山中城から沼津へと。

今回は今まで行った中で確認したかったことや時間が遅くて見られなかったところを中心に歩いて?来た。

この?がついたのは、結局また時間切れで、湯坂路(曽我兄弟の墓がある)を歩くつもりが
できずに、次回ということになったので、ほとんどバスに揺られることになってしまったのである。

これで、ウオーキングといえるのか!と活を入れられるところであるが、私たちは、頭の中で歴史を散策していると、納得している始末である。

では、時間を追って書いてみよう。

今回も小田原で「箱根旧街道・一号線きっぷ」(1700円)を買う。これはバスが乗り放題なので随分お得である。箱根に行く人が多いのか、この切符を買うにも窓口で随分並んだ。

まずは、小田原から箱根湯本まで電車で行く。箱根湯本からはバスでこの箱根旧街道を通って、甘酒茶屋に向かう。

バスの発車まで時間があったので、例のごとく、小腹対策をするために物色。
お菓子の5つ星と絶賛されている豆菓子「ナッツ ヴェセル」を食す。キャラメルに絡めたナッツという感じで、確かに味わいがあるが、5つ星と言われるとあまり納得がいかない感じがした。まあそれはそれでいいか。

この街道は俗に言う東海道で、江戸時代に整備されて、多くの人々や武士たちが参勤交代等でが通った道である。
ほんと険しく、バスで乗りながらも、体が前後左右揺られ、「女転び坂」と呼ばれる所以が納得させられる。
「畑宿」といって本陣宿があったところも通った。ここは、幕末に下田から江戸に向かうハリスも立ち寄ったという。そこで、ハリスは箱根細工の寄せ木細工に感嘆したという。
それにしても、この道を参勤交代では、籠を担いで、そして馬に乗って通ったんだから、すごいよな~、とあらためて感心する。

甘酒茶屋に到着。
まずは、この茶屋の隣にある資料館に入る。ここがもう一回見たかった場所だ。カビのにおいが漂う古い建物なのだが、中においてある資料はとても充実していて、箱根の街道のことはもちろん、箱根の歴史や街道の様子等、細かくわかりやすく展示されていて、勉強になる。

まず、入り口には箱根道について、そしてこの甘酒茶屋の変遷等の説明がある。
明治天皇はこの箱根峠を越えた初めての天皇で、御付の人総勢2500人余りで、24日間もかかったそうである。そのとき若干16歳であったという。

    


参勤交代の様子も人形を使ってわかりやすかった。

    


箱根の街道は江戸時代に整備された時に、今の東海道になったが、その前には別の街道がいくつもあった。

    


この資料をよく見ていると、面白いことがわかる。

大和時代は、碓氷道といって、関本(坂本)~明神ヶ岳~仙石原~御殿場へ抜ける道を通って西国行き、奈良・平安時代は、足柄道といって、国府津~関本(坂本)~矢倉沢~足柄峠~御殿場から西国へ抜けている。

足柄峠には以前行ったことがあって、頼朝は関東武士を集めて、この道を通って平氏を討ったという。

鎌倉・室町時代は湯坂路といって、酒匂川~小田原~湯本~湯坂山~芦の湯~箱根権現(箱根神社)に到る。源頼朝は二社詣を何回も行ったというが、この道を通って箱根神社に行き、そして次に三島大社に向かったとわかる。

江戸時代になって旧街道が整備され、東海道の官道になった。三枚橋~須雲川~畑宿~元箱根~関所~三島宿へ抜ける道である。

こんなちっぽけな資料館で、こんなことが分かるなんてすごいなと前回もそして今回もいたく感心した。

また、日本の地図が、しっかり頭に入っていないとなかなか理解できないと感じる。
こんな壁がけがあったらいいな~と思った。



また、たっぷり1時間、この資料館で時間を費やしていた。

次に行く箱根神社のバスの時間を確認。あと、30~40分くらいあるので、甘酒茶屋で前に飲んでとてもおいしかった、甘酒。そして味噌の味が絶妙の田楽。それとあべかわ餅を食す。箸休めに添えてあるふきのとうがとてもおいしかったので、お土産にした。

バスに揺られて、元箱根港バス停に到着。芦ノ湖沿いを歩いていくと、箱根神社に到る。
この荘厳な雰囲気は、佇むだけで、パワーをいただけるような気がする。

  


この箱根神社は「関東総鎮主守箱根大権現」と尊崇された名社で、武門の崇敬篤く、鎌倉幕府を開いた源頼朝をはじめ執権北条泰時や関東公方足利持氏、戦国大名の北条早雲や徳川家康ら関東の名だたる武将に崇敬された神社である。

それだけでなく、私たちが興味を持っている曽我兄弟の弟の十郎はこの神社に預けられて、修行をしている。また、仇討ちのときにはこの神社の別当は、木曾義仲から返された太刀を兄五郎に、義経から返された太刀は弟十郎に授けている。
ということはこの神社は当時、今流行の二股をかけていることにもなる。まあ難しいことはあまり考えずに、次へ進もう。

入ってすぐに、「矢立のスギ」が目立つ。坂上田村麻呂が蝦夷の地を平定するときに、そして源氏の祖先である源頼義(八幡太郎義家の父)が陸奥の国を治めるために遠征に行く前にここに立ち寄り、祈願して植えたスギの木であるという。
  


また、近くに源頼朝がいよいよ旗揚げをするというときに、この神社の別当から印籠を受け取り、その印籠が、石橋合戦で3回も頼朝の命を救ったという看板があった。まさにこの石橋山合戦は頼朝にとって見れば、九死に一生を得た戦いであって、すぎ山というところでは一度見つかりそうになるが、相手側の武将の「ここにはいない」という一言で命拾いをした戦いでもある。また、負けた頼朝や北条時政らを匿い危機を救った神社でもあるということです。
その印籠がお土産になって売られていたので、それを買う。私たちも守ってほしいという願いを込めて。

 


実はこの時、電池が切れてしまってデジカメが使えなくなるという失態を起こしてしまう。残念。次回からこういうことがないように、きちんと充電しておこう。

そして、前回夕方になってしまって、入ることができなかった、箱根神社の宝物展に行く。そこには、興味あるものがたくさん展示してあった。もちろん、写真は撮ってはだめなのでデジカメが使えない。

でも、記憶というのはあてにならない。そのときは知ったつもりになっていたが、その宝物館を出て、はたしてどんなものを見てきたが、二人で確認しあった。だが、あまりにもたくさんの興味あるものがあったので、細部は忘れてしまってなかなか思い出せない。やっぱり資料集を買おうということになって、戻って宝物館へ行ったが、4時を過ぎていて閉店で残念ながら資料集を買うことはできなかった。

だから、入場のときにもらった、パンフレットを頼りに、書くとする。


まず一つは、私たちのバイブルともいわれている、この歴史への興味を導いてくれた本「曽我兄弟の密命」(天皇の刺客)の主人公、曽我兄弟が仇討ちに使った太刀が展示されていた。
前にも書いたが、この太刀はもともとはこの神社の別当が木曾義仲や源義経に与えたもので、頼朝が弟たちを破り、政権を取ったときに別当に返していたものである。
それを、仇討ちのときに、この箱根神社の別当が兄弟に与えたものである。
この太刀の名前が前述のとき、思い出せなかったのである。華やかな名前であったような?そして、持つところが、赤で、細かい彫り物がしてあった。
結局この仇討ちは失敗に終わったので、どういう経緯でここに戻ったかは分からない。

次に、北条早雲の直筆の手紙があった。嫡男の菊寿丸をこの箱根神社の別当に預けるときに一緒に渡した領地のことが書いてあった。
この菊寿丸は後に還俗をして、北条家の重鎮として三代氏康・四代氏政を後見した。
また、小机城主であり、東国一の文化人として知られた人で、婿養子の北条三郎は上杉・北条による越相同盟の締結に伴い上杉謙信の養子となる「上杉三郎景虎」であるという。北条氏照を扱った本には眉目秀麗で謙信の信任も篤いと書いてあった。
ここにもつながりがあって驚いた。



また、大きな鉄の釜が展示してあった。昔、箱根神社の鳥居の前に大きな釜を置いていたそうな。どうも体を清めて参詣したようだ。広重の浮世絵にも、明治時代の写真?にも描かれていて、驚いた。五右衛門風呂のようだ。

秀吉のねねへの直筆の手紙があった。その中に山中城の戦に勝ったことや北条氏を降伏させたことや一夜城に呼んだ淀君を明日にも帰らせること等書いてあって、秀吉のねねへの愛情が感じられた。



また、小田原合戦会戦直前の様子を記した山中城の城将・松田康長の手紙が何通も展示してあった。まだ負ける気配が感じられないふうで、酒のつまみのことが書いてあったような。そして誰かと密約を交わしていることも書いてあったような。これもその時はへーと思ったのに、思い出すとどんなことが書いてあったか思い出せない一つである。

その他にも、織田信長の朱印状が展示してあったり、北条氏綱から四代の武将が使っていた虎が印鑑の上にちょこんといる御朱印が展示してあったりした。

また、頼朝は「二社詣」を創始して歴代将軍もそれに習って参詣していた。二社詣は箱根権現と伊豆山権現と三島明神への参詣をいう。三島大社は行ったから分かるが、伊豆山権現はどの神社をさすかは分からなかった。
実朝も何回も詣でている。そのときに詠んだ和歌は
「玉くしげ 箱根のみ海 けけれあれや ふた国かけて 中にたゆたふ」



途中、ビデオで箱根の四季や祭りのことをやっていたのでそれを座ってみる。だんだんまぶたも重くなっていった。

十分に堪能して、この宝物館を出て、曽我兄弟を祀ってある神社に行く。階段を上る途中にあった。前回も行ったのを、着いてから思い出した。

その階段を上まで上ると、箱根神社の本殿になる。ここでの参拝の仕方が変わっていて、わら?で作った大きな輪の中を、八の字に回りながら手を合わせ頭を下げる。ご利益がありそうである。


この本殿で参拝中に、雨が降り始めた。
いつもは折りたたみ傘を入れてくるが、今回暑くなるという天気予報だったので、置いてきてしまった。神社を出たところで、傘と短3の電池を買う。が結局傘はどこかに置き忘れ、短3電池は使わずだった。安い400円の傘にしてよかった。

計画ではこの後は、湯坂路のほうを歩いて、曽我兄弟の墓にいく予定だったが、時間も時間になっていて、最終バスの時間がこの箱根ははやいこともあり、バス停がすごく混んでいて、そこにちょうど小田原行きのバスが来たりして、結局湯坂路はまた次回という運びとなった。そのバスはきれいに整備された箱根新道を通って、箱根湯本まで行った。

ずーと立ちっぱなしだったので、電車のほうが小田原までははやいということで、箱根湯本で降りる。そこで、帰りのロマンスカー(600円)を予約して、天ぷらそばを食べて、お土産を見て帰る。ロマンスカーはほんと楽ちんである。

また、今回バスや電車での移動が主だったので、その間の話の中で、何からこういう話になったかは忘れたが、千ちゃんは「泣いた赤鬼」が感動物語ベスト3に入るといい、私はこの間テレビで再放映された、ブルース ウィールスの「シックス センス」がいいとなった。でも、このシックスセンスは、随分昔に見た一回目のときはよく分からなくて、友人に教えてもらってから今回見たので、そうするとなるほどと感動深い。
そんな話で盛り上がったなと思い出した。

いつもながら今回も、たくさんの歴史的な資料を見たり、史実を知ることができ、楽しい時間を過ごすことができて、ほんと大満足である。
石橋山合戦や足柄峠、山中城など一回行ったことのある場所とリンクすることが多かったのも驚きの一つであった。
こうやって健康で歩けることに、楽しい時間を過ごせることに感謝して、
今回も筆を置こう。




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頼朝、落馬。 鎮魂・後悔

2012-06-10 16:07:46 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡

友人から一枚の新聞の切り抜き記事をもらう。
そこには「頼朝の落馬 亡霊の仕業か」と大きな見出しがある。

私が歴史好きと知って、わざわざ切り抜いて持ってきてくれたのだ。ありがとう。

平成24年6月5日(火)、仕事が休みなので、早速行ってみた。

場所は茅ヶ崎駅近くで、相模川(馬入川)が流れ、国道1号線が通っていて、いたるところに旧東海道の街道とリンクしている場所である。

その証拠に「南湖左富士」という場所があった。
本来東海道は富士山の南側を通っているのだから、富士山は街道よりも右側に見えるはずである。ところが、ここでは道が右に大きく曲がっているため、富士山が東海道より左側に見える。そんな場所であり、立派な石碑があった。
また、安藤広重はここの富士の見事さを浮世絵に描いている。
江戸時代、たくさんの人がここを往来し、富士の雄姿に感嘆したことであろう。
今回、雲がうすくかかり、うっすらと富士山が見えた。それでも見事な景色だったから、晴れてたら、さぞかしいい眺めであったろうと思われた。

    


この相模川の下流域は、馬入川と呼ばれている。昔、源頼朝が騎乗で橋を渡っていたところ、馬が頼朝を振り落として川に飛び込んだことから、相模川の下流が馬入川と呼ばれるようになったという。

そもそもこの橋を渡るいきさつが、
「1198年、頼朝の家臣、稲毛重成が亡き妻の供養に架けたとされ、鎌倉幕府の歴史書『吾妻鏡』には頼朝は渡り初めをし、その帰途に落馬してまもなく亡くなったと記録されている」とある。
重成の妻が政子の妹だったため頼朝は出席したとされるが、なぜ落馬したかははっきりしない。

その渡ったとされる橋の橋脚が、関東大震災の折に水田ににょきっと出できた、今回行ってきた「旧相模川橋脚」である。現在あるものはレプリカである。

 


プールのような池に、列状に直径60㌢程の太い柱が10本立っていた。その上に橋が架かっていたのだから、その川の幅の広さが伺える。800年くらい前にはここは湿地帯で、いくつもの川が流れて本流の相模川に合流していたんであろう。

話は戻るが、何で馬が頼朝を振り落としたか。
はっきりはしないが、この付近には「弁慶塚」「御霊神社」がある。

橋脚の近くに「鶴嶺(つるみね)八幡宮」という参道の長い神社があった。
古くて格式がある神社である。そしてその境内には、とても大きなイチョウの木があった。



そこの鳥居の近くに、「弁慶塚」があって、そこには、「義経・行家(みなもとのゆきいえ・源為義の十男・平治の乱では兄・源義朝に味方して従軍。戦闘には敗れるが、戦線離脱に成功して熊野に逃れ、その後約20年間、同地に雌伏する・平家と戦うが敗北・頼朝に所領を求めるも拒否された)らの亡霊が現れて、馬は棒立ちになり落馬し、里人たちは、義経の一族の霊を慰めるためにこれを作った。」とある。江戸時代と年号はあった。

    


弁慶塚から歩いて5分くらいのところに、義経が合祀されている、「御霊(ごりょう)神社」があった。「非業の死を遂げた弟の源義経の亡霊があらわれて・・・」とそこにも書いてあった。

 


新聞によると、「頼朝が落馬したのは、弁慶塚付近」とある。となると、鶴嶺八幡宮の鳥居近くで落馬になる。今はそこは国道1号線が通っていて、車が多く行きかい、川の面影が全くないところである。

やはり、頼朝は義経や行家に悪いことをしたと死ぬ前に後悔したのだろうか。
大河ドラマ「平清盛」では、父の義朝はその父上を斬れずに泣き崩れ、相まって家臣が斬る場面を頼朝が見ていたけど、この時頼朝は非情なことも時には必要ということを学習したのかも。
それが人の恨みをかうことも行なってしまい、こういう鎮魂の形であらわれたのだろうか。
合掌。

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護良親王が閉じ込められた土牢

2012-06-03 09:28:17 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
 平成24年5月19日、前回の東海道53次に行った折に遭遇した「智方神社」での護良親王の墓を隠すために、その神社は「白馬伝説」を立てて、カムフラージュしたということが、妙に頭に残っていて、今回その護良親王が足利尊氏によって閉じ込められていたという「土牢」(つちろう)に行ってきた。

場所は鎌倉市二階堂にある鎌倉宮。
  


護良親王は大塔宮(おおとうのみや)とも呼ばれている。1308年に後醍醐天皇の皇子として誕生し、6歳にして比叡山延暦寺に入ったが、後醍醐天皇が倒幕を決意すると還俗して、楠木正成らと挙兵し、吉野山で戦ったとある。その時、足利高氏(この時はまだ尊氏ではない)は六波羅探題を、新田義貞は鎌倉を攻めて、鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇が権力を握った。いわゆる「建武の中興」である。

話は、余談になるが、
4月上旬に行った吉野山で周りを見ながら歩いていると、「大日寺」なるものがあって、この看板には
「1333年、元弘の変の時に、後醍醐天皇の皇子護良親王の身代わりになって忠死した村上父子の菩提寺である」と説明書きがしてあった。
なるほどこの戦いのことであったのかと納得した。
そして、この鎌倉宮には村上義光(よしてる)父子も祀られてあり、その名も「身代わり地蔵」とあった。



親王はこの「建武の中興」の功により征夷大将軍になるが、足利尊氏との間で対立が深まり、尊氏の奸策により逆賊の濡れ衣を着せられて捉えられ、鎌倉のこの地の土牢にに幽閉されたのである。約9ヶ月の間、閉じ込められていたという。

   


そして、1335年7月、北条時行は残党を集めて鎌倉に攻めいり、この辺を統治していた相模守で足利尊氏の弟直義と戦い、この戦いに敗れた直義は逃れる際に、家臣淵辺義博に親王の暗殺を命じ、7月23日の早朝に御首を刎て、28歳の生涯を閉じるとある。

お墓はこの鎌倉宮の裏山の分かりづらいところにあって、何度も行き来し、やっと見つけた。急な階段を何段も上るような場所で、中には入れなかった。

     


でも、この後の話が、全国にはたくさんあって、
実は私が住んでいる相模原市には「わかれ橋」や「縁切り榎」が渕野辺本町にある。
(相模原には淵野辺という地名があり、淵辺義博が統治していてその居館もあったことから付けられたという説もある。)
その淵辺義博は、何と直義の命に叛いて、護良親王を石巻に逃がしたというのだ。その時に妻や子と縁を切った場所がここだというのだ。ほんとかな~  
  


淵辺義博の館跡が勤め先の近くにあるので、撮ってきた。民家の庭先にある感じで、それにこの辺は坂が多い。近くに堺川沿いを鎌倉街道が通っているので、川までが河岸段丘になっているようである。
   


また、私たちが歩いている東海道53次にも、護良親王の首を洗ったという「首洗い塚」があったし、

 


それこそ、「智方神社」のカムフラージュもあるのである。

    


首を切った折に食い込んで、刀がなかなか抜けなくて、気持ち悪がって草むらに投げていった。そして、それを拾って弔ったのが、墓近くに「理智光寺址」という碑が立っていたが、そこの坊さんであるという。信ぴょう性はある。

また、草むらに投げ込んだということから生まれた、一緒にこの土牢で生活をしていたとされる南御方(みなみのおんかた・後醍醐天皇の側室を貰い受けたという説もある)が首を持って逃げて、京都のお父様(後醍醐天皇)にお渡ししたいという気持ちも分からぬもない。

昔は伝説を吹聴して、歩いて回る人がいて、俗に、高野聖や願人坊主や修験者などと呼ばれ、話をして人に勧進を乞い、お金をもらっていたとされる。そういう人が作り上げたものかもしれない


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