wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

雲霧城(掛川城)と出世城(浜松城)2日目

2013-01-26 18:36:29 | 東海道珍道中

2日目。朝はゆっくりと待ち合わせて、朝食のバイキングに行く。バラエティ豊かな食材で、美味しかった。お決まりのように少しずつ全種類を食べてきた。ただ、ゆで卵は前回のホテルの方が美味しかったかな。

ホテルを出て、改めて浜松駅付近

を見て思ったことは、道路が広くビルが立ち並びキレイに開発された町だということである。。徳川譜代の領地であり、楽器やバイクの街でもあるので、財政が昔から豊かであったのだろう。そういえば本田宗一郎創立のお店には、当時の息子との写真が大きくウインドウに掲げてあったっけ。

まずは、安藤広重が描いた馬込橋方面へ歩く。浜松の観光案内所に行って、場所を教えてもらってから行く。聞いたほうがロスがなくていい。これは何回も歩いていくと身に付く知恵である。
着いてみるともうほとんど面影を残していない。中心に描かれている松?なんかも全く見当たらない。でも、私たちは「この辺から見るとお城も視野に入るから、きっとここまで下がって?描いたんだね」などと、にわか研究者になって、満足気である。
   


そこから、いよいよ浜松城へ歩く。浜松城は市の中心にあり、どこからでも天守閣が見えて、分かりやすい。でも、幹線道路を横切らせないで、地下をくぐらせていて、歩行者にとっては、特に年配の人にとっては階段が多くて歩きづらいのではと思われた。

浜松城は公園の中にあり、天守閣の中に資料が展示されていて、それをじっくり見ることが出来た。また、そこでも詳しく説明してくれるスタッフの方が常駐していていろいろ教えてもらえることができた。
石垣は昔のままだという。家康を関東に移したあと、家康領であった東海の各地を秀吉腹心の武将に配置する。この浜松城は、堀尾吉晴が入城し、高く高度な石垣づくりや天守台を造ったとされる。
   


入ってすぐのところに、鎧が展示してあり、それは家康が使っていたものと同じ形であるという。本物は久能山にあるという。これを聞いて二人ともいつかは久能山も行かなくてはと思った次第である。
家康が亡くなってからも毎年この鎧を上座に置き、新年を祝ったとされる。また重要な会議はこの鎧の前で行われたともされる。死んでもなお威霊を放っている。
    


展示の資料を見ていると、家康にとって「三方ヶ原の戦い」が重要なキーポイントだということがわかる。

1572年、武田信玄に惨敗した戦いである。浜松城を奪いたい武田信玄は、わざと浜松城を突っ切り、三方ヶ原の方へ移動する。家康は家臣の反対を押し切って後方から信玄を追撃しようとするが、それは徳川軍をおびき寄せる戦略で、まんまと家康はそれにはまってしまって、ほうほうの体で逃げ帰る。その時に隠れた神社「浜松八幡宮」にも行って、家康公が隠れたとされる大きな木も見てきた。
家康は数多くの戦いに挑んだが、大きな負け戦はこの戦いだけである。この敗北を忘れないために、「しがみ像」を描かせ、慢心を自戒したと伝えられている。
    


家康は29歳から45歳までをこの浜松城で過ごす
1590年の秀吉が小田原攻めで勝利を収め、今まで北条が持っていた領地を家康に引き渡したので、そこから家康は関東一円を手に入れて、江戸城を本拠地として活動していったのだ。

また、家康は正室だった築山御前と長男の信康を織田信長に自害させられている。どうも武田と密約を結んでいると疑われることをしていたようだ。信康の奥さんは織田の娘で、旦那さんを裏切って、お父さんに報告をしていたそうである。戦国の世は、身内も何もあったものじゃないな~。

築山御前を祭っている「西来院」にも行ってきた。藤の木が見事だった。
  


浜松城に展示してあった資料を貼り付けておく。
           


浜松城を出て、2代目将軍 徳川秀忠公の誕生地で、産湯に使った井戸に行く。なぜお城で産まなかったというと、正室がいたので、家臣?の家で産むのが習わしであったという。
  


道に迷いながらも、浜松八幡宮に行き、ここでは結婚式が行われていた。

途中、椿姫観音が祭ってある神社?があった。
それは、今川義元が桶狭間の戦いで負けて逝ってから、家康が浜松に攻めてきて、浜松城の前身の引馬城の女城主がお田鶴で、降伏を受け入れずに、待女18人と戦い、見事に討ち死にをした。それに感動した家康が作ったとされる。
   


それから、引馬城跡にいって、浜松駅に戻った。
    

浜松は、うなぎが有名なのは周知のことであるが、こうもうなぎ関係の弁当やらお菓子やらが並んでいるとは驚きだ。私たちもお土産にうなぎせんべいを買い、帰りの新幹線で、うなぎ弁当を食べようと買い、家族にもうなぎ弁当を買って、帰路につく。

いつものように、こうやって好きな歴史に触れ、楽しい時間を過ごせたことに感謝をして、終了する。

万歩計は31277歩  約18キロ歩いたことになるが・・・
(これがどうも信頼できない)

コメント (2)
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雲霧城(掛川城)と出世城(浜松城)

2013-01-20 09:29:37 | 東海道珍道中
平成25年1月12日・13日、3連休を利用して、東海道53次の続きを行った。
運がいいことにこの2日間は、ウオーキングには絶好の日和であったが、次の日はあの大雪である。天は我らに味方したと胸の中で叫んだ。

今年初めの歴史探訪は、家康が掛川城に逃げ込んだ今川氏真を攻撃仕掛けた際、井戸から立ちこめた霧が、城をすっぽりと覆い隠し、攻撃できなかったという伝説が残っている、別名「雲霧城」と呼ばれている掛川城と家康が天下統一を果たしたことや歴代のこの浜松城主になった大名が重職である大阪城代や京都所司代・寺社奉行等に登用され、「はま松は、出世城なり、初松魚」とうたわれている浜松城に主に行く。

また、今回から、安藤広重が東海道53次の浮世絵を描いた場所を探して行ってみようと、計画時に話し合った。全部は難しいが、掛川の大池橋のところと天竜川の川越のところと浜松の馬込橋から浜松城や三方ヶ原を望んでいるところの3箇所に行ってみた。ほとんど面影を残していなかったが、唯一天竜川は、昔もこうして流れていたのだろう。川幅の長く、流れが速そうな、昔「あばれ天竜」といわれていたのがわかる風情であった。
  


   


   


では、順を追って、詳しく残しておこう。

今回はリッチに新幹線で、掛川まで行ってしまう。新横浜から約1時間30分で掛川に到着。富士山を見るために進行方向の右側に座り、見事な勇姿を拝むことができた。


まずは、掛川城である。
実は前回、掛川まで来て夕方になってしまって中には入れなかったが、今回はじっくり中に入って見ることができたし、スタッフの方にたくさん説明を聞くこともできた。
それに、将棋の対戦がこの城内の二の丸茶室であるということで、この日は特別に二の丸にある御殿(城主の公邸・藩の役所・江戸時代後期に再建された建物、日本に数箇所しか残っていない、そのひとつが川越城の御殿・重要文化財)でお茶が飲むこともできた。
いろいろなラッキーが重なった。

長い急な階段を上ると、掛川城入口につく。まず、そこにある井戸のところで、スタッフの方が、「雲霧場」の由来を話してくれた。
それにこの掛川城は復元した城で、昔と同じ位置に当時と同じように木造で建てられており、石垣も残っている。こういう条件を満たしたものだけが復元した城ということができるという。掛川城は日本の中でも珍しい城の一つであるとされる。
   


細君千代の内助の功で知られている山内一豊は、長浜城からこの掛川城に移り、関ヶ原の戦いの功績で高知城に移るまでの10年間、この城に住んで、天守閣や御殿を造ったとされる。また、高知城に行った時にも、この掛川城と同じものを造らせたという。高知には掛川町という地名があると言っていたが・・・
城の壁に鋭い棒が何本も出ている。これはしのびがえし(忍者返し)といって、忍びを入らせないためのものだる。
 


余談だが、山内一豊がこの掛川城に移ってきたのは、秀吉が小田原攻めで後北条を破た時、今まで北条が持っていた領土を家康に渡し、東に移らせた。家康が今まで持っていた土地は、それは浜松城にいた時に領土を拡大して持っていた駿河や遠江等の土地なのだが、秀吉に献上したという。そして、秀吉は有力な武将たちに掛川城は山内一豊に家康対策として城に入らせ守らせたということらしい。

また、関ヶ原の功績というのは、掛川城から10キロ位東に行ったところに久延寺(きゅうえんじ)という山寺がある。そこは関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉攻めの軍を大阪より進めてきた家康をもてなしたとされる。小山会議で、関ヶ原合戦を決めた家康が、東から東海道を西に戻ってくるときにも、露払い的な役割を行い、思ったよりも早く関が原に到着させたという。

細君千代は、ほんとできる人であったらしい。裁縫に長けていて、秀吉が聚楽邸に上がる時の着物を頼まれて縫って差し上げたとか節約を旨として、まな板がわりにおひつをひっくり返して使ったとかへそくり上手で夫に天下一品の馬を買ってあげたとか逸話がたくさんあった。
 


掛川城の内部の写真を貼り付けておく。
    


次に、御殿でお茶を飲もうということで行く。お茶を飲んでゆっくりしていると、さっきのスタッフの方がこちらに来られた、ずいぶん長くいたと感心して、またいろいろなことを教えてくださった。
    

武士の身分によって入れる場所がずいぶんと違うということがわかった。下っ端は中にさえ入れずに、土間で今日の仕事を聞いて、仕事に向かう。

また、お殿様がかごに乗って玄関に横付けされると、ドアが開く前に家来たちは中のところに並んでお迎えしなくてはならないから入口がいくつもあった。

畳を歩くときは、ふちは踏んではいけない。それは下から刀を刺すと、畳のところは突き抜けるが、ふちのところは固くて突き抜けない。だから私はあなたを信頼していますよという証で、畳のところを歩くのだという。

殿様や身分の上の方の方に謁見するときは、刀は右に置く。左に指すから左に置くとすぐ刀を抜くことができるから。

大名行列のお人形が飾ってあって、将軍は行列の真ん中あたりにいることが分かった。馬とかごの両方があった。また実際に使った長持ちが展示してあったが、これには衣装を主に入れているらしい。いつもきちんとした格好をしているわけではなく、普段着で歩いている時もあるらしい。お湯を沸かすやかんやご飯を入れるおひつもあった。でも戦では相手の武将の首を持って帰る入れ物になることもあると言っていた。
         


関ヶ原の戦いの資料も展示してあったので、貼り付けておく。
         


掛川城を出て、大池橋まで歩いて、安藤広重の浮世絵の場所を見て、また、掛川駅まで戻り、遅いお昼、桜えびのかき揚げそばを食べた。

掛川駅から豊田町駅に電車で行き、そこから天竜川を船でわたっている広重の浮世絵の場所へと行く。河川敷が広くて、ほんとに川の方に行けるのか、橋は渡れるのか心配しながら歩いたが、なんとかクリアできた。きれいな夕日も見ることができたし、広重もこの川岸で船が渡すのを見ていたのだろうと考えにふけることもできた。

長い橋を渡りながら、下の川を見たら、流れが速く渦を巻いていた。川幅が狭くなっている今でさえそうなのだから、昔はあんな華奢な船だから、命懸けだったところもあるのではないかと思われた。

天竜駅まで歩き、そこからはホテルの予約を取っている浜松駅まで電車で向かう。

ホテルといえば、千ちゃんがいつも予約をしてくれるのだが、また、一日間違え事件があったのだ。朝、余裕を持って駅についてコーヒーを飲んでいて何気なく、ホテルの予約表を確認したら、明日の日にちになっていたという。慌てて連絡して事なきを得たということを朝、顔を合わせるなり教えてくれたっけ。二人して、時間に余裕を持って行うとこういうことも訂正できるねと確認した次第である。よかった。よかった。だが、きっともう一回はあると思う。

あまりお腹がすいていないので、確か掛川城に行く前に、駅の観光案内所に行っていろいろなパンフレットをもらい、近くのお店にメロンパンが美味しそうに並んでいたので、また名物だというんで、食したし、桜えびのかき揚げそばもボリューム感があったし、お抹茶についていた和菓子も食べたのであまりお腹がすいていなかったのだ。なので、この日の夕飯は、コンビニでおにぎりやサンドイッチやサワーを買って軽くすました。板東英二が出ていない、私の好きな番組の一つである「世界ふしぎ発見」を見ながら食べたが、二人とも疲れたのか、目がトロリンとしてきた。早めに床に入る。

2日目。朝はゆっくりと待ち合わせて、朝食のバイキングに行く。バラエティ豊かな食材で、美味しかった。お決まりのように少しずつ全種類を食べてきた。ただ、ゆで卵は前回のホテルの方が美味しかったかな。









 
コメント (4)
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