wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

沢山城(三輪城)の形跡は見つからなかった。

2018-03-31 15:19:08 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成30年3月29日(木)、桜の開花が今年は例年より、10日間くらい早く、あっちこっちに桜の満開のニュースが流れている。

そんな中、以前から気になっていた町田にある沢山城(三輪城)と、その近くにある「恩田川」沿いも桜が川に垂れ下がり、それは見事な景色だと、知り合いが教えてくれたのも、気になっていたので、天気に誘われて出かけてきた。

まずは、沢山城。秀吉が小田原攻めの時に、関東を支配していた北条氏照は家臣の三輪城主萩野某氏に兵糧をこの城に集めさせてから、小田原へ鶴見川を下って行ったか、陸路で行ったか分からないが、兵糧を運んだらしい。
実際行ってみて、碑とか案内板とかは全く見当たらず、沢谷戸自然公園がその跡地であるらしい。
       


TBS緑山スタジオのわきを通って、恩田川へ。成瀬駅の近くであった。 
さすが有名な名所、見事である。
  

天気が良くて、桜をめでて、幸せな一日を過ごせました。
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西郷隆盛 歴史講座

2018-03-21 13:11:43 | その他
平成30年3月10日(土)相模原市立図書館に西郷隆盛の歴史講座へ行ってきた。
 大河ドラマでやっているからなのか、すごい賑わいで、開始ぎりぎりに行ったら、席がほとんど埋まっていて、
 頭を下げつつ入れてもらった。

西郷の座右の銘「敬天愛人

西郷の簡単経歴
  1、安政の大獄が起こり、島津斉彬が急死し殉死を決意し、入水自殺。一緒に飛び込んだ月照だけが亡くなり、西郷は生き返る。
  2、奄美大島へ行く。その時は、6石の扶持米と住居が支給された。
  3、なかなか奄美大島の生活に馴染まなかったが、島妻(あんご)を娶り、子ども(菊次郎と菊子)ができ、
だんだん島の生活に慣れていった。
  4、鹿児島に帰ってくる。
  5、久光の政策に反対した。
  6、また島流しに。今度は徳之島に流される。流罪。
  7、久光の命令により、次に冲永良部島へ移動。2坪の狭さ  生涯の友となる川口雪逢と知り合う。学問に打ち込む。
  8、大久保らの力により、2年ぶりについに帰藩する。
  9、明治維新での活躍。勝海舟に「維新は西郷一人でやった」と言わしめた。薩長同盟、江戸城無血開城等
 10、役人と対立
 11、薩摩へ戻り、私学を創設。明治政府に反抗。
 12、西南戦争へ。

西郷の結婚

西郷の人となりは、
  情に厚く、義理に堅く、人望のある人。
  古き良き日本人の姿。
  貧しくも正直に失ったものを探し求める。
  お天道様が見ているから、悪いことはできない。  
  妻の糸子が「雨漏りを直してほしい」と言ったら、「いま日本中が雨漏りをしているから、うちの屋根は直せない」と言ったとか。
  坂本龍馬曰く「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く」そんな人
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大宮氷川神社(武蔵一之宮)と岩槻城と太田道灌

2018-03-03 08:44:55 | 近郊のウォーキング
平成30年2月24日(土)、かってから興味があった武蔵一之宮である氷川神社とその近くの岩槻城近辺をウォーキングしてきた。
朝は少し肌寒い感じだったから、薄手のダウンを羽織っていったが、歩いていると汗が出るくらいになり、途中から手に持ってのウォーキングになった。

まずは、大宮駅へ。
大宮は中山道の宿場町として栄えた町だ。現在は新幹線も通っていて、都心と変わらないくらいの大きな街であった。
歩いて20分くらいのところに「氷川神社」がある。参道が長く続いていて、大きな鳥居が途中にそびえる。

そこで、一番驚いたことは、参道のわきに長い絵巻物があり、それが明治天皇が行幸した時のことが描かれていて、
その中に有名な人物の名前を見つけたことだ。西郷隆盛と大久保利通である。
明治天皇が都を東京に遷都して、その時に1キロ近くの行列がなり、この氷川神社に立ち寄ったという。
      

また、この大宮氷川神社は、古事記によると、大国主命が天照大神など高天原にいる神々に国を譲るとあり、平安時代前期、代々出雲を受け継ぐ古代出雲の一族である出雲族の須佐之男命を奉じてこの地に移住したといわれている。その出雲氏が武蔵国造となり、この地を開拓したと、千ちゃんがまとめてくれたのにあった。だから、氷川神社の神様は須佐之男命なのであろう。

次に、岩槻駅へ。岩月は人形の町である。丁度おひなさまも近いので、つるしびながそこかしこで掲げてあった。
 

岩槻城は、お堀もほとんど埋め立てられ、城の形は残ってはおらず、城址公園として、市民の憩いの場として、あった。
天気も良いので沢山の人で賑わっていた。
    

近くに、太田道灌の銅像があるというので行ってみる。
太田道灌は、伊勢原で毒殺をされるが、その遺骨と遺髪を引き取りに行ったのが、太田道真(道灌のお父さん)と太田資公(道灌の養子の岩槻城主)であり、分骨してこのお寺、芳林寺に埋葬しているということである。
   

今回も主に2つの歴史的史実を知ることができた。面白いものである。
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