wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

皇居へ行ってきました。

2011-03-30 15:08:38 | 旅行記
平成23年3月29日(火) 天気に誘われて、皇居へ行ってきました。

 本来は26日から韓国好きな主人と昔の都、百済や任那の中心地へ行くはずだったんだけど、この地震でそんな気分になれず、それににこまる観光さんのご好意により払った旅行費は全額戻してくれるということでもあり、今回は中止にした。それで、この天気に誘われもし、今読みはじめた「のぼうの城」から乱世を生き抜いた武士に興味が湧いてきて、まずは江戸時代の象徴でもある、江戸城なるものの痕跡を見てみたいと思ったので、こういう運びとなったわけである。

 まずは皇居の江戸城の本丸跡がある東御苑は無料で入れるということをインターネットで知る。それに大手門・平川門・北はね橋門の三つの門から出入りができ、近くの駅は千代田線の大手町が近いということである。意外と開放的であり、都心の中にあって自然が多い所だとホームページを見て感心する。
 
 私たちはまず大手町駅から大手門まで歩く。広い道路を隔てて、あちらにもこちらにも高いビルが連立し、上を見上げると何かこちらに迫ってくるような感覚を覚えた。中には古いビルが取り壊されているのも、2・3あった。あまりの都会的な景色にシャッターを押していると、見知らぬおじいさんに「田舎から来ると、すごいね」と声をかけられてしまい、困った。

 お堀の水は濁っていたが、大きな鯉が優雅に泳いでいた。お堀の内側はきれいに整列した石垣が皇居をぐるっと囲み、あーここが皇居なんだなーと一目で分かる。幅7~8m位の橋を渡って、大手門をくぐる。入り際に門の横の建物の白壁が剥がれ落ちていた。守衛さんに聞くとやはりこの地震で剥がれ落ちたらしい。こんなところにも被害が出ていた。直径1メートルはあろうか太い柱で囲まれ、黒光りした分厚い鉄板の門が荘厳と威圧感を醸し出しながら存在していた。どの門にもいえることだが、この門を閉めることにより、より閉鎖的な社会を作り出し、身内(味方)は厚遇するが、敵は一匹たるもの入れるものかと教示しているようだった。

 東御苑の中はほんときれいに整備されていた。舗装された幅の広い道路の両側を高低の木々が植えられ、その下には芝生のように地面をはわせて、季節の花や草を所々にちりばめて見栄え良く植えていた。穏やかにされる景色に、人々の心も和ませてくれる。そんな中をしばらく歩くと、同心番所や百人詰所があり、江戸城を警備した武士たちの集まり場所であったようだ。

 その次はいよいよ江戸城の本丸があった場所に行った。今は一面広い芝生になっていて、ここの部分に昔江戸城がそびえたっていたんだなーと、考えると感慨ひとしおであった。本丸御殿は、表・中奥・大奥と三つからなっていて、表の方には浅野内匠頭が刃傷に及んだという松の廊下があった場所に碑が建っていた。本丸の北側には男は将軍だけ入れる大奥の場所があり、その跡を見ると本丸跡の3分の1は占めているようで、意外と広い範囲が大奥に使われていたんだなーと分かった。そのもっと北の方に、天守台という小高い丘になっている見張り場所があった。そこは都心にあって憩いを感じさせられるところだ。景色は日本武道館の屋根が見えたりビルの連立が見えたりと都会の真ん中に居るんだなーと分からせてくれるが、巷の喧騒をよそにベンチに座って静かに本を読んでいる人たちもいた。

 次に不浄門とも言われている平川門に行く。江戸城の北東で鬼門にあたるため、こう呼ばれていた。城内の死者や罪人を出す特殊な門であり、大奥の女中たちの通用門でもあったという。1701(元禄14)刃傷(にんじょう)におよんだ浅野内匠頭(たくみのかみ)長矩(ながのり)(1667~1701)が出されて切腹したのも、1714(正徳 4)風紀を乱したとして大奥の御年寄(と言っても30ウン歳)・江島(えじま)(1681~1741)が出されて信州高遠(たかとお)(長野県)に流刑(るけい)となったのも、この門からというこだ。この門に来る途中、梅林坂というこの江戸城を築城した太田道灌が紅梅と白梅を道を隔てて植えたとされる坂があった。2月頃には見事な紅白の梅が咲き誇るらしい。もしかしたらこの人たちもこの梅を見て、江戸城を後にしたのかもしれない。また、春日局(かすがのつぼね)が門限に遅れて門前で一夜を明かしたという門でもある。その日の門衛旗本小栗又一郎は、御役目を守ったとしてお褒(ほ)めにあずかり500石の加増を受けたそうです。その時代の女はいかに春日局といえどもこういう待遇を受けるのですね。

 余談ですが、その梅林坂に行く途中、一面ふきのとうの花がさいているところがありました。ふきみそ(ふきのとうを6つ位に切って油でいためそれにシラスと味噌を入れてからめたもの)が大好きな主人は「もったいない」を連発していました。やはり皇居で働く人でもこれを採ってはいけないのでしょうね。これくらいはどんどん活用すればいいのに・・・
 またこの天気に誘われてさくら(そめいよしの)もつぼみを膨らませていました。もう一つ二つは咲いていました。確実に春は近づいて来ていますね。

 平川門を出て、お堀の周りを歩いていたら、江戸城築城550年の碑が建立されていた。太田道灌がこの千代田区の地に江戸城を築城してから丁度550年にあたるそうです。太田道灌は室町時代中期の武将であり、歌人でもある文武両道の人で、30数戦して負け知らずの名将だった。関東管領職にあった上杉家の重臣で、1457年上杉家がこの地に住むために江戸城を築城した。こんなに主君に仕えたのに、最後は、陰謀により主君に暗殺されたそうである。悲しい結末だ。

 また、大手町の駅に向かって歩いていると、「将門首塚」という文字が目に入る。この近くに平将門の首を祀ってあるところがあるらしい。早速行って、手を合わせてきた。お線香が焚かれ、墓の周りは掃き清められていて、世話をしている人が近くに居るんだなーと思った。将門は兵を起してこの辺の坂東八ヶ国を平定した。しかし奇襲にあい38歳の若さで亡くなる。そのとき切られた首が京からこの東国に飛び去り奉られたという。いろいろな所に将門伝説があり、将門を奉ってある神社があるということだが、ここもそのひとつであろう。

 最後に、この文の最初に「のぼうの城」を読み始めて、興味が湧いたと書いたが、この本を読み進めていくうちに登場人物に何と太田道灌の血筋がいたことに驚いた。忍城を城とする成田家当主成田氏長の後妻珠がそれである珠の父太田三楽斎は太田道灌の曾孫で、道灌と同様に和歌に精通し、合戦でも一番槍を何度も獲得した文武両道で御人であった。豊臣秀吉はこの高名な武将を招き、城攻めの術を問うたという。この部分を読むのは、皇居に行ってからであり、歴史は繋がっていることに不思議な感覚を得た。

 突然思い立った皇居見学だったが、日本の至る所に歴史ありを実感した面白いウオーキングであった。
 
 
コメント (4)
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東海道珍道中<保土ヶ谷~戸塚>

2011-03-05 21:36:23 | 東海道珍道中
東海道53次珍道中<保土ヶ谷~戸塚>
平成23年2月26日(土) 約2ヶ月ぶりのウォーキングである。もっと前に歩く予定が雪や用事で延期になり、前回の珍道中から早2ヶ月余りが経ってしまった。身体とは不思議なもので、約一ヶ月ごと歩いていたものが、2ヶ月も空けるとむずむずしてきて、歩きたいという欲求が湧き上が り、今回は特に期待を胸に膨らませての行幸であった。

今回も9時30分東神奈川駅で、千明さんを待ち合わせ。前日は小春日和であったので、私は少々薄着で来てしまったが、千秋さんは、例の見た目は数十万円実は数千円という超破格値のメタリックブルーのコートに身を包み、ばっちり防寒対策をして現れた。それに日差し対策に帽子まで用意して、い つもながら用意周到な千明さんに脱帽である。

東神奈川から保土ヶ谷まで電車で移動。さあ、いよいよ第5回東海道53次珍道中の開始である。
と、無鉄砲に歩き始めたが、何やらおかしい。どうも駅の反対側を降りて、逆方向に歩いてきてしまったらしい。駐輪場の方に聞いて納得。聞けば何でもないことがこんな失敗を招く。この浅はかさは何にでも通じると自戒し、これからは「聞くは一時の恥、知らぬは一生の恥」(こんなときに使っていい慣用句なのかは分からないが)を肝に銘じ歩みを進めようと確認し合った。

まずは保土ヶ谷宿である。JR線の踏切を渡ると国道1号線にぶつかるが、このT字路の真正面にあるのが保土ヶ谷宿本陣跡である。代々苅部家が受け継いでいて、明治になって軽部と名乗って今もこの地に住み続けているらしい。どうりで近くにこの苗字の表札が多かった。本陣跡は中には入れないが 、塀の外から屋根や格子を垣間見ることができた。屋根の色は薄鶯色で剥げているところがあり、年月の蓄積を感じられ、建物自体は何度も外壁を塗りなおして今なお現存させているのが分かるくらい、黒光りしていた。今の建築とはまるっきり違う、重厚で風格ある趣を兼ね備えた平屋造りになっていた。昔はこの街道に沿って宿 場町になっていて、宿泊や休憩ができる本陣や脇本陣・茶屋本陣・旅籠やなどが並んでいた。

しばらく歩くと道左側を流れる小川の柵に、一里塚の立て札があった。日本橋から一里(4キロ)ごとにおかれたのが一里塚で、松などの目立つ木を植えて遠くから分かるようにしたとのことである。歴史の道として整備されていた。

いよいよ年始恒例の箱根駅伝の難関の坂として有名な「権太坂」に入る。国道1号線をそのまま歩いていくと整備されているせいか、あまり急な感じがしない道をだらだらと登っていった。果たしてその道でいいのかと考えながら歩いていく。先ほどの「聞くは~」を思い出し、前を歩く女の方に聞いてみたら、やはりこの道で方向的にはいい という。そして安心して私たちはまた歩き出した。そしてしばらく歩いてその女の人を抜かそうとしたときに、何やらずーと考えていたことを切り出すように、その女の人は言った。「旧東海道の道は他にもありますよ」と。私たちが尋ねたことを考えてくれて、東海道を歩いていると察してくれたのである。それにはだいぶ戻って 歩きなおさなければならないが、旧東海道を歩くのが私たちの本分であるので、この女の人の優しさが強く感じられた一幕であった。感謝。

道を戻り、分かれ目であるだろう所にガソリンスタンド兼コーヒーショップがあったのでそこで一休憩して、もう一度旧東海道への戻り方を店長にしっかり聞いてから出発した。なるほど、ちょっと入り組んでいて道の迷うのも致し方ないかな~と思った。 そこで食べたコーヒーゼリー、クリームたっぷりでおいしかった 。

さて、権太坂に入る。昔はこの坂を登りきれずに途中で倒れてしまう人が出るほど急坂であったそうだ。行き倒れた人を葬った投込塚と呼ばれる場所があるくらいである。今は改修してあるのでさほどでもないが、やはり坂は坂である。途中権太坂の由来と写真が載っている立て看板があった。由来は耳 の悪い老人にここは何という名前かと地名を尋ねたのに老人は自分の名前を答えて「権太」という名がついたということである。また写真は昭和初期の林間学校で子どもたちが林の中を散歩している様子が写っていたが、この感じが江戸時代の街道そのものなんだなと変に感心してしまった。

権太坂を登りきりしばらく、見晴らしの良いところを歩いていく。海はどっちの方かと考えながら左手の方のちょっとした駐車場で立ち止まり、景色を見る。ランドマークタワーが見えたのでやはりこっちだったと納得して、道の反対側を見ると、「アゲヤ本舗」と書かれた暖簾が下がっている。 小腹が空いてきたのでそこでも、一服。「パンパオ」というたこ焼きみたいなんだけど中はひき肉で外はもちもちとしたパンを揚げているのを食す。隣が駐車場になっていて天気がよければ富士山が見えるという絶景ポイントで揚げたてのパンパオを食べたが、それの熱いこと。思わず立ち上がり、ハフハフしながら、やっと食べた 。残念ながら富士山は見えなかったが、その方向に小高い丘を発見。千秋さんは城壁と言い、私は古墳だと言い、お店の人に聞いてみたら、何とゴミ捨て場、いっきに興ざめ。

道なりにまっすぐ進むと、地蔵堂が見えてきた。境木地蔵である。その名のとおり武蔵と相模の国境に建てられたものである。旅の無事を祈り、さい銭をなげてきた。

境木地蔵を左に進むと「焼餅坂」がある。そのまま歩いていくと、道の両側に一里塚が現存している。そこが品濃一里塚である。木が生い茂っていて分かりづらいが、盛り土や道の両側に分かれて立っている一里塚の形は江戸時代のままだというのでそれはそれで感慨深い。日本橋から九里(約36キロ)になる。

果樹園が所々にあるところを進んでいき、大きな道路に出た。環状二号線か国道一号線か。このまま戸塚宿の方に行くのだが、その前に本日の最大の名所である「護良親王の首洗い塚」を目指す。

例によって千秋さんが調べてきてくれたことをここで披露すると、私たちが住んでいるこの「淵野辺」。南北朝時代、この淵野辺村の領主であったのが淵野辺義博という武士で、足利尊氏の弟直義の部下であった。義直の命により、後醍醐天皇の子どもである護良親王の首をとったのが、この淵野辺義博その人であるということである。それを聞いて俄然、この首洗い塚が身 近に感じられてきた。また、余談であるが私の父や母が眠る「龍像寺」はその義博が龍を退治して、頭・胴・尾に切り分け、胴を祭って龍胴寺を建て、それが変化して今の名になったと言われている。何だか不思議な縁を感じてしまった。

護良親王の首洗い塚は住宅街の中に忽然とあり、5メートル位の細長い土地に大きな石の碑が立ってあり、その脇に首を洗ったであろう井戸の片鱗があった。この辺で淵野辺義博は幽閉されていた護良親王の首をはね、野原に捨て去ったのであろうか。そして京から護良親王を救出にやっ てきた藤原藤房の一行が親王が殺されたことを知って、足利方より親王の首を探し出して、この井戸で洗い清めたらしい。
合掌。現在はこの辺も開発されていて、そんな物騒なことを想像だにできないが、昔はこんなこともあったんだなと、時空を超えて考えた。

その後はひたすら、戸塚宿を目指して進む。実はその後に私は町田の「エルシイ」にのっぴきならぬ用事があり、5時30分までに戻らなければならない。このときの時間は3時頃であったか。遅い昼飯を戸塚駅のレストランで食べ、一息を入れて、戸塚を後にする。ここでのランチはハンバーグや野菜が盛り合わせ られていて、スープやコーヒーが付いて1180円とリーズナブルでおいしかった。カレー味の具沢山のスープはとてもおいしかったので、家でまねして作ってみたら、思いのほかおいしくできた。作り方は、玉ねぎ・ウインナー・人参・ジャガイモ等を薄切りにして、水とコンソメを入れて圧力鍋で10分位煮る。それにカレールーのひとかけらを入れたら出来上がりである。
いつものように、旅の思い出を振り返り、こんな楽しいことをできる幸せに感謝しながら締めくくる。                                       約21700歩  約8キロ位かな?
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