wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

念願の三社詣(さんしゃもうで)と薩埵峠(さったとうげ)

2012-08-22 15:10:51 | 東海道珍道中
平成24年8月19日(日)

二週間前「青春18切符」で田子の浦から掛川間を歩いたり電車で移動したりして、珍道中を行ったが、その途中にある由比宿と興津宿の間にある薩埵峠は行かなかった。でも、ガイドブックをよく読んでみると、この薩埵峠は安藤広重が「東海道53次」に描いてある絶景ポイントだし、今読んでいる「風の群像」の主人公、足利尊氏と弟の直義(ただよし)が戦った場所であり、また、今川義元亡きあとを継いだ氏真(うじざね)と武田信玄が戦った場所でもあるという。

こんな由緒ある場所は行ってみたいという願望が募り、千ちゃんに連絡すると、快く承諾してくれ、それなら頼朝が行っていた「三社詣」の内、箱根神社と三島神社は行ったけど、あと残りひとつの伊豆山神社には行ってないからそこにも行こうと話が決まり、雲一つない晴天の中、決行した。

しかし、こちらがこんなに晴れているから、薩埵峠はさぞかしいい景色が見えるであろうと期待して行ったのだが、残念ながら富士山には雲がかかっていて見えなかった。最後に電車に乗ってから全景が見えたくらいであった。

まあでも、今回も期待を裏切らなかったな~と感じるほどの収穫があった。

では、東海道珍道中を書いていこう。
この間と同じように上溝駅に6時15分に待ち合わせ。
今回は自転車置き場に置いたので安心である。
静岡まで行くと片道2000円はかかるので、やはり「青春18切符」で行くのが、お得である。今回はこれを使っている人が多いのか、下りた熱海駅では「青春18切符のご利用のお客さんはしっかり見せてから出てください」という張り紙が書いてあったりもした。

まずは、伊豆山神社へ行く。熱海駅で降りた。
熱海は温泉で有名な町で、駅前には無料の足湯があった。帰りに浸かろうかと思ったが、夕方5時頃までで、体験することはできなかった。残念。
 

徳川綱吉や吉宗はこの温泉をひどく気に入り、江戸城まで15時間もかけて、運ばせたとあった。着いた頃には丁度良い湯加減になっていたというが、本当かな~
それに、この駅前を再開発するのか大体的に工事していた。
熱海は海に近いが、山も迫っている。神社まではバスで行くが、乗っていて体が傾くほど急な坂を行く。誠に坂の多い町である。

伊豆山神社は他の2社からすると、知名度がいま一であるが、なかなかどうして、神様自体は箱根神社の神様のお父さんにあたり、最初にこちらの神社があり、後に箱根神社に息子の神様を分けたそうだ。昔から修験道たちが募り、この神社の参道には宿坊が立ち並んでいたという。
 


境内には、高麗神社から持ってきたというパワー石があったり、頼朝と政子が愛を語り合ったという石の椅子があったりした。頼朝や政子が夫婦の契を結んだところでもあるので、縁結びの神社でもあるという。
また赤龍と黒龍の伝説もあり、「強運」お守りも売っていて、思わず記念に買ってきた。
由来も書いてあったが、難しくて分からなかった。
ここからの眺めも良くて、頼朝や家康や歴代の武将たちも見ていたかと思うと感慨深い。
              


次に、同じ境内にある「伊豆山郷土資料館」へ行く。私たち以外には誰もいなかったので資料館の人がいろいろ説明してくれ、今まで知らなかったことを沢山知ることができて嬉しかった。
まずは、頼朝関係では、
三社詣は箱根神社→三嶋大社→伊豆山神社の順に回ったということである。なぜなら石橋山合戦の時に亡くなった部下を詣でるために最後にしたという。確か佐奈田神社が祭ってあったと思う。
また、この石橋山合戦の時に椙山(すぎやま)に逃げ込んだ頼朝を匿ったということが書いてあるが、これは箱根神社に頼朝が逃げ込んだのではなく、箱根神社の人たちが隠れている椙山の祠まで食料や逃げ道の手助けに来たということを話してくれた。今まで疑問に思っていたことが納得いった。

政子は結婚させられそうになると、韮山にあった北条の館からこの熱海の伊豆山神社にまではるばる逃げてきた。歩いては無理だと思うから馬に乗って来たのであろうか。ほんと行動的で情熱的な人だ。
また、石橋山合戦から頼朝が鎌倉幕府を作るまでの間、この伊豆山に住んでいたということである。
そして、頼朝の死後、自分の髪の毛をマンダラに縫い込んで弔ったということである。頼朝のことを心底好きだったようだ。

 


社殿を飾られていたという彫り物が発見されて、何とこの彫り物の人は「波の伊八」という波を掘ったら日本一と言われた名工で、その作風は同時代に活躍した葛飾北斎のあの有名な「富嶽三十六景」にも強く影響を与えていると言われている。

  


源実朝の舎利(骨)も展示してあった。木製黒漆の箱を舎利殿に見立た舎利厨子。この神社の神主さんが歴史にあまり興味ない人であり、捨てようと思って整理した中にあったという。表のところに何か書いてありよーく読むと「実朝舎利」と読めた。
源の家紋の木である「ナギ」の木の鉢植えがあった。この葉っぱを重ねて家紋にしている。
 


その他にも、伊豆大権現の神様「男神立像」(本物はMOA美術館)が展示してあったり、昔の看板が展示してあった。この中には鳩や蛇などの動物が隠れている、不思議な看板であった。
    


次に薩埵峠(さったとうげ)に行く。熱海から電車で由比駅まで行き、そこから歩く。由比は桜えびが名物で、由比のそこかしこに即売所がある。お腹も空いてきたので、ガイドブックに書いてあった富士の眺めがよくてかき揚げも美味しい「望嶽亭」を目指して歩く。途中「小池邸」という名主の屋敷があったので入ってみた。そこで「望嶽亭」のことを聞いてみたら何と定休日だというので、代わりに「くらさわ」を紹介された。行ってみたら最初は少なかったお客さんがどんどん入ってきて椅子を埋めている。人気のあるお店なんだね~と言いながら、美味しいかき揚げ定食を食す。前回食べたかき揚げよりは衣が薄く、食べるとパリパリという感じだったけど、確かに美味しかった。そして会計をする時に、ふとカウンターを見ると、そこに「美味しんぼ」の漫画が。聞いてみると、このお店は美味しんぼの中に出てくるかき揚げのお手本になったところで、作者の人が取材に来て、作り方やお店の様子もその漫画にはちゃんと書いてあった。偶然にもこんな地元では有名なお店に入ることができて、ラッキーである。
     


お腹も満足したので、さあ、次は薩埵峠に頑張って登ろうの掛け声のもとふたりして勇んで歩き出す。

が、思いのほか厳しい。上りがきつい。峠はやはり山を越えるのだから仕方ない。
私たちが歩いた道は、上道で、徳川幕府が参勤交代ができるように道幅を広く整備した道で、海岸沿いを歩く下道は別名「親知らず子知らず」と言われ、この道は東海道の難所で、旅を続けていた親子が途中で離ればなれになってしまうほどの険阻な道であったということだ。昔の旅は命懸けだ。

フーやっと到着。でもほかは青空だけど、ちょうど富士山のところに雲がかかっている。なんとか風が吹き飛ばしてくれないかなーと願いながら振り返り振り返り歩いたが、最後までかかったきりであった。

         


でも、安藤広重や昔の旅人たちと同じ風景を見ることができたことには大満足である。

帰り道は迷ったりしながら歩いたので、二人とももうクタクタになって、興津駅に到着。早速サ店に入って、かき氷を食べ、涼を取る。

しばらく休んで、体力が回復してきたので、この興津駅から近くにある「清見寺」(せいけんじ)に行く。薩埵峠からの帰り道にみかん畑が多くて、清見(きよみ)オレンジがなっているのかって、千ちゃんが言って、私もてっきりそうだと思っていて、だからこれも「清見寺(きよみでら)はここからどう行けばいいですか?」ってお店の人に聞いたら、キョトンとして「あ~、清見寺(せいけんじ)のことね」と言い直されてしまった。

清見寺は家康が今川の人質になった時に、ここの住職の大原雪舟斎に軍学を学んだお寺で、行ってみてあまりの立派さに感嘆した。残念ながら、時間が遅くて中には入ることはできなかったが、庭からでもこの寺の荘厳さはわかる。
        


帰りは、頼朝の死後、幕府内の権力争いに敗れた梶原景時を追討するための豪族たちが追討令を受けたという清見ヶ関を見た。ここから景時たちは東海道を通って「狐が崎」まで必死で逃げたんだな~。
 


そして、この辺では有名な「宮様まんじゅう」を買って帰った。昭和天皇が清見寺に来られた時のお土産だそうだ。
  


興津駅に戻り、電車に乗る。熱海で降り、足湯に浸かろうと考えて行ったが、時間が遅くてお湯は抜いていて、もうなかった。残念。

あとはゆっくり帰るだけだ。今回もたくさんの発見ができ、大満足だ。
いつものようにこうやって歩けることに感謝して、終わりにしよう。

24957歩(約15キロ)
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青春18切符で「東田子の浦」から「掛川」まで

2012-08-14 11:01:35 | 東海道珍道中

東海道を歩いていると、知らず知らずに神奈川県を過ぎて東西に長い静岡県に突入した。

電車賃は馬鹿にならない。そこで思いついたのが、この「青春18切符」
長い休み期間だけ発売され、JRの普通電車が一日乗り放題という優れものである。5回(5人)ひとまとめに売られていて、11500円。1回分(一人分)2300円というリーズナブルさである。

「青春」という響きに気恥かしさを十分に感じて、JRのみどりの窓口で「青春18切符をください。」というのがとっても勇気がいったが、年齢制限なしという何とも有難いルールによってこうやって使わせていただく。

今回はそれを利用して、このタイトルのように、静岡県富士市の山部赤人の短歌「田子の浦 打出てみればま白にぞ 富士の高嶺に雪は降りつつ」で有名な田子の浦から関ヶ原の戦いで功績を上げるまで山内一豊が居城としていた掛川城がある掛川まで、電車を大いに利用しての一泊二日のウオーキングを決行した。
え~!電車でウォーキング?とツッコミを入れられそうですが、やはり私たちの年齢や体力では無理はしちゃいけないと感じておりますので、文明の利器は使わせてもらいます。それでも、東海道と電車の駅はなかなかリンクしていないので、歩かなければいけないところは多々あったのですが。

この二日間は平家が水鳥の羽音におそれを感じて逃げ帰った「平家越えの碑」や「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」で有名な大井川を見ることができる。それに駿府城や掛川城もコースに入っている。楽しみに胸をワクワク(蛇足ながらこのブログのタイトルの由来である)させながら今回も臨む。果たして大正解で、行ってみて確認できたことが数々あり、期待はやっぱり裏切らなかったなーというのが実感である。実際に行ってみることの大切さを再確認できた旅でもあった。

それでは、珍道中の様子を詳しく書くことにする。

平成24年8月6・7日(月・火) 夏休みももう中盤に差し掛かり、時間の流れは早いな~と感じながらも、時の流れに身を任せている中、出立する。

上溝駅、6時25分の相模線に乗る。いろいろ乗り継いて、8時53分東田子の浦駅に到着した。この日も晴天で、電車の中は冷房が効いていて快適だったが、一歩外を出ると、灼熱の太陽という言葉が、ぴったりとくる天候であった。

駅を降りて、海岸の方へ行き、俗に千本松原と言われている防風林の中を、山部赤人の碑を見つけようと、海岸線をずーと歩いた。また、何人かにその場所を聞いては見たが、はっきりとはみなさん分からず、結局地元では私たちが有名でその場所を見てみたいと感じるまでの史跡ではなくて、そんなに力を入れていないんだな~と感じた。
  

実際その和歌が作られた場所は分からなかったが、同じようなところを歩きながら考えたことは、昔はこんなに海岸は整備されていなかったから、松林から海岸に出るともうそこは波打ち際で、波の打ち寄せる時に出る白い波しぶきと、振り返るとそこには富士の雄姿があり、その高嶺の雪の白さとを対比した和歌なんだろうと二人納得しながら歩く。何しろ暑かったので、最初から根負けして、この碑は見ないでいいやということになった。
   


海岸をあとに東海道に戻り、次の目的地へ行く。
この辺は富士の名所であるので、見えたらさぞかし見事な富士の雄姿を拝見できただろうが、いかんせんこの日は天気は良くて気温も高かったが、富士山には厚い雲がかかっていて、全く見えなかった

次は、いよいよ「平家越の碑」と広重が東海道五十三次「吉原」で描いている「左富士」である。ここへ行くまでも道に迷いながらだった。
まっすぐに幅広な道を東海道だと思いながら歩いていて、今思うと笑っちゃうけど、「左に富士が見えるには道が大きく迂回していなくてはいけないからきっとこの道を整備するときに、真っすぐにしちゃったんだよ」などと二人して納得しながら歩いていた。結局、一本道を間違えていたのが分かり、遠回りしたが、何とか見れた。
       


ここでの発見は、富士川の戦いに義経が参戦していたことである。碑の中の絵には右の端に「義経陣」と書いてあった。以前私たちは、三島の「八幡神社」で頼朝と義経が対面して柿を食べたという「対面石」を見ている。その後二人の関係はねじれていくのだが、どうもこの富士川の戦いの前に対面し、その後に、この戦いに臨んだようだ。でも、他の資料では平家を退却させた頼朝のもとに、奥州から義経が駆けつけて対面したとあるが、どっちが正しいのか。

また、左富士の場所では、広重が描いている松が現在でも同じような形をしてそびえ立っていた。これは趣深いことだ。それに、ほんとに道が湾曲しているので、西に向かう時は本来なら右手にある富士がほんとに左手にあった。(実際には雲で富士山は見えなかったが)

次に、吉原から蒲原までは電車で移動した。

蒲原から由比までを歩く。ひと駅分とはいいながらもやはり歩きは大変である。
由比宿では、由比本陣跡由比正雪生家を見る。そして、昼に食べた「桜えびのかき揚げ」の絶品のこと。こんな美味しい桜えびを今まで食べたことがない。やはり地元独特の揚げ方でもあるのか。残念ながら写真を撮ってこなかった。きっとあまりにも疲れていて忘れたのであろう。そして食べてからこの美味しさに気づいたのかもしれない。
    


由比駅から清水駅までは電車で行く。この清水は昔江尻宿があったところで、今川氏が支配していた頃から栄えていたが、海を持ちたいという武田信玄が江尻城を築いて発展を遂げたらしい。清水は、私たち世代は清水次郎長が有名だが、今は清水次郎長よりもちびまるこちゃんや清水エスパレスが有名な町である。
   


次に新清水から私鉄に乗って「狐ヶ崎」に行く。ここは私たちが興味を持ち始めている「梶原景時」の墓があると資料に載っていたので、探しに降りてみた。が、実際には墓は見当たらなかったが、それに引換に大きな収穫を得た。
天気が良くなり、が出た。今日初めて富士を見た。鉄道の上を川が流れている、そんな光景を見た。
    


梶原景時の墓は見つからなかったが、駅の近くの吉川神社に行ったら、梶原と吉川家(きっかわけ・周防の国の領主・参勤交代の折いつもこの神社によって奉納する律儀な性格が家康に気に入られてこの領土をもらったとされる)のつながりがあることがわかった。

家に帰ってからインターネットで調べてみたら、どうも景時の三男景茂を討ち取ったのがこの辺の豪族吉香友兼(きっこうともかね)で、その人は吉川友兼とも呼ばれていて、景茂の首を取った刀はこの場所の地名をとって「狐崎」(きつねがさき)と呼ばれ、国宝になって吉川家の家宝として代々受け継がれているということである。

ちなみに、この近くで、梶原景時一族郎党全員が戦死したとある。頼朝と同じく文化人で読み書きに優れ、重宝された景時も頼朝死後はこういう結末が待っていろうとは思いもよらなかったであろう。
    


東海道に戻って、薄暗い中、草薙駅まで歩く。
    


草薙駅からJRで静岡駅に行く。ここで宿をとっているので、一日目終了である。
予約した駅近くのビジネスホテルに荷物を置き、夕飯を食べに行く。そこでは海の幸を食べようとしたが、紹介されたところがいかんせん高いので、同じく紹介された焼肉屋さんに行くことにした。そこが「ソウル」とかいうお店で、チェ・ジウの親戚だとかで、食べに来たとか、羽鳥アナウンサーも昨日来たとか、他にもたくさん有名人のサインが飾ってあって、そのくらい舌の肥えた人達が好んでいるらしいので、さすが、美味しかったと感じた。
 

ホテルで、徳川家康が好んで飲んだという緑茶を飲む。それを飲みながらオリンピックの確か女子体操を見ていた。炎天下の中23キロも歩いて疲れているのでバタンキューかと思いきや、なかなか寝付かない。私はこの美味しい家康のお茶にカフェインがふんだんに入っているのかな~と思った。翌朝、千ちゃんに聞いてみたら、千ちゃんはそんなことがなく、私が全く聞こえなかった救急車のサイレンで見が覚めたと言っていた。ちなみに私の部屋の方が道路側なので、おかしいな~。人によって気になるものが違うようである。
 


静岡は、駿府とも言うし、府中宿もある。いろいろな呼び方がされている。明治になって統一したらしい。
そう、この駿府は家康が今川に人質として19歳までの12年間生活をした場所だし、その後、駿府は信玄に攻められて焼き払われ、さらに、家康が武田勢を攻めて、壊滅状態にしているということだ。でもその後、家康は正式に駿府に入り、この駿府城を建て、関ヶ原で政権をとったあとも、この駿府城を老後の隠居城として整備させたということです。家康にゆかりがある土地である。
          


駿河からは安倍川餅で有名な安倍川に歩いて行く。

江戸時代から続く安倍川餅を食べさせてくれる老舗「石部屋」(せきべや)へ行く。
そこのおじさんは色々話してくれたが、一番頭に残ったのは福山雅治が「安倍川で安倍川餅を食べる」と言って、この店ではなく、となりのお店に行ってしまったということである。以後、そっちの方が若い人が行くようである。なるほど、安倍川を渡る前にその前を通ったら、福山雅治や仲間由紀恵などの有名人の写真が大きく掲げてあった。
また、安倍川餅はきなこ餅のことで、砂糖は貴重なのでそのまま乗せてあった。
こちらも引けを取らずに、有名な人が来ていて、山下清さんも何度も来たらしい。
安倍川のところには薩摩藩に作らせた堤防もあった。
また、謀反の企みが露見した由井正雪は、府中宿で捕らえられ、安倍川の畔で処刑されたという。石碑があった。
      


安倍川駅に行くのも大変で、歩いて安倍川を渡り、彷徨いながら安倍川駅に到着した。そこからは焼津に行く。焼津がマグロの漁獲高日本一とか聞いていたので、そこでお昼を食べる。駅から5分ほど歩いたところに手頃のところがあった。マグロ丼を食べる。果たして大正解で、まあ、歩き疲れたこともあったのか、これほど美味しいマグロを食べたことがないと思えるほど美味しかった。それも一日限定10食のマグロ丼を食べられた。
 


次に焼津駅から大井川がある島田駅までまたJRに乗って行く。


島田駅から大井川近くの島田市博物館までもだいぶ歩いた。そこに行くまでの道は昔のように宿屋が立っていて、人足の人形や当時の風景の写真も展示してあった。
        

大井川は東海道の難所の一つで、急流のために雨が降ると度々「川留め」となった。そこで島田宿で文化が芽生え発展してきたといわれています。
川越賃金は、川の深さと川幅によって違い、毎日測って決めていたそうです。
股通(太ももあたりの深さ)では48文(1440円)から脇通(首下、脇あたり)で、94文(2820円)(1文30円で換算)で、5段階に分かれていた。一人で肩車をして渡ればこの値段だけど、蓮台を使えば4人分のお金がかかる。そう考えると、川を渡るのは随分お金がかかったものである。

でも、行ってみて分かったことは、もう大井川は昔の水量はなく、写真のような川幅が広く水量も満ち満ちている大井川のイメージとは程遠く、バスで大井川を渡ったが、残念なことに川幅5メートルくらいしかなかった。小学校くらいから大井川といえば「越すに越されぬ」と思っていた私にとっては、とてもがっかりとしたことであった。
 
  


博物館で新しい発見があった。
それは現代、花嫁さんが結う髪型が島田髷(まげ)と呼ばれ、虎御前(仇討ちで有名な曽我兄弟の兄十郎の恋人)が考案したという。そもそもこうやって興味を持って東海道を歩くようになったのも、「曽我兄弟の密命」をいたく感動して読んでからで、こうやってここでもこの曽我兄弟に関係ある人が出てきたのは驚きものである。

芭蕉の句碑もあった。
 

「馬方は しらず時雨の 大井川」
「さみだれの 空吹きおとせ 大井川」

最後は、金谷駅までバスで行き、そこからJRに乗って、掛川駅まで行く。
そこは、大河ドラマ「功名が辻」で、舞台になったところで、その当時なのか、だいぶ町自体が整備されている感じがした。
5時を過ぎていたので中を拝観することはできなかったが、掛川城の外観を見ることはできた。
       


掛川駅近くのコンビニで夕食のおにぎりを買い、電車の中で食べる準備をして、電車に乗り込む。上溝の駅に着くまで約4時間かかる。自転車大丈夫かな~と心配しつつ。

泊りがけの東海道珍道中も1回目の小田原2回目の三島、そして今回3回目を数え、安い手段を覚え、充実を増している。
歴史とは何と奥深いものなんだろう。考えてみれば、こんなたわいもない私にも小さい歴史があって今がある。それが大きな流れに合流して時間が形成されている。そんな人間の営みの中で生きていかなくてはいけないのである。そんなひとつの小さいことを紐解く楽しさを今回も十分堪能できた。
いつものようにこうやって歩ける幸せに感謝して筆を置こうと思う。
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宝戒寺・元八幡・極楽寺坂切通し

2012-08-09 08:50:54 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
 平成24年7月29日(日)、義経が頼朝に送った「腰越状」を書いたところの満福寺と護良親王が幽閉されていた鎌倉宮を千ちゃんが見たいというので、いつもながら晴天のこの日、大学時代以降乗っていない江ノ電にも乗ってみたいという願いも重なって、鎌倉ウオーキングの運びとなった。

 実は私は以前行ったことがあるのだが、はたまた、行ってみて、新しい発見があったり、歴史的なつながりを確認できたりしたので、改めて鎌倉は歴史の宝庫だな~と思った。
 この見出しのところの宝戒寺(ほうかいじ)や元八幡(もとはちまん)は最初は全く知らなかったところであるが、鎌倉駅前にいた鎌倉観光案内ボランテイアの方と話すことによって、私たちが興味を持っていることとつながりがあることを教えてくれ、実際そこに足を運ぶことができた。人に聞いて教えてもらうことで知り得る情報がいっぱいあるんだということも知った一コマだった。

では、前置きはが長くなったが、最初から振り返ってみよう。

まずは、町田駅の窓口で「江ノ島・鎌倉フリーパス」990円を買う。一日小田急線や江ノ電が乗り放題なので割安である。

藤沢から江ノ電に乗り換えて、「腰越」で降りる。そこから「満福寺」までは歩いて5分くらいである。
  

腰越状」は弁慶が下書きをしたものと伝えられている。それでも、平家を滅ぼした武将の誇りや兄頼朝への思慕、素直に兄に受け入れてもらえぬ義経の苛立ちが現れているそうです。実際展示したものを見ても、何が書いてあるのか読めないが、達筆な文字や草書の行間からは、一所懸命思いを伝える姿勢が感じられ、頼朝という人物をほとんど理解していないことによる悲劇が感じられた。

義経は1185年壇ノ浦で平家を滅ぼしたのに、頼朝は義経に対して勝手な行動をすると立腹していた。この満福寺までは来れたが、鎌倉に入ることは許されなかった。兄の疑惑を晴らすために「腰越状」を書いたのだが、あて先は「大江広元」(片倉城の城主であり、毛利家の先祖であると千ちゃん云く)。この人選がまずかったのか結局願いは叶わず、京都へ引き返すことになった。
その時通った道が、職場近くにある鎌倉街道で、鶴間には義経が、休憩を取った時、鶴が舞っているのを見て、「鶴は自由に鎌倉へ行き来できるが、私はもう行くことはできない」と嘆いたとされ、地名が「鶴が舞う」から「鶴間」になったと、言い継がれている。

実は義経はこの腰越の地に戻ってくる。塩漬けになった首だけで。その時はもう、頼朝は奥州の藤原氏を倒すのが本来の目的だから、一人の九郎義経なぞ、どうでもいいことになっていたのだ。首実検は和田義盛梶原景時に任せ、自分は立ち会わなかったとされる。満福寺での首実検に派遣された義盛は、お労しい(おいたわしい)お姿に涙を流したとされる。

昼食は江ノ島は「しらす」が名物だそうで、その満福寺横の階段を上ったところにある「義経庵」で食す。


余談だが、この満福寺で買った冊子に、腰越の海岸に小動岬(こゆるぎみさき)があるが、そこで太宰治が心中未遂事件を起こしたと書いてあった。

鎌倉駅に着いた時に観光案内のボランデイアの方がいたので、「頼朝の墓や鎌倉宮へ行きたいが、効率よく行けるには?」と聞いたら、とても親切な方で、大江広元の墓もあるとか、北条九代が住んでいた館があるとか、鶴岡八幡宮の前の幕府があったところがあるとか教えてくれた。さすが現地の人である。

若宮大路を通って、頼朝の墓に行く。近くには白旗神社(源氏は白旗である)もあった。この場所は鎌倉幕府の東のはずれにあり、西は朝比奈小学校があった。
    


少し離れた所に、大江広元の墓だろうというところが小高いところにあった。その大江広元の墓は一つではなく三つ並んで建っていた。不思議だなと思い、そこを掃除している50代の男の人に、こんなところを掃除している人だから何か縁があるのかと思い、「大江広元の子孫の方ですか?」と質問してみた。そしたら大変、その方は、全く歴史を知らない奴がまた来たという顔をして、「これは薩摩藩と毛利藩が作ったもので、だからこのところは区切ってあるんだ。」から始まり、「大江広元には子どもが何人もいたけど、幕府に謀反を起こした人もいてやっと命だけは助けてもらえた。本来なら家名断絶だ。」とかなんとかたくさんの知識を話してくれた。でも、専門的すぎてわかりづらかったので、早く退散したかったが、千ちゃんが思いのほか聞き入っていて、向こうもこの時とばかりに饒舌になって話していた。
  


大江広元は、頼朝に招かれた幕府官僚で、守護地頭の設置を進言するなど鎌倉幕府の基礎作りに功績があったとされる。でも、墓自体ははっきりしていない。

やっと退散して、いざ、鎌倉宮へ。ここは、護良親王が幽閉されていた石牢を見たり、護良親王の身代わりになって死んでいった村上義光(むらかみよしてる)が身代わり地蔵となって彫られていたりもした。
  


次に、鎌倉駅の方へ帰る途中に「宝戒寺」がある。北条執権の代々の屋敷とされる。鎌倉幕府が滅亡した際、北条の霊を弔うために、後醍醐天皇が足利尊氏につくらせたお寺であるとされる。


そして、大河ドラマ「平清盛」でこの人が登場したことで少しは視聴率を上げたと言われている玉置宏が演じた「源義朝」が住んでいたとされる「寿福寺」に行く。そこには偶然にも北条政子や源実朝の墓を見ることができた。
     


一通り行きたいところは見たが、まだ時間が早いので、「元八幡」に行った。そこでまた、新しい発見があったから、面白い。

最初はこの元八幡の地に幕府の中心・政務を行うところをおいたが、手狭になったので、鶴岡八幡に移したという。それまでここは幕府の中心地であった。
そしてなんと、時は移って大正時代。この元八幡一帯は別荘地であったといことで、芥川龍之介の別荘もあったという。「ある阿呆の一生」ではこの海が近い場所で平和に暮らしたと一節が載っているということである。少し歩いてみたが、その面影は皆無であったが。
   


江ノ電に乗るために、歩いて和田塚駅を目指す。そこで、和田塚と言うんだから和田義盛に関することが塚でもあるかと思って、人力車を引いている人に聞いてみたら、そういうのはないという。その代わり「どちらへ行くのですか?」と尋ねられたので、「極楽寺の切通です。」と答えたら、私は見ていなかったけど千ちゃんはよく見ていた中井貴一と小泉今日子のテレビドラマのロケに使われたところですよ。と教えてくれた。そういうふうにプラスアルファーがあると俄然興味が湧いてくる。心なしか千ちゃんの足取りも軽くなっていったようだ。

江ノ電はほんと家の軒先をかすめていく。線路と町が一体化している。

極楽寺では、駅のすぐそばに「極楽寺」がある。もう夕暮れが迫ってきているので、あたりは薄暗い。
ちょうどお店を閉めて、帰ろうとしている人に、切通しを尋ねる。その人に聞いたのが、大正解で、切通しの場所やロケのよく使った場所、そして中井貴一や小泉今日子の見た感想等を話してくれた。二人ともテレビに出ている通りの人で、特に小泉今日子さんの方はとっても若くて素敵だったと言っていた。ロケによく使われたお饅頭屋さんは閉まっていた。「御霊神社」は線路の向こう側にあった。なかなか由緒がありそうだ。
        


以前に稲村ヶ崎に行った時に、新田義貞がこんな絶壁の海岸沿いを潮が引いたからって通れるわけないよなと思いながら見たのを思い出す。この極楽寺坂切通しは、その稲村ヶ崎を越えた新田勢が次に通った道である。きっと敵が待ち受けていて、大きな戦いが繰り広げられたのであろう。そう思うとこの場所を通り過ぎた時、思わず手を合わせていた。

鎌倉はそこかしこに歴史的な史実が散らばっていると感心しながら、江ノ電に乗り、帰宅の地に着く。今回もよく歩いた。
25489歩(約15キロ)である。
いつものよう健康にそしてこうやって好きなことができることに感謝して、筆を置きたいと思う。








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芭蕉・「奥の細道」の出立の地 「深川」

2012-08-05 10:30:28 | その他
平成24年8月1日(水) おばさん3人組はこの真夏の暑い日差しの中、10時に待ち合わせて深川に行く。
町田から小田急線に乗り、代々木上原で東京メトロ千代田線に乗り換えて、大手町で東京メトロ東西線に乗り、深川界隈の門前仲町駅に着いた。

この辺は下町と言われているところではあるが、地下鉄の駅から地上に出てみると、大きなビルが立ち並び、幅の広い道路が走り、もはや下町という雰囲気はだいぶなくなっていた。

まずは、少し早めの昼食をとる。古くから軒を広げているお店「門前茶屋」に行く。
この深川は海が近くにあり、昔からあさりがよく取れていたところなのであろう、アサリを使った料理「あさり蒸籠飯」が名物だそうだ。


その店は、日本的な作りなのか、いろいろな映画の撮影に使われているそうで、中でも渡辺謙主演の「沈まぬ太陽」で使われたそうである。その店を一日の平均売上金約40万円で一日貸し切って、撮影したと言っていた。渡辺謙さんや三浦友和さんが座ったという椅子まで教えてくれた。他にもキャイーンのサインがあったり、朝ズバでのアナウンサーたちのサインが貼ってあったりとなかなか有名な店だった。

次に、深川江戸博物館へ行く。江戸の町並みや暮らしぶりが再現されてあった。

       


また、この深川にゆかりのある人々が紹介されていて、芭蕉はもちろん、伊能忠敬や
佐久間象山などもいた。平賀源内が電気を発明した場所もこのへんだということである。
       


次に、いよいよ芭蕉に関する場所へ行く。
まずは、芭蕉記念館。ここでは全国各地で俳句を詠んでいた経歴がわかる。
   


歩くときに使っているカバンにぶら下げるストラップを買った。
 


そして、とっても暑い中、川沿いを歩いて、芭蕉庵跡や芭蕉神社に行く。
   


実際ここに住んでいたんだと思うと、感慨深い。
何一つ残ってはいないが、芭蕉が大事にしていたカエルの置物が出てきたとか。それがこのカエルである。う~ん。

私は、芭蕉の句の中では臨終の句とされる
旅に病んで 夢は枯野をかけめぐる」が好きだ。
これだけの全国を旅して、そしてその場所場所で思いを馳せて俳句をつくり、死の間際もこういうふうに思っているなんて、すごいな~と感じる。

暑い中を歩いたので、3人ともバテ気味。
居心地がよさそうなカフェを見つけたので、しばし休憩する。
とっても感じが良くパフェも美味しかったので、ずいぶん長居してしまった。
女3人寄ると、話の切れ間がなく、次から次へと話が盛り上がる。




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新田義貞が掘った「鎌倉井戸」

2012-08-05 09:39:58 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
職場の仲良し3人でこぼこトリオ

3人のうちの一人が、「私の家の近くに新田義貞が作ったという井戸がありますよ。」と教えてくれた。
以前私は、新田義貞が鎌倉攻めの時に渡った稲村ヶ崎に行っているし、そこから中心を攻める時に通った極楽寺の切通しにも行ってその現地を見ている。だから鎌倉に攻める前に通ったとされるその道には興味がある。真夏の暑い日に「鎌倉井戸」に行くことになった。

その途中にうどん屋さんが有り、セルフサービスで天ぷら等をトッピングできる。ネギは好きなだけ入れられるし、生姜もOK。ゆで卵の天ぷらなんて初めて食べた。きくらげの天ぷらは大好き。

腹ごしらえをして、いざ、「鎌倉井戸」へ。
町田の七国山の近くで、住宅地を抜け、山なりの道を上り、だいぶ自然が多いところに来た。七国山(ななくにやま・七つの国を見渡せる山という意味らしい)の頂上付近である。
      


なるほど、まだ開発がされていなくて、鎌倉古道と看板があったが、その名の通り、昔もこんな感じだったんだろうなと思える雰囲気である。歩いていると昔にタイムスリップしてしまいそうである。
1333年、そこには何千人という人々が、鎌倉攻めの緊張感の中、人や馬が一時の休息をとっていたと考えると、感無量である。

この七国山からは天気が良ければスカイツリーも見えるというので、少し登って見に行くが、あれかなーくらいだった。昔は七つの国が見渡せたというからすごいものだ。

 

コメント (1)
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