wakuwakuな生活

徒然なるままに、楽しいことをわくわくするようなことを載せていきたいです。

「法然と親鸞 ゆかりの名宝」展に行ってきました。

2011-11-26 14:29:26 | その他
平成23年11月19日(土) 過ごしやすい秋のひととき、久しぶりに三人で文化にでも触れようよということで(だいぶ前から計画はしていた)、この日大雨が降る中だけど、仲良しおばちゃん三人組で、上野公園の中にある東京国立博物館へ、行ってきました。
  


行く一ヶ月ほど前に、朝日新聞にこの法然と親鸞のことを梅原猛さんと五木寛之さんが記事に書いていて(みなちゃんがわざわざ切り取って千ちゃんに持たせて渡してくれた。ありがたい)、その中で梅原さんが「親鸞は源頼朝の甥である」と言っていた。親鸞の母とされる吉光女は、源頼朝の父、義朝の娘だったとある。当時、権力を握っていた平氏は源氏にかかわる人間を厳しく追及していた。もし、親鸞が源氏の大将源義朝の孫であったとすれば、出家する意外、生きる道はなかったとする可能性が高いというのである。

私は以前、頼朝が流された伊豆の「蛭が小島」や平氏と戦う(富士川の戦い)ために関東武士団を率いて越えたという「足柄峠」に行ったりして、また、千ちゃんに借りている本「曾我兄弟の密命」でも頼朝のことが書いてあって、このところ頼朝のことには少し興味が湧いていた。だから今回の頼朝と親鸞が繋がっているということを知って、私的にとても強い衝撃を受けた。

そして、今回展示されていた重要文化財で法然の一周忌に弟子たちが建立したとされる「阿弥陀如来立像」の中には、4万6千人余の多くの庶民らの名が書かれた紙が発見されて、その中には源頼朝や平清盛の名前が連ねられていたということである。身分は関係なく万人を救おうという法然の教えが投影されているとされるが、弟子の一人が親鸞であるので、これは意図的に入れた可能性があるのではないかと考えられ、はたまた驚きが生じた。
 


そう考えられると、歴史はがせん面白くなってきて、繋がっているなーと、つくづく考えてしまうのである。

話は前後するが、私たち3人は以前、五木寛之が書いた「親鸞」を読んでいて、その時はその本の話題で盛り上がった気はするが、何年かたつとすぐ忘れる傾向があって、法然の弟子は親鸞で、また、法然の「南阿弥陀仏」を唱えるだけでみんな極楽浄土へ行けるという単純?明快な行いを踏襲し広めたくらいしか覚えていなかった。だから、行きの電車でも最近テレビに出ていた五木寛之の話題になり「五木寛之って年取らないね」「もともと老けていたよね~」などと、全く関係ない話をしていたくらいである。

昼過ぎに上野に着き、有名な「精養軒」でお昼を食べようということで、大雨が降る中、不忍池隣にある、本館に行った。途中「除夜の鐘」がかかってあった。暮れの大晦日には大きな音がこの上野公園に響きわたるのか。紅葉もだいぶ進んでいた。天気が良かったらもっと景色を目出たであろうが、今回は足早に精養軒に。席はほとんど埋まっていたが、すぐ、座って食べることができた。「ハヤシライス」を食す。昔ながらの味なのだろう。有名人もきっと食べているに違いない。

座って話していると、すぐ時間が経ってしまう。今日の本分である博物館へさあ、行こう。

途中科学博物館があり、大きなシロナガスクジラのオブジェが実物大で飾ってあった。思わず説明板を見に行ったら、何と体長30m、体重120tもあるという。子どもも7mの大きさで生まれるとある。海の中にはこんな巨大な生き物が存在している。おそるべし。

国立博物館は、宣伝効果なのか、やはり混んでいた。老若男女、日本人って本当勉強好きである。何と私たちもその中の一人で、わざわざ説明をしてくれるヘッドフォンを借りて、それを付けて観覧した。難しい話も知ったつもりになって進んでいく。

時は平安時代末期から鎌倉時代。阿弥陀仏の力を借りて、すべての人を救おうと新しい仏教を開いた法然と親鸞。当時は、大地震や大飢饉・戦乱が続いた大変な時代で、みんなが救いを求めていたときに、「阿弥陀仏」の名前を唱えれば誰でもが極楽浄土へ行くことができるとした法然の教えは、庶民に受け入られて、たちまち広まっていった。

法然はその教義書、重要文化財である「選択本願念仏集」を写すのは、弟子の中でも教えを深く理解する6人しか許しておらず、その一人が親鸞である。実際その教義本が展示されてあったが、柔らかい丁寧な筆致で、法然上人像での穏やかで柔和な(頭部はツルツルで平らな形が特徴であった)肖像が連想されるもので温厚な人柄が伝わってきた。
  

法然と親鸞の年の差は40才で、親鸞が29才の時に法然の門弟となり、流罪になるまでの6年間を一緒に過ごしたとされる。1207年専修念仏が禁止され、法然は四国へ、親鸞は奥さんである恵信尼と共に越後(現新潟)に流される。

以後2人は再会はかなわなかったが、親鸞は教えを受け継ぎ、国宝「教行信証」(浄土真宗の根本聖典)を著した。これも展示してあったが、個性的な筆致(親鸞の直筆)で、一文字一文字が大きく角張っていて、親鸞の肖像画のように眉が太くて厳しそうな人柄が字に表れている感じた。でも実際の行いでは親鸞は庶民と同じように肉を食い、妻帯も実現した庶民派である。
  

有名な「欺異抄」の一説「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」だが、その中の「悪人」を考えると、私たち凡人は、犯罪者や反道徳的な人間をさしていると思ってしまうが、そうではなく、人間は生きていくためには、他の生命を奪い、食べたり、利用したりすることから逃れなれない。そう考えると、私たち人間はこの地球上で堂々と悪をなし続けてきたのではないか、地球上に生きている私たち人間一人ひとりが悪人でありうると説いていた。また、親鸞は「私たちはすべてみんな罪人であり、その深い心の闇を照らしてくれる光こそ仏だ」と言っていると、五木寛之が新聞に書いていた。


他にも、法然や親鸞の生い立ちや生き様が絵巻によって表されていた。

また、親鸞が崇拝している聖徳太子の像も展示してあり、そこの解説では聖徳太子が夢枕に出て、私が生まれ変わってあなたの妻になるから妻帯を許すみたいな変な理屈を言っていった。そして、共に、普通の人間であると結んでいた。


おおよそ3時間、よく勉強した。最後の方は3人とも疲れて、知らぬ間に腰をかけていた。下の休憩所で一服してから、外へ。
雨のせいかもう夕闇が迫っている。













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北条氏照が築城した八王子城

2011-11-20 10:36:24 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成23年11月13日(日)秋晴れの中、国道16号線を北へ走ること、1時間。

八王子の市街地を抜け、森林総合研究所や多摩霊園等がある東京都でも西の外れの自然豊かな丘陵地、八王子城跡に到着した。

八王子城は、北条氏照(小田原北条氏4代目の氏政の弟)が、1569年頃
武田信玄に当時住んでいた滝山城の三の丸まで攻められ、落城寸前まで追い込まれたのを機に、また、甲州国境の小仏峠の守備が重要になったことが相まって、この八王子城を築き、1586年頃に滝山城から移り住んだと言われています。

この八王子城は、急峻な山地を生かした天然の要害として作られた、戦国時代末期の典型的な山城で、関東より東では、土塁で囲うことが多く、石垣作りは当時は珍しかった。関東地方の山城で石垣を取り入れたはじめての城であったらしい。


この八王子城は小高い山の上に本丸があるのだが、それとは別に、小高い山の裾野の方に、「御主殿」があり、そこが氏照が政を司ったり、生活をしていたところだそうである。なるほど、御主殿に入る道はきれいに整備されていたり、橋は立派な橋が復元されていたし、その道に沿って川が流れていて、風流な趣が施されていた。
  
 

風流と言えば、この氏照はかなりの文化人で、落城後、あまり手つかずに残っていた、御主殿跡を調査すると、中国の陶磁器の破片跡や当時の武人のたしなみであった茶道具や当時では極めて珍しかったベネチア産のレースガラス器等が見つかり、当時の氏照の生活ぶりが伺えるということである。
そのことを千ちゃんに話したら、前に行った「ガラス工芸 ディアマン・ビードロ展」で、偶然にもこの北条氏照八王子城跡出土のベネチアングラスを見かけたということである。ここでもつながった。千ちゃんの嗅覚のすごさに脱帽。

この御主殿の近くに「御主殿の滝」という、小さい滝があった。そこは秀吉が小田原城攻めをして、氏照らは小田原籠城中で、城主を欠いた八王子城は前田利家・上杉景勝らの大部隊が信濃から上州へと攻めてきた際に、この八王子城は一日で落城してしまい、御主殿にいた北条方の婦女子や武将らがこの滝の上流で自刃し、次々と身を投じ、その血で、水は三日三晩赤く染まったと言われている。今は、水の流れが少なくなって、身を投じるだけの水量がないと思うが、そんなことは言ってられないくらい切羽詰った感があった。

最後に北条氏照の墓に行ってきた。城から歩いて5分くらいのところの丘の上にあった。階段は165段。
氏照は小田原城下で切腹し、小田原駅の近くにも墓があるということである。
亡骸はどちらに?
 

  
また、本丸まで行こうとして、途中まで登ったが、断念して戻ってきた。その時の景色が良かった。


八王子の資料館は充実して分かりやすかった。
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韮山は歴史の宝庫

2011-11-05 09:17:16 | 東海道珍道中
平成23年10月29日(土) 数えること12回目の東海道珍道中を行なった。

前回は、箱根の石畳を歩いたので、今回は三島から沼津の予定だったが、三島近くの韮山というところは、千ちゃんが大変面白く読んで、私に貸してくれていて、途中まで読んでいる「曾我兄弟の密命」(天皇の刺客)の舞台となっている付近の地であり、源頼朝が平治の乱後に流された蛭ヶ小島(ひるがこじま)のある地でもある。その本にも頼朝が流されているときのことも詳しく書かれている。現に鎌倉時代に執権として活躍した北条氏の館の跡もあった。
私たちは迷いもなく、今回は東海道から少し離れたが、韮山の地を歩くことにした。

果たして正解であった。韮山は蛭ヶ小島だけでなく、江川太郎左衛門というこの私たちが今住んでいる相模の国も治めていたという代官様のお屋敷があり、また、北条早雲が築城したという韮山城もあり、歴史的に大変面白く興味のあることが、目白押しである地であることを今回行って確認できた。

では、順を追って今回の珍道中を紹介しよう。

韮山までは電車でGO。2時間半はたっぷりかかって、行く。驚いたことに、小田原から西はJR東海の管轄に入るので、suicaは使えないことが分かった。いちいち窓口で精算しなければ次の電車に乗れない。まあなんと、めんどくさい。

韮山の駅は、小さく、こじんまりとしていて、トイレもない駅であった。もう、ここに降りるのは蛭ヶ小島か、反射炉か、江川太郎左衛門かなので、駅からの行き方が此処彼処に案内が示されていて、迷いもなく、まずは蛭ヶ小島への道を歩いた。丁度、刈り入れ時で農家の人たちは忙しそうに働いていた。

道路はきれいに整備されていて、源頼朝の生い立ちや逸話が歩く道々アスファルトに埋められていて、下を見ながら歩いていた。

そのアスファルトに埋められた説明板を見るといろいろなことが分かる。
頼朝は平治の乱後に、捕らえられ処刑のために京に送られたが、そこで、余りにも若い頼朝を哀れに思った、平清盛の継母池禅尼によって余命嘆願されたことによって、この伊豆の地に流されたということだそうである。もしここで処刑されていたら、歴史は全く違っていたと考えられ、この池禅尼は命の恩人であり、歴史を作った人でもある。不思議なものである。

また、この蛭ヶ島(ひるがじま)は島ではなく、狩野川の氾濫で出来た中洲の一つで、当時は湿田に囲まれた島状の地形で、蛭がたくさんいたということから付けられたという説もある。ここで頼朝は14歳から20年間も住むことになる。

つらつらと歩いていると、平らな平地の中に大きな碑「蛭ヶ小島」が。
  

この像は頼朝31歳・政子21歳の結婚当初の像らしい。

でも実は驚くことに頼朝は、政子と付き合っていながら、並行して結婚していて子供もいたのである。今では有り得ない話である。
伊東祐親の娘で、本では三女、真珠院の看板では四女と記載されていた八重姫である。それに頼朝は30才過ぎてから出来た子供でとても可愛がっていたと本で書いてあった「千鶴丸」という女児までもうけていた。
伊東家は平家方であるので、結局父である祐親に結婚を許されない八重姫は、伊東の別館を抜け出して、頼朝の身を隠す北条時政の館の門を叩いたが、既に政子と結ばれていると知っていた門番は冷たく接し、追い返してしまった。
それを悲観した八重姫はこの真珠院の近くで入水して命を絶ったということである。
  


また、この伊東祐親というのは、伊豆の東側に位置する伊東のこの辺一帯の領主である。先に出てきた本「曾我兄弟の密命」の曾我兄弟のお爺ちゃんにあたる人である。
武士の世の中は親や子どもそれに叔父や甥等血が繋がっていながらも、家を継がせるための策略は血なまぐさい。この祐親も叔父を暗殺して家を継いだいきさつがあり、それが今度はその叔父の子どもから命を狙われ、曾我兄弟が敵討ちに走る因果になる。
まあ、その経緯は置いといて、この祐親の名前を見たときに、歴史がリンクしているんだな~とつくづく感じて、驚いた。
ちなみに、政子の父時政は、この曾我兄弟の烏帽子親でもあるのである。
本当、この辺は繋がっている。

この蛭ヶ小島からは、富士山がきれいに見えた。ずーと平らな土地が続いているので、見晴らしがいい。
今回はお弁当でも買って食べようかという千ちゃんの発案で、乗り換えの小田原で物色する。「峠越え弁当」という私たちの趣旨にピッタリなネーミングの駅弁を買った。この蛭ヶ小島には休憩所があり、自由に利用できるのだが、やはり気が引けて味噌汁を注文して、お茶をもらって外の椅子で食す。天気が良くて気持ちがいいなかで、食することができで、気分は最高である。グッドアイデアありがとう。
 


次に向かったところは、最初はあまり期待していなかった江川邸である。
ところが、行ってみたら、その業績たるや素晴らしく、屋敷自体も大きく荘厳で、中には歴史的価値のある資料も列挙してあり、驚きの数々であった。

まず、入口の門のところに数々の写真。この江川邸は、大河ドラマ「篤姫」やTBSドラマ「仁」でセットとして、使われたらしい。そういえば、篤姫がお輿入れをする場面でこの門の奥の黒光りしている板張りの段差のところでみんなに見送られて籠に乗る篤姫という場面があったと思う。
  


資料館の資料によると
江川家は清和源氏のの流れをくみ、6代宇野親治が保元の乱(1156年)に敗れて、その孫が従者13人と落ち延びて定住したのがこの伊豆の国である。頼朝の挙兵の際は参戦している。その後、地盤を固め江川姓に改名した。北条早雲の伊豆進出に際し、土地を提供して韮山城を築城させ、北条氏の幕僚となる。28代の英長は、家康に仕え、代官としてこの地を統治することとなった。

江戸時代伊豆はの国はほとんどが国の直轄領や旗本領であった。勘定奉行の下で、直轄領の支配を担当したのが、韮山代官で、その韮山代官の職は、代々江川家が世襲していた。その支配は静岡の東部から伊豆地方・神奈川県・東京都・埼玉県・山梨県と広い範囲であったという。歴代に活躍した韮山代官の中で最も知られているのは、幕末に活躍した江川太郎左衛門英龍(坦庵)で、巧みな行政手腕で村々を立ち直らせたということである。

ほぼ、この英龍(36代)の業績を掲げていたと言っても過言ではない。
 


まず一番驚いたのは、国防対策にお台場等の砲台を設計したとある。
私たちがこの東海道を歩き始めて2回目の品川を歩いている時に、偶然にも出会ったのが、当時私たちのマイブームであった大河ドラマの坂本龍馬が、黒船の警備をしていた「浜川砲台」まさにその場所であった。それが何と、この江川さんが設計したとは・・・。


次にあのジョン万次郎をこの英龍さんは部下として召抱えたということであ
る。ペリー来航後海防問題の中心的役割を担っていた英龍は幕府に願い出て、万次郎を自らの部下としたとある。万延元年(1860年)海臨丸でアメリカに渡った万次郎は土産に写真機を持ってきたということである。


また、万次郎を助けたアメリカ人の船長さんとは子孫同士の付き合いが続いていて、江川氏の子孫もいれた3家族で写真が写っていた。


その他にも、鉄砲鋳造のための溶鉱炉である「韮山反射炉」を作ったり、兵の携帯食料としてのパンを開発したりしました。もちろんそこで作られた鉄製の大砲はお台場に備え付けられましたし、もしかしたら、竜馬は品川の沖の浜川砲台で警備をしながら、この英龍さんが開発したというパンを食べていたのかもしれないな~?

また、学問や芸術にも優れた才能をもった人物でした。

また、時代は遡り戦国時代、秀吉が小田原を攻めたとき、北条早雲の居城であったこの韮山城を秀吉の軍勢が包囲した1590年の戦いでの鉄砲のあとが、この韮山の代官所の裏門の門扉にくっきりと残っていた。


小田原城攻めに同行した千利休は、江川邸の庭に生えている韮山竹をみて、その下が割れているのを利用して、花を生けたという。それを秀吉の一夜城での茶会の場にこれを飾り一役をかったということである。


母屋から外に出ると、敷地には母屋とは別にお米をしまっていた米蔵があった。また、裏門ごしに見た富士山は見事だった。


たくさんのことを知って大満足で江川邸を出て、次に韮山城に行く。でも、実際は上までは行かず、下の部分を少し歩いた。
韮山城は韮山高校の近くにあり、この韮山高校の初代校長先生が何代目かの当主であると書いてあった。やはりこの江川代官の子孫は優秀な人が輩出されていて、東大教授とかもあった。優秀な人と言えば、この韮山高校はとてもレベルが高い学校で、友だちの国立大学に行っている甥御さんも高校受験ではこの学校に入れなかったと言っていた。地元に住んでいないとわからないことだ。
   


次に北条氏邸跡に行く。その途中には北条政子が産湯を使ったという井戸の碑があった。安産の伝えがあるという。
鎌倉時代執権として活躍した北条氏。1333年に鎌倉幕府が滅びると、北条氏の子女の救済と戦いで亡くなった人たちの菩提を弔うためにこの地に円成寺を建てたという。
   


最後に、北条時政が頼朝のために建てたという「願成就院」に行く。時政は伊豆の役人であり、頼朝の監視役として命ぜられていた。でも、政子と頼朝が結婚したあとは娘婿を助けて、執権となって鎌倉幕府を支える。しかしその後、政子と対立し、失脚する。墓はこの願成就院の中にある。
 


一日たっぷり韮山の歴史につかり、夕闇も近づいてきた。韮山から小田原まで、伊豆箱根鉄道で戻り、小田原で夕飯を食べて帰ることにした。昼に食べた弁当が意外と量が多く、また、一緒に買ったゆでたまごが4つも入っていて、一人2つも食べたものだから、少々お腹がもたれ気味。なので、軽目の食を探す。何と前回と同じセルフサービスで讃岐うどんを食べさせてくれる大衆レストランを発見。そこで ゆっくり今回の旅を振り返り、事の外たくさんの発見に二人とも大満足し、今回もこうやって旅ができることに感謝して食べ終えた。が、そもままスムーズには帰れなかった。

改札に入る前にトイレに行って、鏡を見ながら「帽子をかぶっていると毛が
薄いのが目立って嫌だわ。」と、私は独り言をつぶやきながら、トイレから出た。何気に、帽子を探した。てっきり帽子はバックに入っていると思い込んでいた。探せど探せどバックにない。何でも作るおばあちゃんが少々値段のはる糸で作ってくれた帽子。風が吹いても頭にフィットして飛ばされにくい気に入っている帽子。これは困った。千ちゃんに申し訳ないと思いながら、お茶をしたところに戻ってみたが、ない。そして讃岐うどんを食べたところに走って戻ってみたら、何と座っていた椅子の下に、椅子と壁に挟まるようにして、そのまま落ちていた。一見見えずらいのが幸いしたのだろう。ホッとして、安堵した。

電車に乗るまでに少し時間がかかったのが功を奏したのか、改札に入って乗るところに行ったら、丁度次の電車がロマンスカーで、600円出したら乗れるという。それでゆったりと帰ってきた。
          16722歩 約9.6キロ


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津久井城は根小屋式山城

2011-11-03 12:33:53 | 神奈川・相模原近隣の歴史・旧跡
平成23年10月23日(日) 秋の一日天気に誘われて、津久井城址に行く。

実は、この夏に埼玉県の忍城に行ったときに、石田堤防跡の公園に説明看板があり、そこに、「秀吉が小田原征伐の際、最後まで残ったのが、小田原城本陣とこの忍城、韮山城、八王子城、それと津久井城であった。」と書いてあるのがあり、それを見たときに、埼玉の地で地元の地名を見つけた驚きが頭にこびりついていた。いずれ行って確認しなければと思っていた。

津久井城に行く前に、「三増合戦跡地」へ行く。
武田信玄の時代、ここ津久井城は、小田原城主北条氏の統治下にあった。
小田原を囲んだ武田信玄は小田原を攻めきれずに、囲いを解いて甲斐に戻ろうとした。その時に、津久井城からは北条勢(北条氏照・氏邦)が出て、小田原からは北条本軍(北条氏康)が出陣し、挟み撃ちをしようと試みたが、北条本軍が到着する前に戦闘が始まってしまい、北条軍は大きな犠牲を出した戦いの地である。
   


今の東名厚木カントリークラブの敷地内に、武田信玄が本陣の印の旗を掲げた松があると看板に書いてあったので、行ってみたが、その松はもう枯れてしまってなかった。
三増という場所は見回して見ると、遠くに城山が見えるが、川があり平野が続く田園地帯が広がっていた。きっと当時も広い野っ原で戦いがし易いところだったのであろうか。
  


次に、いよいよ津久井城址へ行く。山梨県の方から相模川が流れている。その流れが、まかないきれなくなって、相模湖や津久井湖が造られたようである。その津久井湖のほとりに城山があり、そこの頂上に津久井城があった。

城山の麓に津久井湖城山公園があるが、そこに行くまでに、急な坂道を車で登っていった。そうすると、急に視界が開け、平坦な土地が広がっていた。そこが根小屋である。そこには、城主や家臣が居城し、、いざ戦いになったら山の上で最終防御をする形態のお城で、山全体が城として機能していたということである。だから、なかなか潰されないで、残っていたのであろう。

   


そして、小田原城が落城したとき、津久井城も徳川方に引き渡され、幹線街道が整備され宿場等も作られた。
 


また、城山南麓の根小屋地区にあるパークセンターでは、城山の歴史や自然はもちろん
わかるが、組紐体験が楽しめて、とは言ってもくるくる取っ手を回すだけで、組紐が出てきて、それを切り取って、お土産にできた。これはウオーキングの時にいつも使っているバックにぶら下げて記念の品にした。

小田原でもアンケートに答えて、小田原城を建てたという2代目北条氏綱の名が入っているストラップを貰えたのでそれもぶら下げている。これからもどんどん増やすぞ~

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