wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

青森県を満喫!

2017-08-21 16:10:02 | 旅行記
平成29年8月17,18,19日(木・金・土)と、
「さいはての絶景をめぐる下北・津軽2大半島3日間」
というツアーに参加してきた。
今年のお盆は、夏とは思えない天候で、全国各地で集中豪雨があったり、暑さを感じさせない曇天の天気だったりして、このツアー中も雨が心配だったが、結局降ったのは、太宰治の生家を見た時くらいで、あとは、何とか当たらずに過ごすことができた。気温も25度前後でそんなに暑くは感じなかったので、過ごしやすい旅行だった。

今まで青森県に行ったことがなく、北の最果て、というイメージがあったが、津軽平野などは、緑の水田が果てしなく広がり、豊かな土地だなと感じた。それに、青森は、三方を海に囲まれていて、漁場がいくつもあり、漁業が盛んな港町がたくさんあった。

今回のツアーでは、がイドさんが、青森のことばかりではなく、岩手県や秋田県のことも教えてくれ、なんか東北3県のことが詳しくなったみたいだ。

では、行程を書いておこう。
まずは、東京駅から新幹線に乗って、岩手県の北上駅に下車。そこからバスで、秋田県を経由して、青森県の西側の白神山地の十二湖に入り、五能線に乗って、そこから北上して、津軽半島に入り、岩木山近くのホテルで泊まり、そこまでが一日目。
二日目は、太宰治記念館へ行って、津軽半島の最北端の龍飛岬に行って、フェリーで下北半島へ上陸してから恐山へ行く。
三日目は、下北半島の最北端の大間岬へ行き、仏ケ浦遊覧船に乗り、七戸十和田駅から新幹線に乗って帰ってきた。
ざっと書くと、このような行程だった。

まずは、バスの中で、岩手県のことを教えてもらう。
面積は、2番目に大きい。3番目は福島。
東北は、太平洋側から「やませ」という風が吹き荒れる。何年か前の外米を輸入した時にはこの「やませ」が吹き荒れた。
世界遺産2か所、平泉と釜石市の橋野高炉鉄産業遺産
有名人が多い。薄幸の詩人「石川啄木」、花巻の「宮沢賢治」、銭形平次を書いた「野村胡堂」、歌手の「千昌夫」「新沼謙治」、政治家の「原敬」等々
百姓一揆が多い。「南部の殿様頼りにならず」といって、仙台藩になだれ込んだ。寒さに強い食べ物が「麺」

秋田県のことは、
雪が多い豪雪地帯。横手の「かまくら」有名。
奥羽山脈があるから、「やませ」は来ない。
水田が多い。米所。大曲の花火大会は有名。年4回ある。
八森(はちもり)に「ハタハタ館」があった。それは、秋田音頭の「八森ハタハタ」というフレーズでおなじみ。
お昼は、前沢牛そぼろ弁当
 

青森県に入り、十二湖へ。
世界遺産の白神山地の一画にある、十二湖。その周りにはブナ(橅)の原生林が広がっていました。ブナは木へんに無いと書いてブナと読む。材木としては使えない木と、いう意味だ。でも、緑のダムを築き、ブナの林は明るい、そのおかげで、他の植物を育て、豊かな森を形成する。その栄養が川や海に流れ、豊かな漁場もつくられる。
十二湖の青池は、他の池とは違い、ほんとに濃い青のコバルトブルーでした。
       

次に五能線に乗る。五能線の「五」は「五所川原」の「五」、「能」は、「能代」のこと。
だから、主に、秋田の「能代」から青森の太宰治の生家がある「五所川原」まで走っている電車である。
私たちは、昔、北前舩が停泊した重要な港町である「深浦」から太宰治が「津軽」という小説で、この場所のことを書いている「千畳敷」までを乗る。
ほとんどが無人駅で、風が強いと止まってしまう線であるので、地元の人は、「無能線」と呼んでいるとか。

深浦駅の近くに、円覚寺という寺があり、そこには、船の安全な運航を願って「船絵馬」が奉納されていたり、九死に一生を得た人が、自分の丁髷(ちょんまげ)を奉納して感謝したりと、重要文化財があるお寺だそうだ。

また、深浦にある「深浦高校」は、道徳の教材にもなった「0対122」の高校野球の試合で0点のチームだそうだ。

          

この近くの鰺ヶ沢という所は、「舞の海」の出身地だということだ。
この日は、岩木山のホテルで泊まる。
津軽は、リンゴと水田の町である。岩木山の斜面には、丈の低いリンゴの木が連なっていたし、平野は、一面水田地帯であり、緑の絨毯と化していた。リンゴは全国1位の生産高で、そのほとんどは津軽平野で作られているということだ。「青天の霹靂」というコメも売られていた。
 

次の日は、五所川原の「金木」という所の太宰治の生家を見学する。なるほど立派な家だ。当時のお金で4万円、現在に直すと、8億円くらいだそうだ。
「金木」は吉幾三も出身地であり、この太宰の生家で結婚式を挙げたそうだ。
津島家の六男として生まれ、何不自由しない生活を送り、結婚もして、子どもにも恵まれていたのに、39歳で入水自殺で亡くなる。人には人の他人にはわからない何かがあるのだろう。
見学して、一番心に残ったことは、叔母のすゑさんが言った言葉である。掛け軸に書いて展示してあった。
「お前は器量が悪いから愛嬌だけはよくしなさい。お前は体が悪いから心だけはよくしなさい。お前は嘘がうまいから行いだけはよくしなさい。」
        

近くに「木造(きづくり)駅」がある。そこは目が光る土偶駅として有名らしいが、あまりにも子どもが怖がるので、目を光らせるのをやめたとか。

津軽の最先端の龍飛岬へ、石川さゆりの「津軽海峡冬景色」の歌詞の碑があった。
日本で唯一の歩行専用国道「階段国道」もあった。
         

フェリーで下北半島へ、下北半島の要の市であり、恐山の麓の地である「むつ市」に入る。
むつ市は全国で初めて、ひらがな表示をした市である。三陸の一つである「陸奥」は難読漢字であるのでひらがな表記にしたとか。
  

恐山へ。恐山は山ではなく、カルデラの底部にあたる地である。いたこの口寄せが有名だが、昔は、目の見えない老婆の職業として、やっていたことらしい。15分から20分で4千円とか
  

このむつ市には、「斗南」(となみ)という地名が残っている。
会津藩が戊辰戦争に敗れて、流された地だ。23万石から3万石に格下げになり、藩を立て直したいという夢を持ってこの地に来たが、武士のにわか農業では、作物は取れず、刀を売って生計を立てたりもしたが、廃藩置県で、守るべき藩もなくなり、逃げ出した人が多かったとか。

マグロの一本釣りで有名な「大間岬」へ行く。初セリで、2013年、「すしざんまい」が1億5540万円の値を出したことでも有名である。せっかくだからマグロを食べる。珍味も食べる。
    

仏ケ浦の遊覧船に乗って、神秘的な岩山を見てきた。大漁島と書いて「オヨとう」と読む。
      

七戸十和田駅からはやぶさ32号で帰ってくる。3時間くらいで東京駅に着く。盛岡から仙台までノンストップだ。
  

息子が駅まで迎えに来てくれて、22時半ころ、無事に着いた。
今回の旅行では、家に残した義母が心配だったが、息子たちが交代で、一日目は私が作っておいたトマトスープにカレーを入れて、2日目はウナギを買ってきてくれて、食べさせてくれたらしい。
それに、義母は自分でもカボチャを煮たり、ゴーヤを炒めたりして、おかずを作ったらしい。
私たちがいなければいないで、何とかなるということが分かった。

楽しい旅行ができるのも、みんなのおかげだ。感謝である。

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書道仲間と書道博物館へ

2017-08-15 15:55:41 | その他
平成29年8月11日(金)、今年で2回目の「山の日」の祝日、雨が心配される天候の中、まああまり暑くないほうが歩きやすくてよかったのだが、鴬谷の「書道博物館」へ行ってきた。

まずは、早めの昼を食べ、それからゆっくりと、博物館や向かいの「正岡子規庵」、慶喜の墓へ行こうと話がまとまり、駅を降りる。
少し歩くと、根岸小学校という鴬が彫刻された立派な看板がある小学校があった。
 

その道路隔てたところに、有名な「笹乃雪」というお豆腐屋さんがあった。そこは、正岡子規や夏目漱石も通った豆腐屋さんということだ。少し奮発して、2800円の笹乃雪御膳を食す。
        

豆腐もこんなにも料理の仕方でバラエティに富んだ味が楽しめるものだと思った。

残念ながら、子規庵は9月まで閉館だということで、外見だけ撮ってきた。パンフレットの写真も載せておく。
  


書道博物館へ。
 

ここは、洋画家であり書家であり、小説の表紙や挿絵(夏目漱石「吾輩は猫である」)等、また、商品の標章(「みよちゃん」味噌)等を手かげていた中村不折氏のコレクションを展示した施設である。

中国の殷時代の甲骨文字から始まり、様々な時代の石に刻まれた文字が展示してあった。

中でも、亀の甲羅や牛の骨に刻まれた甲骨文字は占いで使われたもので、その解説を見ると、晴れるのか、雨は降るのか、災いは起こるのかなど、現代でも心配しているようなことを昔も占っていたようだ。

象形文字の「子」は、〇に十を重ねたもので、その文字が増えると「子孫」を表しているという。

夏目漱石は、「吾輩は猫である」が売れたのは、表紙や挿絵が好評だったからだと、お礼の手紙を書いている。

最後に、「谷中墓地」に埋葬されている「徳川慶喜」の墓に行く。
そこでは、地元のボランティアさんなのか、この「徳川慶喜」の墓について、とてもいろいろなことを説明してくれた。本来は仏教で葬られるものを、慶喜のわがままなのか、こだわりなのか、天皇家と同じ円墳で、神道で、埋葬されている。それには、当時、寛永寺の筆頭檀家であった渋沢栄一が慶喜に慶喜の弟と一緒にヨーロッパ遊説に
行かせてもらい、今あるのは慶喜のおかげだと恩を感じて、尽力を尽くしたと言っていた。
本人と本妻の墓が並んでいて、その後ろには、側室の墓があった。右側には、長男夫婦の墓もあったが、子どもがいなくて、御三家から養子をもらったと言っていた。
    

今回もいろいろな歴史的な史実を知ることができた。特に、慶喜の墓では、1時間半くらいずーと立って聞いていたので、みんな疲れてしまった。
5870歩4キロくらい歩いた感じである。
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義母の生まれた長野・北相木村

2017-08-12 14:30:05 | 旅行記
平成29年8月8、9、10日(火・水・木)に、義母の生まれ故郷の長野県北相木村へ行ってきた。

というのも、その一週間位前から、義母が「私は人が体験しないような人生を歩んできた。子や孫に残して伝えていきたい」という言葉を受け、満州に家族で入植したこと、終戦後に引き揚げてきたこと、その帰路、父や兄を亡くしたこと、日本に戻ってきて、姉弟5人で北海道へ開拓へ行ったこと等々、義母の話を私がパソコンで打って活字にしていた。その中で、義母の生まれ故郷の地名や様子を、実際に見ていたほうが、書いたものをまとめやすいかなと思い、今回、夏休みを利用して、義母と主人と行ってきた。

また、近くの八千穂村には、30年前に、義父がプレハブ小屋を建てており、子供が小さいときには、利用していたし、義父母はキノコ採りや山菜取りによく行って、しばらく泊まりもしていた。義父がなくなり、その隣には、義姉夫婦が、別荘を建てたりして、今は全く使わなくなっている。その処分も気になっていることもあり、義姉の別荘に泊まれる気軽さもあり、行ってきた。
  

考えると、義父は60歳の時に、この小屋を建てた。屋根にペンキを塗ったり、補強を加えたりして、形的には、まだしっかりしている。立派なもんだなと感心する。

では、8日から、書いていこう。

朝の9時頃、家を出る。杖を忘れたと、取りに戻る。夜になって、薬も忘れていたことに気づいた。
まずは、中央道の長坂で下り、小海方面へ、八ヶ岳高原大橋からみた富士山がきれいだった。
   

次に、昭五伯父さんの墓へ行くため、小海に花を買いに行く。
  

途中、昔、魚釣りをした、黒沢組の前の川を見た。
  


いよいよ義母が生まれ、満州に行くまで、12歳位まで生活した、川俣へ、もう、見事、面影は何も残っていなくて、製版所の代わりに、車の整備工場があって、その建物の上あたりで生活をしていたと言っていた。
道沿いの奥には、戦いに行く人を見送った像が立ててあった。
      

そのまま、もっと奥に入って、南相木村役場方面の和田というところに、昭五伯父さんの墓がある。
  

菊原家の墓の真ん中にどんと墓石があり、その周りに、3,4家族の墓碑が立っていて、亡くなった方々が刻まれている。

夜には、義母の旧姓が「菊原」で、この苗字の由来を主人から聞く。
「後醍醐天皇が、隠岐に流されたときに、身の回りの世話をやり、その功績に、特別に菊原の姓を賜ったとか。」

次に、義母が世話になった、「おばやん」(義母の父の末の妹さん)の墓を訪ねる。栗生(くりゅう)というところだ。
  


途中、「山中鹿之助」の看板が目に留まった。どうも鹿之助のおじいさんが、相木城を作った人らしい。こんなところで、有名な名前を見て驚いた。
  


そこには、「おばやん」の息子さん、義母のいとこのひろゆき伯父さんが住んでいる。80歳とは思えないくらい、元気で、頭もしっかりしている。義母が、昔の知り合いの人たちの行方や現在の様子を聞くと、すぐさま答えが返ってくる。13世帯18人が住んでいて、選挙の投票時は、全員が投票しても、終了時間まで、投票所は開けていなくてはいけない、私は1万円もらっても嫌だねとか言っていた。なかなか面白いことを言う。
また、この栗生のおじさんが住んでいる家は、築80年は経っていて、義母が10歳くらいの時に、一番末の弟の佳六おじさんを負ぶって、初めて「おばやん」に連れられて、泊まった家でもある。
主人も小さいころには、よく遊びに行っていて、写真で見たことがある景色があった。
      

一通り、用は済んだので、2日目は、白駒池へ行き、それから温泉に入ろうと出かける。
八千穂の小屋から、八千穂スキー場を通り、白駒池へ。吉永小百合がコマーシャルしてから、ずいぶん観光化したらしい。入る時は空いていたが、出るときには、車が列になって、駐車を待っていた。
             

次の日には、雨が降って、山の上は、寒いくらいだという。丁度いい時に帰ってきた。
義母の生まれ育ったところを見ることができたり、従兄さんたちにお会いでき、また、昭五伯父さんや「おばやん」さんのお墓参りにも行くことができて、良かった。義母の生い立ちの参考にしていきたい。
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土方歳三の生家を行く

2017-08-01 09:15:11 | 甲州街道
平成29年7月30日(日)、小雨が降り続き、蒸し暑い中、甲州街道を歩いてきた。

前回、日野駅まで歩いたので、今回は、日野駅から八王子まで歩く。

何しろ、私たちもいい年で、それに、蒸し暑いのも身体にこたえて、歩いていると、足がだんだん重くなり、あまり無理をしてはいけないなということになり、八王子にあるらしい横山党の碑は、少しは探してはみたものの、見つからず、次回にすることにした。

だが、八王子銘菓、武田信玄の娘「松姫」の名前のお菓子は偶然に食べることはできた。どうも、家康は、この八王子辺りを、武田の家臣であった「大久保長安」に治めさせ、そこに住まわせたらしい。

では、今回の目玉である「土方歳三」にいこう。
多摩モノレール「万願寺」駅で下車。その近くに、生家はある。

日野の農家に生まれ、剣を志し、京都の警備を志願し、「新撰組」の副隊長になり、戊辰戦争から宇都宮合戦、会津戦争、北海道に渡り、五稜郭の戦いと、幕府軍のために多くを戦った武士「土方敏三」。その、生家を訪ねた。
だが、資料館は、第1、第3日曜日のみの開館で、残念ながら、入ることはできなかった。家の前には立て看板や銅像があり、少しは様子が分かった。一緒に戦った「名刀兼定」を見ることができなくて、ほんと残念。
     

近くに、石田寺があり、そこに墓があるというので、行く。
でも、五稜郭で亡くなっているので、亡骸は入っていないらしい。
   

途中、八坂神社があり、そこで、「天然理心流奉納額」が納められていると看板があった。天然理心流とは、近藤勇や沖田総司が習った武術である。
  

この辺りは、「土方さん」が多く、歩いていると大きな家の「土方さん」が並び、お墓もいくつもの「土方家の墓」があった。
迷いながらも、しばらく国道20号線に沿って歩く。
途中、おいしいお豆腐屋さん「三河屋」さんで休憩。ソフトクリームを食す。
目指すは、浅川にかかっている「大和田橋」。そこから八王子に入る。長らく道なりに歩く。
途中で昼食し、少し体を休ませる。
  

「竹の鼻公園」というところに「一里塚」があるというので行く。
そこでは、八王子出身の昔のお相撲さんの像があった。
     

横山町でしばらく散策するが、横山党の名残は何も見つけられず、八王子駅に到着。

甲州街道も、日本橋から八王子まで来て、前回に、ツアーで、高尾から小仏峠を上って、私たちの到着地点の相模湖小原宿まで行ったので、あと、八王子から高尾まで歩けば、本来の目的に達する。お互いいろいろ忙しいので、次回は9月中旬にした。
今回も、いろいろ知ることができた。こうやって歩けることに感謝して、筆をおこう。
22693歩(約13キロ)を歩いたことになる。


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