wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

伊賀上野、彦根、佐和山、東海道(草津宿~大津宿)

2015-08-12 09:25:41 | 東海道珍道中
平成27年8月9・10・11日(日、月、火)、このうだる様な暑さの中、夏休み恒例の東海道珍道中の旅を行った。

今回は、東海道からちょっと外れた、忍者で有名な伊賀上野、日本の国宝の城の一つである「彦根城」、それと東海道の草津宿から大津宿を歩こうと、計画を立てていざ出発をした。
 

やっぱり実際に行ってみると、得るものが多い。
行った先に、それ以外の史跡が近くにあって行くことができたり、前回に接した史跡との繋がりを感じ、驚いたりもした。

項目順に、書いてみよう。

一つは、伊賀上野で松尾芭蕉の生家があって、大津の義仲寺では、墓があった。
それは、行く前は、二つとも知らずに行ったのだが、調べているうちに偶然にも繋がった。
松尾芭蕉生家。ちなみに、「芭蕉」は植物で、バナナの幹に似ている。実は食べられなく、当時は、葉も活用していないかったので、芭蕉は自分の身と重ね合わせて名づけたという。
         

義仲寺 ここには、木曽義仲の墓もある。この辺りの粟津が原で戦って亡くなったという。芭蕉は遺言により義仲寺に埋葬された。
        


二つ目は、彦根城の近くに佐和山城があった。いずれ行きたいとは思っていたが、こんなに近くにあるとは思わなかった。井伊直弼は十四男で、まさか自分が城主になるとは思わないで、「埋れ木舎」を建ててもらって、そこで、青春時代を過ごした。「一期一会」の言葉は、この人の言葉であるという。
彦根城
                      

佐和山城
   

その隣に、井伊家の菩提寺である「清凉寺
      


三つ目は、「藤堂高虎」である。以前京都の「南禅寺」に行った時に、荘厳な山門はこの藤堂高虎が、夏の陣で亡くなった武将たちを弔うために造ったと書いてあった。その藤堂高虎が、伊賀上野城を建てたとあり、高虎の資料がこの城にはたくさん展示してあった。城作りの名手であるという。高堀が有名で、30~40メートルはあった。
藤堂高虎といえば、関ヶ原の時には、大谷吉継と対している。吉継は自分の首を家来の五助に介錯させて、相手に渡すなと言及して亡くなる。その首を埋めてる所で出会ったしまった藤堂高虎の甥は、家来の主への忠誠心に感動して、その場所を一生公言しなかったということが関ヶ原の吉継の墓の隣に碑があり、そこに書いてあった。
伊賀上野城
                  
 

四つ目は、同じように、以前行った京都で、明智光秀は、織田信長を討って、安土城に行く際、瀬田の唐橋のところで、橋を壊されて妨害された。主君を討ったことで、やはりいいふうには見られなかったのであろう。この話を聞いていたので、その「瀬田の唐橋」も見ることができた。この場所は、いろいろな歴史的な事件が起きていて、東や西を結ぶ重要な地である。
       


五つ目は、南草津の駅に降りたら、紫式部の看板が、「何かな?」と思い、観光案内所に、千ちゃんが聞きに行くと、何と近くの「石山寺」で、源氏物語を執筆したという。それで、急遽、そこからバスに乗って、行くことができた。
             


いろいろ繋がるな~。と感じる旅でもあったが、如何せんこの暑さである。
実は、草津から大津の歩きは、電車やバスを大いに利用した。無理は禁物である。

街道筋には、「露皇帝襲撃事件」の碑があった。その露皇帝を助けた人力車の人夫は年金や勲章をもらったと、大津歴史博物館で書いてあった。
  


草津宿には、有名な本陣があったのだが、月曜日ということで、拝観できず。

歩いていると、「常善寺」がある。そこでは、徳川家康が、関ヶ原に勝ったあとに、宿陣したところである。また、街道には、「急がば回れ」の語源になったところもあった。琵琶湖を通って、船で行くと近いけど、波が高くて出航しないこともあって遠くなるということである。
         


一日目の泊まったホテルにはこんな写真が。幕末の有名人の列挙である。
 


3日目には、大津京跡、膳所城跡、三井寺義仲寺と、電車を使って有名どころに行ってきた。

膳所城跡。名手藤堂高虎の築城である。
        


大津京跡(近江京)
       

三井寺(園城寺)。天智・天武・持統の三天皇が産湯を使ったということからこういう名前になったという。
    


でも、まだ観るところはありそうなので、次回は、大津を見てから、いよいよ京都三条大橋まで歩こうということで、今回の旅が終了した。

一日目   5302歩(約6キロ)
二日目  24139歩(約14キロ)
三日目  11456歩(約6.8キロ)

いつも思うことだが、歴史の繋がりを甚く感じた旅でもあった。

また、こうやって歩けることに幸せを感じ、家族や周りのことに感謝して、やまない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛鳥、室町、戦国、幕末、盛りだくさんの歴史旅・京都大阪

2015-08-07 10:21:53 | 旅行記
平成27年8月4、5、6日(火水木)の三日間、うだるような暑さの中、京都大阪へ、いろいろな時代の歴史の旅へ行ってきました。

京都までは新幹線、京都でレンタカーを借りて、予め調べておいた、行きたい場所の住所を入力して、京都の嵐山の方から南下して、大阪の東側から南の方へと3日間かけて行ってきました。
 


車の中は、エアコンが効いているから快適でしたが、一歩外へ出ると、この暑さ。寺や神社は木々が多いからセミの鳴き声も半端じゃないくらい響いていたし、少し歩いただけで、いっぺんに汗が吹き出で、直射日光に当たると肌が痛い感じでもありました。でも、この暑さの中、どこの場所でも観光客が多く、しかもアジア系、欧米系の外国人がたくさん歩いていました。

自動車で走っていると、カーナビに甚く感心した。知らないところでもこうやって行けるのは、カーナビのおかげである。日々進化しているようで、渋滞情報や違うルートを示すのはもちろん、急発進したりすると、優しい声で諌めてくれたり、長時間運転すると
「そろそろ休憩は」と、運転者を気遣ってくれる。
「隣にいて、文句ばかり言っている誰かさんとは大違いだ」と、聞えよがしに言っている人もいた。

大阪は駐車車両が多くて、左車線では走らないほうがいいなと感じた。突然割り込んでくる車やバイクもあり、大阪のイケイケ気質があるのかなと思った。

当たり前だけど、京都大阪は、歴史の宝庫である。古の都でもあるし、戦国の舞台にもなったところでもある。至る処に史跡あるである。

今回の旅行で一番は何かと聞かれたら、戊辰戦争の傷跡を目の当たりに見たことである。

京都の伏見区に淀古城跡を探していて、「妙教寺」に碑があると偶然に聞いて、行ってみたら、何とそこには、本堂に穴があいてあり、砲弾が本堂を貫通した痕があった。薩長軍と幕府軍の戦いの中で、東軍の慰霊碑がその寺に建てられてあったので、憶測だと、逃げ込んだ幕府軍に薩長軍が攻撃し、その弾が流れ込んだと思う。偶然にも、夏の陣で散った淀君が秀頼を生んだ城と幕府軍が滅んだ戦争とがこの寺に歴史の痕跡を残しているとは、全くもって不思議であった。
     


では、順を追って書いておこう。
今回はたくさんあるので、行った場所と、写真を貼り付けるだけの簡単なものにしよう。

一日目。
最初は、京都の渡月橋。何年か前に浸水した橋だが、石で作られていたからか、流されなかった。駐車場代が一時間くらいしかいなかったのに1200円もかかったことが思い出に残った。
   

次に、1339年、吉野で亡くなった後醍醐天皇を弔うために、足利尊氏夢窓国師に開かせた寺、天龍寺。庭が有名だそうで、本堂から庭を眺望することができた。
       


「弥勒菩薩半跏思惟像」で有名な広隆寺へ、一切の悩みや苦しみをいかにして救おうかと考えているお姿の、この仏像を見ていると、何とも言えぬ心穏やかな気持ちにさせられる。
   


この辺は、太秦で、昔、秦氏(はたし・渡来人)が大陸から渡ってきて、ここに住み着いた。秦氏を祀っている神社「大酒神社
  

歩いていると、「太秦映画村」入場料が2500円くらいかかるので、パス。
 


室町時代の1482年8代将軍足利義政による建立された、「銀閣寺
      

南禅寺の山門はすごかった。これを壮厳というのか。
    

一日目は、ここで終了。ホテルオーサカに宿をとっているので、行く。このホテルは駐車料金が高いので、予め近くのコインパーキングを調べておく。夜7時から朝7時までで、300円というのがあり、その通りであった。安い。

二日目に入る。

夏の陣の時に秀忠が本陣を置いたという「忍陵神社」(しのぶおかじんじゃ)
     

日本と朝鮮半島の歴史がよく分かった「百済王神社」と「百済寺」へ。
寺は跡しかなかったが、神社には歴史がよくまとめてある資料があった。
                   

大阪の東側にある「四条畷資料館」へ行く。ボランティアの方が説明して下さり、弥生時代のミイラや一枚の板を大人7人くらいで持ち上げなければ持ち上がらない重い板で作られている木棺を見ることもできた。また、この辺りの殿様、三好長慶はキリスト教を信仰し、それに仕えていた家来や農民らもみんなキリスト教を信仰したそうだ。後にキリスト教が禁止されても隠れて信仰していた人がいたのか、家を壊すと壁の中から十字架が出てきたエピソードもあったという。田原城主の田原レイマン(洗礼名)は織田信長に会見しているそうだ。
   

近くの「石切神社」へ。ここには石切場がないのに、何故こう言うのかというというと、一説には、イエス・キリストを文字っているのではということも言われているそうだ。大きくて、立派な神社で、何人も、お百度参りをしていた。ご利益がある神社と親しまれているそうだ。
     


72歳で亡くなるまでの40年間くらいここで住んでいたという「司馬遼太郎記念館」
へ行く。趣味や楽しみをあまりなく、資料を読むことが楽しみの一つでそれに没頭した司馬遼太郎、3万冊を超える資料が所狭しと立てかけられていた。一冊の本を書くためにトラックいっぱいの本を買いあさったと主人が言っていた。なるほどと頷ける。記念に「21世紀を生きる君たちへ」を買ってきた。
      

いよいよ聖徳太子ゆかりの寺へ「大聖勝軍寺」「叡福寺」(えいふくじ)
叡福寺の聖徳太子の墓は見事であった。天皇家のご先祖でもあるのだから、宮内庁が管理しているのだ。
                

近つ飛鳥博物館は建物行政の弊害だと感じた。誰が行くのかな。
     

楠木正成の像とお墓がある「観心寺」。でも大雨が降ってきて、それに5時も過ぎたので、像だけ外から見た。大江広元の子孫がこの寺にいて、楠木正成と関係があったことから、ここに供養されたと主人が言っていた。
  

大雨のあと、すぐに雨が上がって気温が高くなったので、道路から湯気が出ていた。

楠木正成が立てこもった「千早城」。上まで登らずに途中でリタイア
  

降りてくる途中に、楠木正成が最初に立てこもった城「赤坂城」を通った。棚田百選に選ばれるほど、上まで登ったら、見事な棚田が広がっていた。
    

ここで、2日目が終了。昨日と同じところに連泊。

いよいよ三日目。
京都伏見の男山にある源氏の神社である「岩清水八幡神社」へ行く。
さすが源氏の大元締めの神社である。
昔、ここの神人(じにん)が、荏胡麻を油にする技術を発見して、大儲けして、豊かな土地柄なんだそうだ。斎藤道三はこの油売りに養子に入り、一世を風靡できたとか。
また、エジソンがここの竹を使って、電球を発明できたことからエジソンの記念碑が建っていた。「宇宙桜」なる木もあって、若田光一さんが宇宙に持っていった種を植えたそうだ。なかなか粋なことをする。
      


淀城」は堀だけを見てきた。
  

「淀古城」は「妙教寺」に牌があるだけだったが、最初に書いたように、戊辰戦争の傷跡が生々しく残っていて、驚いた。この辺は伏見区で「鳥羽伏見の戦い」が繰り広げられたところである。今は、大きい道路や住宅が立ち並んでいるいるけど、ほんの150年位前には、何もない田園地帯が広がっていたのであろう。
      

本能寺の変後、秀吉と光秀が戦った「天王山の戦い」(山崎の戦い)の舞台である「大山崎町歴史博物館」へ行く。
ここでもボランティアガイドの方が、詳しく話してくれた。
この地、大山崎は、天王山が淀川へ最もせり出した場所で、その自然の関門とでもいうべき地形から、日本の東と西を結ぶ交通の要衝として古代から発展してきた。
光秀は信長を討ってから、安土城に入り、兵を整えてから、西に動きだした。平野で戦うのは不利だということで、天王山の山が舞台となった。

秀吉は光秀を討ってから、天王山の上に、山崎城を建てて、大阪城に住み替えるまでの2年間を過ごしている。有名なお茶室「待庵」を作り、千利休らを呼んでお茶会を開いている。その茶室が残っているそうだ。
 

また、この場所は「マッサン」のサントリーウイスキーも作られている。川が流れ、山からの水もあり、適しているとのことである。
   

この山崎の地は面白い。また行って見たいところである。

安土桃山時代の「桃山」の代表の「伏見桃山城」へ行く。ネームバリューはとってもいいが、実際行ってみると、城が二つ建ってあって、説明看板もなければ、城の中に入って見学もできない。せっかく大きな城が建っているのだから、もう少し考えて欲しいものである。これも役所仕事なのかな。
    


暑い暑いと言いながらも、こんなにたくさんの史跡・旧跡を見ることができて、実際の場所に行くことができて大満足である。
いろいろ計画してくれた主人に感謝感謝である。

帰ってから、歴史が好きだろうと私が勝手に思っている息子に「あなたは何時代が好きなの?」と聞いたら、少し考えてから、「時代ではなく、その歴史的なことのあった背景を考えるのが好きだ」と曰(のたま)った。なるほど。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする